2021年06月30日

0057 夏越祭

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2021年06月29日

0056

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2021年06月28日

0055

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淮南子 A

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      日
      慎
      一
      日
日に一日を愼む。

その日その日に謹慎(心に言葉の意を十分を塗り込めて、外に向けての言動を控えめにする)して、
今日は昨日より、明日は今日より、と謹慎を重ねる。
それが詮ずるところ、一生を通じての修養となるのである、というのだ。

<管 見>

本来コトを行うのは、誰かのためにとか何かを期待して為す、というのではないのだ。

自ら発した因の基に努め、是非は兎も角その果は己の責であるのだ。

従って、因果律は自律のもとに努めるのは、極、当たり前のことなのである。


古代において天子が政治を執り行うに、下に仕えし者は各々のあり方で諫言した、という。

*三公九卿(最高位の三人の官職とその下での実務者の九人)は、

諫争(争ってまで諫めた)して直に正し、

*博士(学問・技術専門の官職・称号)は詩(学・技の全般)を誦(読誦・暗誦)し、

*楽官(音楽を司る官職)は箴(戒めを)し、

*師官(技芸の官職)は誦し(詩歌などを唱える)

*庶人(一般大衆)は語を伝え(伝承)し、

*史官(歴史官)はその過失を書(書物を著す)し、

*家宰(家長に代わって取り仕切る者)は、道理に反する場合は膳(食事)を取り下げる、

などしてそれとなく諫めた。


それでも古代の聖王は足らぬとした。(さらに諫言を求めた)

堯・舜・成湯・文王・武王などは、僅かばかりの過失にさえも備えを怠ることはなかった、という。

そもそも聖人であれば、己以外の善ならどんなに小さくとも必ず讃え、自身に過失があれば如何に微小であっても必ず改めるものであろう、ともいうのだ。


堯・舜・禹・成湯・文・武の諸王は、皆な天下に裏表の無い人として君主の座に在った。

その在り方は、

*王者の禮たる食時の太鼓、食終の奏楽を欠かすことなく(天・神に対する礼?)

*食後には竃(かまど)を祭って恩恵に感謝し(天・神・大自然に対する礼?)

*事を断ずるに祈ることなく(自己責任において物事を決定・裁断し、天・神に責任転嫁せず)

などを天・神から与えられた当然の職務としていたから、

それ故に、

鬼神は祟らず

*山川は禍を及ぼさず、

だったのであり、まさに高潔の極みと言える。


このような状況にあっても常に過ちが起こることをを恐れて、常日頃から己自身を反省することを怠るようなことはなかった。

このように聖人と言われる人を観てみれば、聖人の心というものはなんと小さなものであろうか。

(これは、侮りの言葉ではなく、心から崇め奉る言葉なのだ)


「詩経」に、

維れ此の文王、小心翼翼たり、昭(あきら)かに上帝に事(つか)へ、ここに多福を懐(いだ)く、と。

これはこのような聖人の姿を讃えたのであろう。

聖人は、決断を下して実行する時の言動は大胆だが、その前の段階では「小心翼翼」(臆病者)と言われるほど熟慮に熟慮を重ね、慎重に事を運ぶ過程を疎かにしないものなのだ。

つまり、「胆大心小(度胸は大きく、注意は細かく)」である。


後世、聖天子・聖王と言われた所以は、宜なるかなであろう。

だがこのように、範を示されて何千年も経ても、
*益の少ない労は、惜しみ。
*諫言より甘言を好み。
*姿・形といった、外見に拘り。
*周囲の迷惑を顧みず。
*自身のことを棚に揚げて、日々他人の噂話に明け暮れ。
*自律を基とした慎みを怠る許りか、剰え、法までも冒す。
……。
自粛生活やワクチン接種・予防の徹底次第でコロナウイルスは防御できても、
上記のような心の貧しさによる人災は、防ぐ方法は無く精神衛生に打撃的な支障を来すのである。
そして、それによる被害者は黙して語らずで、その訳は……。(知る人ぞ知る)


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2021年06月27日

0054

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2021年06月26日

0053

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2021年06月25日

0052 満月

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2021年06月24日

0051

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2021年06月23日

0050

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2021年06月22日

0049

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2021年06月21日

0048 夏至

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荘子 8

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       然   吾
       者 而 有
       邪   待
吾を待つ有りて、然る者か。
私の生活は、ただ何かの動きに従っているのかもしれない。
何故なら、人の世の行動は、大自然の力によって支配されているからだ。

