2021年09月20日
王安石 A
政治家にとって、「言行の一致」が何より大切だ、ということ。
秦は、中国最初の統一王朝だった。
その礎を築いたのが、商鞅(BC390〜BC338)であった。
彼は、法家思想を基に国政改革を、断固として推し進めた。
この「至言」は、それから約1,400年後、新法による改革で知られる北宋の王安石が、商鞅の故事に託して自らの信念を述べた言である。
<管 見>
<注>王安石による新法:民の税を軽減することを主とした、均輸法・青描法・募役法など。
今回の「至言」を含めてその前後を記すと、
自古駆民在信誠、一言爲重百金。
今人未可非商鞅、商鞅能令政必行。
(古より民を駆るは信誠に在り、一言重しと為して百金軽んず。今人未だ商鞅を非とする可からず、商鞅は能く政をして必ず行われしむ。)
つまり、昔から民衆を納得させる道は、「信頼」の一語に尽きるのだ。
そのためには、為政者の一言を守るためには百金をも惜しまないということだ。
<注>短見ながら注釈すれば、人は見える・見えないで判断する習性があることから、
話し言葉:話すそばから消えてしまう〜聞く方は確信がもてない。
財貨・金品:価値が目に見える〜示されれば、信用する。
政治家は、口外した僅かな言葉を果たすためには、多くの財貨も出し惜しみをしない。
だから、世の中の人たちが商鞅のことを非難するのは間違っている、となる。
その証拠に、商鞅は政令を確実に成し遂げ、「言行の一致」を確りと示したではないか。
商鞅の法に対する思いは、当時彼が秦の君主に言ったとされ、今も故事成語として残る、
「疑行は名はなく、疑亊は功なし」(何事も自信を持って断行すべきだ、躊躇していたのでは成功しない)で明らかであり、その後の変法改革の言行には些かの揺るぎもなかった。
この比類なき功績も、当時の独裁者であった君主や追従して甘い汁に与ろうとする諂い者たちの反感を招き、没落の一途を辿り殺害(車裂きの刑)された。
<注>疑行・疑亊:疑ったり・躊躇いながらの行動。
信念のもとに尽瘁して果てた商鞅の世時から、時代は降ること1,400年余後の北宋時代は、新法党と旧法党との間での主権争いが繰り返された時代であった。
1,070年王安石が主席宰相になった頃は、財政が疲弊していた。
新法を以て改革を目指す王安石の政策を、理解し協力・擁護してくれた神宗のもとで、圧政に苦しむ民衆のために大いに手腕を発揮して活躍した。
だが、明君神宗も旧法党らの中傷でやむなくそれを認め、安石は左遷される時もあったのだ。
中傷の因は、彼らの持つ既得権(例えば、不当な税収など)が削られて農民たちが優遇されることへの不満・怨みであった。
その後も司馬光ら旧法党らの反発の中、左遷・復帰を繰り返すが、結局、公私に亘って不運が重なり、辞任して自らの領地を寺に寄進して隠遁生活に入り生涯を終える。
不運で終えた商鞅の生涯と、それを辿るような己の人生を、王安石は重ね合わせたのであろう。