不 知
知 遠
近 而
遠きを知って、近きを知らず。
遠方のことは解っていても、手近なことは解らない。
他人のことはよく見えるけど、自分自身のことは見えない。
<管 見>
見る・聞(聴)く、ということについて考えてみると、他人の出来事は冷静に見たり聞いたり出来るのに、自身のことになると沈着冷静にとはいかない。
特に、いざという時とか、咄嗟に判断して言動しなければならない時には、普段通りの自分らしさが果たしてどれ程取り出されるか、となると些か心細い限りである。
特に自分自身の全てを見るということは、先ず不可能であろう。
また、自身の話していることを冷静になって聞くということも、容易ではない。
即ち、見る・聴くができないのだから、他の感覚も然りだ。
特に省みる事の無い人は、自ら或いは身近なヒト・モノ・コトについての正確な実態を把握できていない。
それなのに、一番困るのは手前勝手な性分を直そうとしない。
それどころか、足元も見ずに流行もの・ブランドものなどを追い、その質より名で求めたりする。
また、佞人しか認めないのに、自身は有能だと何処までも誇って憚らないという、自己中心的な生き方を捨てきれないという厄介な輩もいる。
「自分の盆の窪は見えず」という言葉がある。
然し、エゴイストは「己の心身全体は見えず」或いは「自らのことは見て見ぬふり」なのだろう。
やはり、ただ馬齢を重ねるだけでは駄目だ、ということだろう。
人それぞれには、得手不得手はあろうし、能力にも各々の差は当然あるだろう。
でも、どんな時にも日頃努めを怠らなければ、一升瓶には一升しか入らないけれども、さてという時にはその一升瓶分の力が己の身や、人様のために働き、凌いでくれる筈である。
所詮、自身のことを正確に把握でないのであれば、中身を満たすことに日々精進するしかあるまい。
それを信じて、己の道を歩き究めようではないか。