2021年07月26日

洪自誠(菜根譚) B

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             好
       好  
          不  名
       利  
          殊

名を好むは、利を好むに殊(=異 こと)ならず。
<注> 殊=異⇒他と違う。

名誉を好む心は、利益を好む卑しい心と結局は同じことだ。

どちらも、好ましいものではない、ということである。


出典の「菜根譚」(後集―八十)に則ってもう少し詳しく記せば、

@   国を譲るといわれても「義」(道理)を重んずる人は断る者。

一方、

➁ 「利」に貪欲な人は、只で貰えるものならたとえ端金(小金)であっても受け取る者。

一見すると、@とAでは天地の程の差があるようだが、「欲望」という点では同じだ、という。

「菜根譚」によれば、

  天子は、国全体を統べる()ことで身を削る思いで日々を過ごす。

  乞食は、少しでも多くの喜捨を受けようとして懸命である。

二者を考えると、天地雲泥の差に思える。

だが、「欲望」を満たすという点では、同じだ、と説いているのだ。


<管 見>

愚生の思惑は、「菜根譚」(洪自誠)の趣意には沿わないけれど、

  名誉

  利益

  名利共

  技芸等の趣味

  他、諸々

などの「欲望」があっても(或いは、持っても)良いのではないか、と思うのだ。


この世にあっては、色々なタイプの人たちがいるのが人間社会なのだろう。

それぞれにあっては、相性というものが歴然と存在することは、自明の理である。

ならば、相性次第で夫々が自己責任のもとに夫々の「欲望」・「願望」などを為し、満たすならば、それはそれで良いのでなかろうか。


愚生など凡人は、無為・無味乾燥な生には、とても耐えられない。


愚生は、或る事を切っ掛けに三十歳の頃、名利にから離れた生き方を選んだ。

それでも、思わず遭遇した災厄から逃避せず努めれば、身に余るご褒美を頂戴することもある。

その時に頂いたものは、傍目には細やかであっても、愚生にとっては大きな「願望」を満たす結果となり、そのご褒美は有り難く頂戴した。

これからもそうありたい、と、今でも時に触れては懐かしく思い出し、当時のことをしみじみ味わい直している。


ただ、それを守ることが成文法()とまではいかなくとも、そこには最小限のルールというか不文律があり、それを犯してはならないであろう。

それは、上記の各種「欲望」を満たさんとして、

他者の心身に対して、

  傷つける。

  足を引っ張る。

  酷評する。

  悪用する。

など犠牲を強いてはならない、ということだ。


所謂、大きな戦いだけでなく些細な諍いであっても、そのような行為の果ては不毛な時だけでなく、負の遺産(迷惑)を遺すことになることであろう。


そして、全てに満足する人生は、先ず無いと観念することも必要だ。

どうせこの世は「泡沫夢幻」だというけど、努力もせずにそもそも無茶な「願望」を満たそうとしても、それは端(はな)から叶わぬ、それこそ夢幻なのだ。

だから、ほどほどの(粗茶でも、僅かな渋茶ほどの)味わいで満足するのが肝心だ、と思う。

        
posted by 頑輝 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

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