2021年07月05日

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淮南子 B

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        容   蜂
        鵲   房
        卵   不
蜂房(ほうぼう)は鵲卵(じゃくらん)を容(い)れず。
<注>
鵲(じゃくーかささぎ):烏に似ているが、尾が長く背と腹は白い。
           全長は46センチほどで、烏より小さい。

蜂の巣の小さな穴に大きな鵠(こうのとり)の卵を入れることはできないように、小器には大量のもの収容できない、ということである。


<管 見>

淮南子は、上記のような例を取り上げて器量について述べている。

でも器には、大小や異形のものなどさまざまな種類があるし、また如何(多様な)なるものにも対応するには、普段からどのような心構えで臨む必要なのだろうか?


そこで、今頭に浮かぶままに任せて、以下に記してみたい。

  どんな容器(器量)であっても、働きを七〜八分目にとどめることが肝要。

健康法として、食事でも「腹八分目」・「軽めの食は長寿の源」などと言われるのは、そうでないと、内臓(胃など)の働きが十分に機能しないことに加えて、肝心なものを疲れさせてしまうらしい。

同じく頭の働きも、詰め込み過ぎは逆効果になってしまう、と心得るべきだろう。

  「兎と亀」・「蟻とキリギリス」・「駑馬十駕」などに倣い、「千里の道も一歩より」を胸に日々努めることだ。

そして、辛抱して「一生懸命」に挑み努めれば、

  真の姿が見えてくる、すると、余計(無駄)なものに振り回されず、集中して持てる力を十分に発揮することができる。

  継続していれば、やがてその真髄に触れることで、だんだん面白くなってくる。

  その姿から心を慮る廉直な心の持ち主と、「相知心」が生じて支え合える

また、因と果を考えれば、

*「近道()」には、それに見合った少量の結果しか得られない。

*「遠回り()(手数をかけるほど)すれば、それ相当の結果が得られる。


巷間、後期高齢者などと言って、形ばかりの憐憫の情を寄せて由とする向きが多い。

だが、実年の本来の意は、肉体を指しているのではなく、精神にこそ意義があるのだ。


ことの序でに記せば、実の旧字「實」は、「屋内に宝がいきわたる」という会意文字なのだ。

これは、屋内⇒心(精神)に宝⇒人としての至重(尊く大切モノ)を有す、とも言い換えられるから、

満ち足りた精神の持ち主が齢を重ねても、更なる精進に努めている者を指すともいえるのである。


まだまだ、秘かにではあるけれども、挑み続けている気力に満ちている者がいるのだ。


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