2021年07月29日

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2021年07月28日

0085 土用の丑

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2021年07月27日

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2021年07月26日

洪自誠(菜根譚) B

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             好
       好  
          不  名
       利  
          殊

名を好むは、利を好むに殊(=異 こと)ならず。
<注> 殊=異⇒他と違う。

名誉を好む心は、利益を好む卑しい心と結局は同じことだ。

どちらも、好ましいものではない、ということである。


出典の「菜根譚」(後集―八十)に則ってもう少し詳しく記せば、

@   国を譲るといわれても「義」(道理)を重んずる人は断る者。

一方、

➁ 「利」に貪欲な人は、只で貰えるものならたとえ端金(小金)であっても受け取る者。

一見すると、@とAでは天地の程の差があるようだが、「欲望」という点では同じだ、という。

「菜根譚」によれば、

  天子は、国全体を統べる()ことで身を削る思いで日々を過ごす。

  乞食は、少しでも多くの喜捨を受けようとして懸命である。

二者を考えると、天地雲泥の差に思える。

だが、「欲望」を満たすという点では、同じだ、と説いているのだ。


<管 見>

愚生の思惑は、「菜根譚」(洪自誠)の趣意には沿わないけれど、

  名誉

  利益

  名利共

  技芸等の趣味

  他、諸々

などの「欲望」があっても(或いは、持っても)良いのではないか、と思うのだ。


この世にあっては、色々なタイプの人たちがいるのが人間社会なのだろう。

それぞれにあっては、相性というものが歴然と存在することは、自明の理である。

ならば、相性次第で夫々が自己責任のもとに夫々の「欲望」・「願望」などを為し、満たすならば、それはそれで良いのでなかろうか。


愚生など凡人は、無為・無味乾燥な生には、とても耐えられない。


愚生は、或る事を切っ掛けに三十歳の頃、名利にから離れた生き方を選んだ。

それでも、思わず遭遇した災厄から逃避せず努めれば、身に余るご褒美を頂戴することもある。

その時に頂いたものは、傍目には細やかであっても、愚生にとっては大きな「願望」を満たす結果となり、そのご褒美は有り難く頂戴した。

これからもそうありたい、と、今でも時に触れては懐かしく思い出し、当時のことをしみじみ味わい直している。


ただ、それを守ることが成文法()とまではいかなくとも、そこには最小限のルールというか不文律があり、それを犯してはならないであろう。

それは、上記の各種「欲望」を満たさんとして、

他者の心身に対して、

  傷つける。

  足を引っ張る。

  酷評する。

  悪用する。

など犠牲を強いてはならない、ということだ。


所謂、大きな戦いだけでなく些細な諍いであっても、そのような行為の果ては不毛な時だけでなく、負の遺産(迷惑)を遺すことになることであろう。


そして、全てに満足する人生は、先ず無いと観念することも必要だ。

どうせこの世は「泡沫夢幻」だというけど、努力もせずにそもそも無茶な「願望」を満たそうとしても、それは端(はな)から叶わぬ、それこそ夢幻なのだ。

だから、ほどほどの(粗茶でも、僅かな渋茶ほどの)味わいで満足するのが肝心だ、と思う。

        
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2021年07月25日

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2021年07月24日

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2021年07月23日

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2021年07月22日

0079 大暑

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2021年07月21日

0078

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2021年07月20日

0077

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2021年07月19日

0076 土用・海の日

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淮南子 D

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      遺     守
      萬  而  一
      方     隅

一隅を守りて、万方を遺(わす)る。

<注>万方: あらゆる方面。すべての方面・種々の方法・全ての手段。


<管 見>
一か所或いは一面・一方の隅だけに神経を集中していると、その他のことがお留守になってしまう。
つまり、一部のみに集中していると全体を把握することができず、失敗・危険等を招いたり、災厄などの場合には周章狼狽するばかりで、咄嗟の行動に支障をきたす結果となる、というのだ。
然も度し難いのは、その悪い影響・結果は、無関係な人たちをも巻き込むのである。

