名誉を好む心は、利益を好む卑しい心と結局は同じことだ。
どちらも、好ましいものではない、ということである。
出典の「菜根譚」(後集―八十)に則ってもう少し詳しく記せば、
@ 国を譲るといわれても「義」(道理)を重んずる人は断る者。
一方、
➁ 「利」に貪欲な人は、只で貰えるものならたとえ端金(小金)であっても受け取る者。
一見すると、@とAでは天地の程の差があるようだが、「欲望」という点では同じだ、という。
「菜根譚」によれば、
* 天子は、国全体を統べる(政)ことで身を削る思いで日々を過ごす。
* 乞食は、少しでも多くの喜捨を受けようとして懸命である。
二者を考えると、天地雲泥の差に思える。
だが、「欲望」を満たすという点では、同じだ、と説いているのだ。
<管 見>
愚生の思惑は、「菜根譚」(洪自誠)の趣意には沿わないけれど、
* 名誉
* 利益
* 名利共
* 技芸等の趣味
* 他、諸々
などの「欲望」があっても(或いは、持っても)良いのではないか、と思うのだ。
この世にあっては、色々なタイプの人たちがいるのが人間社会なのだろう。
それぞれにあっては、相性というものが歴然と存在することは、自明の理である。
ならば、相性次第で夫々が自己責任のもとに夫々の「欲望」・「願望」などを為し、満たすならば、それはそれで良いのでなかろうか。
愚生など凡人は、無為・無味乾燥な生には、とても耐えられない。
愚生は、或る事を切っ掛けに三十歳の頃、名利にから離れた生き方を選んだ。
それでも、思わず遭遇した災厄から逃避せず努めれば、身に余るご褒美を頂戴することもある。
その時に頂いたものは、傍目には細やかであっても、愚生にとっては大きな「願望」を満たす結果となり、そのご褒美は有り難く頂戴した。
これからもそうありたい、と、今でも時に触れては懐かしく思い出し、当時のことをしみじみ味わい直している。
ただ、それを守ることが成文法(律)とまではいかなくとも、そこには最小限のルールというか不文律があり、それを犯してはならないであろう。
それは、上記の各種「欲望」を満たさんとして、
他者の心身に対して、
* 傷つける。
* 足を引っ張る。
* 酷評する。
* 悪用する。
など犠牲を強いてはならない、ということだ。
所謂、大きな戦いだけでなく些細な諍いであっても、そのような行為の果ては不毛な時だけでなく、負の遺産(迷惑)を遺すことになることであろう。
そして、全てに満足する人生は、先ず無いと観念することも必要だ。
どうせこの世は「泡沫夢幻」だというけど、努力もせずにそもそも無茶な「願望」を満たそうとしても、それは端(はな)から叶わぬ、それこそ夢幻なのだ。
だから、ほどほどの(粗茶でも、僅かな渋茶ほどの)味わいで満足するのが肝心だ、と思う。