2021年07月19日
淮南子 D
遺 守
萬 而 一
方 隅
一隅を守りて、万方を遺(わす)る。
<注>万方: あらゆる方面。すべての方面・種々の方法・全ての手段。
<管 見>
一か所或いは一面・一方の隅だけに神経を集中していると、その他のことがお留守になってしまう。
つまり、一部のみに集中していると全体を把握することができず、失敗・危険等を招いたり、災厄などの場合には周章狼狽するばかりで、咄嗟の行動に支障をきたす結果となる、というのだ。
然も度し難いのは、その悪い影響・結果は、無関係な人たちをも巻き込むのである。
ソクラテスの言葉に「無知の知(自覚)」(人間は、広く・複雑なこの世を知ることは容易ではないのに、全てを理解していると過信しがちだ)というのがある。
言い換えれば、「自分自身が無知な状態であることを自覚する」ということで、人としてその年齢に即したまともな言動を知り、身に付けることに努め、実行できるようになれ、というのだろう。
ところで、「無知は幸せ」という言葉は、よく世間で言われ耳にするけれど、
* 「当人」自身は幸せなのかもしれない。
だけど、
* 「当人」以外には大変な支障(迷惑)を及ぼしている。
なのに、「当人」には加害者意識というものが皆無なのだから、手に負えない。
また、「無知」というほどでもないが、身近な「小智(知)の者」を例に考えてみると、一般常識からすれば、「おらが村の雑草の蔓延った丘(おか)」が、気高い富士山だと思い込んでいるのに似て、その様は滑稽さ・阿呆らしさを通り越して哀れすら覚える。
とはいえ、周囲は「忠告が仇となる」ことを周知なので、誰も当たり障りなく接している。
そのことも知らずに、当人は皆と和合どこらかリードしているつもりなのだ。
だから、陰で顰蹙を買っても、平気で同じことを繰り返して憚らないのである。
類語に、「近視眼的(発想・考え・判断・・・)」・「木を見て森を見ず」という言葉がある。
ある微小な部分のみで考え・判断・実行すれば、結果は火を見るよりも明らかであろう。
愚生のつむりの髪は、かなり以前から床屋に行かず自分で剃るけど、それも十日に一度位だ。
なので、「おらが村の丘(おか)」を「他山の石」として、「心の乱れ髪」を剃ることに努めたい。