ソクラテスの言葉に「無知の知(自覚)(人間は、広く・複雑なこの世を知ることは容易ではないのに、全てを理解していると過信しがちだ)というのがある。
言い換えれば、「自分自身が無知な状態であることを自覚する」ということで、人としてその年齢に即したまともな言動を知り、身に付けることに努め、実行できるようになれ、というのだろう。

ところで、「無知は幸せ」という言葉は、よく世間で言われ耳にするけれど、
  「当人」自身は幸せなのかもしれない。
だけど、
  「当人」以外には大変な支障(迷惑)を及ぼしている。
なのに、「当人」には加害者意識というものが皆無なのだから、手に負えない。

また、「無知」というほどでもないが、身近な「小智()の者」を例に考えてみると、一般常識からすれば、「おらが村の雑草の蔓延った丘(おか)」が、気高い富士山だと思い込んでいるのに似て、その様は滑稽さ・阿呆らしさを通り越して哀れすら覚える。

とはいえ、周囲は「忠告が仇となる」ことを周知なので、誰も当たり障りなく接している。
そのことも知らずに、当人は皆と和合どこらかリードしているつもりなのだ。

だから、陰で顰蹙を買っても、平気で同じことを繰り返して憚らないのである。

類語に、「近視眼的(発想・考え・判断・・・)」・「木を見て森を見ず」という言葉がある。
ある微小な部分のみで考え・判断・実行すれば、結果は火を見るよりも明らかであろう。

愚生のつむりの髪は、かなり以前から床屋に行かず自分で剃るけど、それも十日に一度位だ。
なので、「おらが村の丘(おか)」を「他山の石」として、「心の乱れ髪」を剃ることに努めたい。


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2021年07月18日

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2021年07月17日

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2021年07月16日

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2021年07月15日

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2021年07月14日

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2021年07月13日

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2021年07月12日

淮南子 C

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        不   知
        知   遠
        近   而
遠きを知って、近きを知らず。
遠方のことは解っていても、手近なことは解らない。
他人のことはよく見えるけど、自分自身のことは見えない。

<管 見>
見る・聞(聴)く、ということについて考えてみると、他人の出来事は冷静に見たり聞いたり出来るのに、自身のことになると沈着冷静にとはいかない。
特に、いざという時とか、咄嗟に判断して言動しなければならない時には、普段通りの自分らしさが果たしてどれ程取り出されるか、となると些か心細い限りである。


特に自分自身の全てを見るということは、先ず不可能であろう。

また、自身の話していることを冷静になって聞くということも、容易ではない。


即ち、見る・聴くができないのだから、他の感覚も然りだ。

特に省みる事の無い人は、自ら或いは身近なヒト・モノ・コトについての正確な実態を把握できていない。


それなのに、一番困るのは手前勝手な性分を直そうとしない。

それどころか、足元も見ずに流行もの・ブランドものなどを追い、その質より名で求めたりする。


また、佞人しか認めないのに、自身は有能だと何処までも誇って憚らないという、自己中心的な生き方を捨てきれないという厄介な輩もいる。


「自分の盆の窪は見えず」という言葉がある。

然し、エゴイストは「己の心身全体は見えず」或いは「自らのことは見て見ぬふり」なのだろう。


やはり、ただ馬齢を重ねるだけでは駄目だ、ということだろう。

人それぞれには、得手不得手はあろうし、能力にも各々の差は当然あるだろう。
でも、どんな時にも日頃努めを怠らなければ、一升瓶には一升しか入らないけれども、さてという時にはその一升瓶分の力が己の身や、人様のために働き、凌いでくれる筈である。

所詮、自身のことを正確に把握でないのであれば、中身を満たすことに日々精進するしかあるまい。

それを信じて、己の道を歩き究めようではないか。
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