2021年11月30日
2021年11月29日
孔子(論語・公冶長) ➅
下問を恥じず。
自分より年齢や地位が低い者に質問したり、教えを請うことを恥じてはならない。
<管 見>
分からないことがあったら、外連味の無い素直な心をもって聞く姿勢が大切だ、というのだ。
人は、年長・履歴・地位などにより、夏炉冬扇の如しプライドに拘ってしまったが故に、かえってその人の軽さや卑賎さを露呈させてしてしまう場合がある。
また逆に、人としての深み・人品の高潔さ・勤勉さに心を奪われてしまうこともある。
今から六十余年も前のことを記してみたい。
それは、愚生が中学時代だった時のことである。
「理科(物理)」の時間だった。
その先生(吉川?)は担任ではなく、教えを受けたのも短期間であった。
先生の印象は、痩せ型で縁なしの眼鏡をかけた、見るからに神経質そうな方であった。
柔和な感じとは縁遠い、所謂、取っ付き難い先生だったように記憶している。
ある時、質問した。
すると、暫く教科書を見たり考えたりしていた先生は、
「悪いけど、自習時間にします」
それから続いて、
「教員室へ行って調べて来るから…」と言って出て行ってしまった。
先生が戻ってきたのは、授業時間直前だった。
「調べたけど自信がもてないので、僕の宿題にくれるかい?」
と言った先生は、ペコリと頭を下げて、
「次回までには、自信をもって答えられるようにするから…」
と、済まなそうに言うと去って行った。
愚生は当時を回想する時、何時でも(子供心に)その潔い言動に爽やかさを感ずるのだ。
(質問内容や回答・解答については、記憶を辿れども蘇ることは無い)
ただ後年、この至言を学んだ折り、即座にこのシーンと吉川先生の貌(振舞い)が鮮やかに浮かぶと同時に、自身の未熟さを思い知らされた思いが強く湧き上がるのである。
自身が人を評価したり判断する時、
@ 正味がほぼ風体と一致する場合。
A 正味と風体の相違を感ずる場合。
がある。
今思えば、第一印象で吉川先生に対してAであった、と思ったのは先生の外見(クールそうな態度)から中身(非情・無情…)を判断してしまったのだ。
これは、愚生の見る目の無さが招いた大変な間違いであって、先生の誠実さや能力の高さについてはここで改めて述べるまでも無く、上記の質疑の様子で明らかであるからこれ以上は記さないことにする。
2021年11月28日
2021年11月27日
2021年11月26日
2021年11月25日
2021年11月24日
2021年11月23日
2021年11月22日
孔子(論語・里仁) D
過ちを観て、斯に仁を知る。
過ちは避け難い。
その過ちにも、
* 情けがあり過ぎて犯す場合
* 情け知らずの場合
とがある。
その過ちの仕方(行為・方法)の有り様によって、その人の真の姿が解る、というのだ。
<管 見>
八十年に及んだ人生を顧みると、確かに過ちというものは避け難いものである。
何故なら、この世の人は、等しく生かされている身であり、己れの才覚には限りがあるからだ。
ならば、その過ちを活かすことにするのが賢明、というものだろう。
ということで、その観点から考えてみたい。
そこで、知者(知識人)と仁者(徳・情・慈悲のある人・博愛者)との違いを考えてみると、
* 知者〜主義主張(特に利益の確保)を同じくする者同士の結束は固く、互いの便宜は図るが、諫言はせず馴れ合いの関係。
* 仁者〜主義主張の枠に囚われず、決して徒党を組むことはせず、要用(差し迫って要する場合)は敢えて怯まずに諫言を行う。
となる。
但し、「仁者」でも過ちを犯すことがある。
然し、その場合言い訳をせず、速やかに謝罪し改める。
躊躇わずに、それが出来るのが「仁者」なのだ。
愚生の素な姿はどうだろうか?
顧みても判然とせず、甚だ心許無い。
だが敢えて記せば、どちらでも無く中途半端な放浪人生だった、
というのが的を射ているのだろう。
2021年11月21日
2021年11月20日
2021年11月19日
2021年11月18日
2021年11月17日
2021年11月16日
2021年11月15日
孔子(論語・八佾) C
遂事(すいじ)は諌(いさ)めず、既往(きおう)は咎めず。
<起きた事は語るまい、遂げられた事は止めまい、過去の過ちは咎めまい。>
<管 見>
人の過去にどのような過ちがあろうとも、何時までもそのことを咎めだてすることはよくない、と孔子は説いているのだ。
「できてしまったことを、あれこれ言うのではない」
「やってしまった事を、ああすれば・こうすれば良かったなどと言うんじゃない」
さらに、
「これは、他人に対してだけではない」
「自分自身の過去にくよくよするのも、何の足しにもならない」
と、解き明かしている。
ただ、
喉元過ぎれば熱さを忘れる≠ナあっては、所謂、性懲りもなくの無反省では、現状維持どころか頽廃に向かうばかりである。
この言葉には、
<ところで、この失敗をこの先の人生にどのように役立てようか>
という思案(深く考えて工夫をめぐらす)するという、今後の成長を目指す前向きで積極的な姿勢が隠されているのだ。
だから、折角の成長の糧となる失敗という貴重な体験を、確り噛みしめることが肝要なのである。
過ちを生かすも殺すも、己れ次第なのだ。
この世では、永遠不変なコト・モノはあり得ない。
諸行(この世の全てのモノ)は、無常(常に変化してとどまることは無い)である。
それ故、人生行路の歩みの先には、常に岐路が現れ、選択を迫られる。
その時に、発作的・衝動的判断のもとに行動して過ちを重ねないことが必要になるだろう。
いざ岐路に立った際に正しい選択するには、
* 判断する自身が陸(正しい心)でなければならない。
* その鑑(手本)は、経験である。
経験は、過去の体験から生まれる。
但し、苦い体験だけで終わらせずに、十分に味わい咀嚼の上、自身の意見を沁み込ませておくことが大切なことで、失敗体験+心念⇒経験にして心底に保存して置く。
そして、いざという時に判断材料として活用する。
その積み重ねが、成長という形につながるのである。