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唐 太宗 A
疾風に勁草を知り、板蕩に誠臣を識る。
<注>勁草:強い草。転じて、節操の固いたとえ。 板蕩:乱世。 (出典:詩経)
激しい風に周囲の草が倒れ伏した時になって、強い草のあるのを知る。
乱世になって、節操を守る臣下のいるのを知る。
<管 見>
厳しい風雪に殆どの草が薙ぎ倒されている中に、凛として耐える草の姿には決して生来の強さだけでなく、守るべきものを必死になって努めている精神をもが感じられ、普段は気付かなかった草だけれど、改めてその貴重な存在を知らされた。
同様に、平和な時には目立たないけれど、世が乱れた時には、
*形勢の優勢な方に鞍替えをしたり、
*さも以前からであるが如きの忠義面をして、加担したり、
*筒井順慶のように日和見的な、洞ヶ峠を決め込んだり、
する中で、普段は媚び諂いなどしない地味な鋼のようだが、終始一貫して忠誠を守る頼もしき義士の存在を、その時になって知ることになるのだ。
これは、史上稀にみる明君として名高い、唐の二代皇帝太宗の詩の前半である。
また、太宗と臣下との問答集で有名な「貞観政要」は帝王学の教範として世に知られ、今以て、(広義の意での)学びの教本の最高ランクに値し、愚生も若い頃から現在も尚、鑑と仰ぎみる書である。
今回、「至言」として取り上げたのは、臣下である䔥瑀(しょうう)に与えたものである。
隋に仕えていた䔥瑀を、隋の滅亡後に太宗は見込んで招いた有能な人材で、宰相など要職を歴任し、諸制度を創立に尽くし大いに功績を上げた、功臣なのだ。
然し、何といっても頑固一徹な性格なため、周りから好かれていなかった。
一般的には、
➀ 孤立している䔥瑀
➁ 多勢な先君(唐の創立時)からの臣下
を比較したならば、@を説諭することの方だ、と考えるのが通例だろう。
ところが、そのような言動をしないのが、太宗の偉大なのである。
太宗は、敢えて我が国で例えれば、人口に膾炙する「大岡裁き」のような捌きを行ったのである。
*前半の「疾風〜」では、前記@の䔥瑀の気骨を讃えると共に、Aの臣下たちをそれとなく説き聞かせながら牽制している。
それに対して、
*後半の「勇夫安識義、智者必懐仁」(勇夫安んぞ義を知らんや、智者は必ず仁を懐く)では、
厳格な責め過ぎを心せよ≠ニ、これまた、(@の)䔥瑀に対して諭しながら間接的に抑制することで、一方の(➁の)臣下の言い分も立てて面目が保てる配慮もしている。
名臣・諫臣で知られる魏徴(同じく太宗に仕えた)は、この詩を聴いて、
「䔥瑀(しょうう)は法を守ろうとして周囲と対立し、その節を曲げまいと孤立している。然し、太宗はそれを忠義として、また勁草に譬えて庇っておられる。このような明君との運命(出逢い・巡り合わせ)がなければ、䔥瑀は危険な目に遭っていたに違いない」
と、感想をもらしている。
この魏徴の言葉を補足すれば、太宗の機知に富んだ裁量がなければ、@・A両者の対立は解けないばかりか、剰え、後に中央〜北東アジア(日本まで)席巻した世界的大帝国の唐王朝にも負の影響を与えてしまい、その栄光の実現が成らなかったかもしれない?と思うのだが、如何だろうか。
「千丈の堤も蟻穴より崩るる」の故事成語ではないが、些細なことにも配慮を欠かさない心掛けが肝要であることを、今回も(太宗の)「至言」で学ぶことができた。有り難いことである。
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2021年09月20日
王安石 A
政治家にとって、「言行の一致」が何より大切だ、ということ。
秦は、中国最初の統一王朝だった。
その礎を築いたのが、商鞅(BC390〜BC338)であった。
彼は、法家思想を基に国政改革を、断固として推し進めた。
この「至言」は、それから約1,400年後、新法による改革で知られる北宋の王安石が、商鞅の故事に託して自らの信念を述べた言である。
<管 見>
<注>王安石による新法:民の税を軽減することを主とした、均輸法・青描法・募役法など。
今回の「至言」を含めてその前後を記すと、
自古駆民在信誠、一言爲重百金。
今人未可非商鞅、商鞅能令政必行。
(古より民を駆るは信誠に在り、一言重しと為して百金軽んず。今人未だ商鞅を非とする可からず、商鞅は能く政をして必ず行われしむ。)
つまり、昔から民衆を納得させる道は、「信頼」の一語に尽きるのだ。
そのためには、為政者の一言を守るためには百金をも惜しまないということだ。
<注>短見ながら注釈すれば、人は見える・見えないで判断する習性があることから、
話し言葉:話すそばから消えてしまう〜聞く方は確信がもてない。
財貨・金品:価値が目に見える〜示されれば、信用する。
政治家は、口外した僅かな言葉を果たすためには、多くの財貨も出し惜しみをしない。
だから、世の中の人たちが商鞅のことを非難するのは間違っている、となる。
その証拠に、商鞅は政令を確実に成し遂げ、「言行の一致」を確りと示したではないか。
商鞅の法に対する思いは、当時彼が秦の君主に言ったとされ、今も故事成語として残る、
「疑行は名はなく、疑亊は功なし」(何事も自信を持って断行すべきだ、躊躇していたのでは成功しない)で明らかであり、その後の変法改革の言行には些かの揺るぎもなかった。
この比類なき功績も、当時の独裁者であった君主や追従して甘い汁に与ろうとする諂い者たちの反感を招き、没落の一途を辿り殺害(車裂きの刑)された。
<注>疑行・疑亊:疑ったり・躊躇いながらの行動。
信念のもとに尽瘁して果てた商鞅の世時から、時代は降ること1,400年余後の北宋時代は、新法党と旧法党との間での主権争いが繰り返された時代であった。
1,070年王安石が主席宰相になった頃は、財政が疲弊していた。
新法を以て改革を目指す王安石の政策を、理解し協力・擁護してくれた神宗のもとで、圧政に苦しむ民衆のために大いに手腕を発揮して活躍した。
だが、明君神宗も旧法党らの中傷でやむなくそれを認め、安石は左遷される時もあったのだ。
中傷の因は、彼らの持つ既得権(例えば、不当な税収など)が削られて農民たちが優遇されることへの不満・怨みであった。
その後も司馬光ら旧法党らの反発の中、左遷・復帰を繰り返すが、結局、公私に亘って不運が重なり、辞任して自らの領地を寺に寄進して隠遁生活に入り生涯を終える。
不運で終えた商鞅の生涯と、それを辿るような己の人生を、王安石は重ね合わせたのであろう。