2021年09月13日

子罕_(春秋左氏伝)

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             貧         我
             爲         以
             寶         不


上記の前後を記せば、

子罕曰く、「我は、貪らずを以て宝となし、

(なんじ)は、玉を以て宝となす」。


<管 見>

上記、春秋左氏伝の「至言」(春秋・戦国時代―宋の子罕)に、愚生の短見を以て加筆し、さらに平易な表現を用いて以下に記してみたい。


ある者が、

「これは大変な宝です」と言って、宝玉を献上してきた。

所謂、賄賂の類いであろう。

それに対して、子罕は、

「私の宝とするのは、貪欲に宝玉を自分のものとしない精神こそ真の価値あるものとして大切しているのだ」

と言い、さらに相手に沿えた言葉は、

「君の宝とするのは、名利(世間的な名声と現世的な利益)ではないか」と、なるのであろう。


ただ、子罕は相手を咎めているのではなく、

「私が、その宝玉を受け取らないこと。

 君は、その宝玉を受け取りたいこと。

お互いに、それぞれが夫々を大切なものだと思っている。

そこで、夫々がその精神と行為を失うことになってしまったら、二人とも夫々の大切な宝を失ってしまう。

そこで提案だけど、お互いに自分の宝とするものを大切にしようではないか」


ところが、そのように子罕から諭されても、相手は怯まずあくまでも執拗に言うのだった。

「私のような者が、このような宝玉を持っていると賊に狙われて、命までも落としかねません。

どうか、助けると思って受け取って下さい」

そこまで言うのなら、人助けの意味から無視することも出来ない、と思った子罕は受け取った。


だが、ここからが子罕たる所以を発揮するのである。

受け取ったその宝玉を、さらに念を入れて磨かせると売りに出したのだ。

そして、その売上金をそっくり相手に渡した、というのである。

(短見:それならば、序でに子罕に依頼して信用のおける護衛者を紹介してもらい、そのお金で護衛者を雇って守ってもらうなどして、安全を確保して帰宅することができるだろう)


人には、夫々の生き方がある。

各自の生き方は、その人の自己責任に委ねるしかないのだ、と思う。


子罕の相手の立場でなって考えてみれば、たとえ子罕のような人に対してであってでも、慣用語の「朱に交われば赤くなる」のようになってはいけない。

己の生き方が正しいと自信があるならば、安易に感化されずにそれを確り守るべきだろう。

また逆に子罕の立場では、己の考えの方が絶対に正しい、と思っても自分の意見を無理に押しつけることをしてはなるまい。


特に優位な立場にある人は、大いに知恵と工夫を働かせて、今回の子罕ようにどちらも両立できる方法を捻りだすことに努めるべきだ、ということだ。


この世は恒常ではなく有為転変が必至である。

ならば、咄嗟の場面であっても、子罕のような振る舞いが自然体で実行できるためには、常々の学習に怠りがないことが大切だということを今回の「至言」で改めて学ばせてもらった。





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2021年09月12日

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2021年09月11日

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2021年09月10日

0035

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2021年09月09日

0034 重陽

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2021年09月08日

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2021年09月07日

0032 白露

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2021年09月06日

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近思録 @

37近思録 @_20210606 (8).jpg

       老    不

       而    學

       哀    便


学ばざれば便(すなわ)ち老いを衰(おとろ)う。


「学問」をしていないと、年を取って早く衰えてしまう。

「学」には終焉がないから、「学」に忠実な人には老衰はない。


<管 見>

「文武両道」という言葉がある。

即ち、文は学芸を、武は武道を指す。

ここでいうのは、学芸一般についてのことだろう。


「学」に終わりがない、とは?

現在の我々が学ぶ基を「古典」と捉えれば、その意が解けるような気がする。

洋の東西を問わず「古典」の素晴らしさは、何千年ともいわれる時代の変遷に揉まれながらも、その生命の光を失うどころかこの先も決して色褪せることはない、であろうからだ。


特に、中国古典は「焚書坑儒」などにみられるような、権力者の専横や逆境にも屈せず著した「史記」(司馬遷)・「春秋左氏伝」(左丘明)など、また幾星霜の風雨に曝されても淘汰されずに柔軟に適応してきた、その他多くの不朽の名著は先哲の命そのものだ、ともいえるだろう。


それが故に、これ等の「古典」に触れ学ぶことで、愚生でさえもそのエッセンスを取り込む努力を欠かさなければ、僅かな能力であっても心身の健康に良い影響を受けることが十分可能なのだ。

それは決して他からの入れ知恵や思い込みなどではなく、愚生の老いた心身からでさえ滲み出るような感動を覚えることからの実感なのである。


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2021年09月05日

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2021年09月04日

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2021年09月03日

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2021年09月02日

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2021年09月01日

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