以下は、影と影をふちどる罔両(モウリョウ・うすかげ)との問答である。
罔両が影に質問した。
「どうも不思議だ。先ほどあなたが歩くと私も歩き、あなたが止まると、私も止まる。
あなたが坐り、あなたが起つと私もまたその通りにする。
常にあなた次第であって、自分にはそもそも自主の志操(堅い志し)はないのでしょうか?」、
これに対して、影は答えた。
「私も同様に、また他のモノに左右されているようだ。
即ち、私()を生じさせる別の実体があり、その実体の行止坐起に従って私も行止坐起するのだ」
と、答えた。
<管 見>
勝手ながら、この問答を加筆訂正しながら、次記のように少し変えて再現してみる。
ある時、罔両が影に質問した。
「あなたをみていると、行き来したり立ち止まったり、また坐ったり起ったリという行動をみていると、誰かに動かされているみたいで、あなた自身の存在価値はないじゃないですか。
どうしてそんな主体性のない動き方をするのですか?
あまりにも節度がなさすぎますよ!
あなたが確りしてくれないと、あなたを頼りにしている私まで迷惑するじゃないですか」と、
注文をつけた。
すると影が、
「なるほど言われてみれば、確かにわたし自身が頼るところの、つまり形(人間の肉体)につき従って、その形(人間の肉体)の動くままに動いているのかもしれない。
だが、わたしがつき従っている形(人間の肉体)そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いているのではあるまいか?
ただ何も考えずに、形(人間の肉体)の変化のままに従っているわたしにとっては、何故そうなるのかも分からないし、またそうならないのかも全く分からないのだ」と、答えた。
つまり、天地間の全てのモノは大自然の力によって動いているのだ、ということなのだ。

大自然⇒空(人間の肉体)⇒影⇒罔両(うすかげ)〛、となる。

これを言い換えれば、

  罔両と影が、互いに各々自身の主体性の無さを嘆いている。

  その罔両や影が、彼らの主として付き従っている形(人間の肉体)の主体性のなさをも疑い、異を唱えている。

  また彼らの主である筈の、形(人間の肉体)自身も何かに支配されている。

* さらに、その行動をコントロールしている、精神までも何かに管理されている。

ということになる。


つまり、森羅万象は、間違いなく存在している、と思っていたが、実体がないのだ、という。


翻って、これまでの我が人生を振り返ってみると、己の心身だけを以て世を渡ってきたつもりでいた。

だけど今回の「至言」に触れ、「五蘊皆空」・「一切空」などと併せて沁み沁み味わうと、夜郎自大的な傲慢さと相俟ってつくづく己の愚かさを思い知ることとなった。


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2021年06月20日

0047

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2021年06月19日

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2021年06月18日

0045

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2021年06月17日

0044

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2021年06月16日

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2021年06月15日

0042

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2021年06月14日

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荘子 7

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         坐   立
         不   不
         議   教 
立ちて教えず、坐して議せず。

立って教えることもしなければ、議席にすわって議論することもしない。

それでいて、教えられるところが、限りなくある。

それこそが、真の教育者というものである、というのである。


<管 見>

愚生自身に限ってのことであるが、思い出の中に心から「師」と仰いだ方たちを大別すれば、

@  教員免許を有する、所謂学校に奉職する人たち。

A  上記以外の全ての人たち。

になるが、数・質ともに圧倒的に➁の方が多い。

それは時間的な長さでみれば、学校における在籍期間よりも、(広義での)社会生活は長いことは当然ではある。

けれども、決して期間の長短だけのことだけではない。


そこで、別の角度から考えてみると、

(幼児期の情操に深い影響を与えてくれた)祖父母をはじめ近親。

(遊びを通して成長させてくれた)幼い頃の先輩や幼友達。

(事の良し悪しを教えてくれた)知人や見知らぬ大人たち。

による教え・導きなどを考える時、

人の成長は、性善説でいう四端(仁・義・礼・智の芽生え)に絡んで説かれる<幼児と井戸の話し>にみられるように、Aの関わり合い(特に年少時)も然る事ながら(親離れしてからの生長期間の長さと広さからだけでなく)当然B、Cによる影響は格段に深くて大きい、といえる。


さて、

そこで、数・質共少ない@のケースの中にあって、敢えてAをも含めても生涯忘れることのできない「師」の中の「師」である人との出会いがあった。

その出会いは、その後の人生にとってもとても貴重な財産となった。


その天恵ともいえる巡り合わせから現在までも、ずっと思い続けている「師」のことを記してみたい。

その「師」とは、「窪田先生」(石川県七尾市出身)のことである。

述べれば長くなるので、詳細は端折るけれど、今回の「至言」にピッタリの「師」であった。


先生からは、教訓染みた言動を受けたことは一度も無かった。

年齢的に近かったせいもあってか、兄貴のような存在だった。

それでいて、八十路になった現在も我が心の「師」として、深く心の襞に刻まれているのである。


駑馬の呟きになるが、二十代から今日(八十路)まで心の「師」に一歩でも近づきたくて努めてきたけれど、到底及ばぬままでいる。

畢竟、今にして「窪田先生」に導かれ、そして得たことは、

「学び・学ぶ」ということは、

@  「知識・技術」より以前に大切なものの薫陶を「師」から受ける。「麻中の蓬」

けれど、

A  「知識・技術」は「師」に頼らず独学(自助努力)を以て成す。

「学問に王道無し」・「眼光紙背に徹す」・「読書百遍義自ずから見る」

それと、

「百川学海」:

〚全ての川は海を目指して流れ続け、やがては海に辿り着く。

つまり、どんな人であっても絶えず学び続ければ、何時かは大道を知ることが出来る〛であった。

<注>

百川:全ての川=何人も・誰でも

学海:目標・目的=大道=根本の道理



先生には、在学中も卒業後も一度も感謝の言葉を表したことは無かった。

今、この年になって悔やんでも悔やみきれない。

これも、愚生にとっては自業自縛の一つとして、受け止めねばなるまい。

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