2021年12月31日
2021年12月30日
2021年12月29日
2021年12月28日
2021年12月27日
孔子(論語・述而) I
學
而
不
厭
学びて厭(いと)わず
※この前後を記せば、
默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。
何か我に有らんや。黙して之を識し、学びて厭わず、人を誨て倦まず。
@ (理解したことを)黙って心に刻んで記憶し、
A学んで厭きるということがなく、
B人に教えて飽きることがない。
この三つのことだけが、自分のなし得ることで、これ以外には自分には、何の取り柄もない。
<管 見>
愚生の場合、普通の人たちが真面目に一生懸命になって、学んでいる時には怠けていた。
「人生は因果応報だ」と聞いていたが、場当たり≠ナ向こう見ず≠ネ目先だけに囚われれた性と、木を見て森を見ず≠フ愚かさの上に頑固さが加わり、短い人生を(我が世が)永遠に続くものと勘違いしていた。
名もなき雑草が、梅や蓮のような高貴な未来を確信していたようなものだった。
その悪い見本のような人生を歩んできた。
顧みると、常に社会の底辺を彷徨うような生活だった。
まさに、「苦多くて、楽少なし」であった。
そのような訳で、親に肩身の狭い思いをさせたままで終わってしまい、今でも背中には決して剥がすことが出来ない「親不孝」のレッテルを貼りっぱなしの有様なのである。
ところで、還暦とは六十年で再び誕生時の干支に還るというから、愚生の場合は2020年9月27日で二十歳になったことになる。
その還暦によって、これまでのお粗末な人生の愚生にも、遅まきながら目覚めの時が来たようだ。
それは、上記@・A・Bを考えるとき、愚生の場合は唯一Aが適している、と実感するからだ。
八十路の現在、学んで、(そして)学んでも、(さらにまた、幾ら)学んでも、決して厭きることは無いのだ。
どうしたことだろうか?
言わば、狂い咲きの態である。
孔子ほどの境地には到底達し得ないけれど、日暮れて道遠し≠フ愚生でも学ぶことの楽しさは、辛うじてではあるけれども何とか理解できるようになった。
早朝散歩と併せて学ぶことは、日々の生活には欠かせぬ存在になったのである。
随分遠回りをしてきた我が人生だったが、天は救いようのない愚生にも、慈悲の心をお与え下さったのだ、と素直な気持ちで受け止めている。
有り難いことである。
感謝、感謝、感謝…。
2021年12月26日
2021年12月25日
2021年12月24日
2021年12月23日
2021年12月22日
2021年12月21日
2021年12月20日
孔子(論語・雍也) H
仁者は壽(いのちなが)し。
仁者は外部の事情によって、己の心を動揺させない。
また、仁者という者は、
l 自然(人為に拠らず、大自然に和する生活)
l 安心立命(人事を尽くして天命に委ねる生活)
故に、自ずから長寿を保つ、という。
<管 見>
寿命については、実際の生活程度のギャップにより、下記のような種別・年代別で厚生労働省のホームページなどに公表されている。
@ 平均寿命:制限生活を余儀なくされる中、生命が尽きるまでの予測(要、介護者など)。
A健康寿命:心身が健康で自立生活が可能(介護不要者)
@ は、男性で凡そ80歳で、女性は凡そ86歳。差は、6歳。
A は、男性で凡そ70歳で、女性は凡そ73歳。差は、3歳。
これは何を意味するのか?
というのは、さて置いて、今回の「至言」でいう「長寿」とは、上記のAであることは議論の余地が無いところであろう。
だが、老いても尚、
*名利を追い求める生活をし続ける者。
*過去の経歴を捨てきれない者。
などは、上記Aであったとしても、心の健康という面では失格だと考えられる。
烏滸がましくとは思うけれど、愚生が還暦から目指してきた、またこれからも目途として自らに課しているのは、
※生涯現役の保持
※天命が尽きるまでの「challenge spirit(挑戦)精神」・「modest spirit(謙譲精神)」
である。
これを、具体的に(思いつくままに)列挙すれば、
*家内労働など自分でできることは、積極的に行い増やしていく(身体の活性化)。
*知的好奇心・学習の継続(脳・心の活性化)。
*頼らず、自力で処理する意欲の向上。
*他人を意識しない。
*「もう……」ではなく、「まだまだ……」を心掛ける。
(:戸籍上の年齢に惑わされない)
*心友との語らい。
である。
さらに、端的に記せば、「人生樂在相知心」を大切にすることであり、それを維持するための日々の努力だろう。