2022年01月31日
孟子 5
道 不
不 直
見 則
直(ただ)さざれば則(すなわ)ち、道は見(あら)われず。
過ちというものは、言葉を尽くして正していかなければ、真の道は明らかにならない。
だから、友に過ちがあれば遠慮せずに忠告しよう、というのだ。
<管 見>
今回の至言については、「孟子」を知る以前つまり、物心がつく頃から吾の本性(生まれつきの性)なのであろうと思われるが、還暦を過ぎるころまで子供・大人に限らず誰彼無しに、言動に違和感を感じた際には黙認することはしなかった。
だから、この至言を目にした時には、然もありなんと大いに首肯したものである。
だが、愚生の今回の短見は、下記の点について述べたい。
@ 改めさせようと幾度も繰り返し「忠告」をしても、その効果が全くなく疲れ果ててしまう。
A そこで、手段・方法に工夫を凝らし、根気よく尽くしても徒労に終わり、際限がない。
B それではと、心を込めて言うばかりでなく、行動(垂範)で示しても効果がない。
C 「友」とは、ただ血縁・戸籍上・級友・竹馬の友・地域・グループ・会社などを同じくすることには全く関係ない。
D 特に困るのは@〜Bでも述べたように、真心を核とした言動に細心の注意を以て臨み「忠告」しても、全く受け付けないばかりか所謂逆切れされたり、年齢や目上・目下・性別などには関係なくこれらの人たちの中には甘言馴れした輩ほど諫言をはき違えて怨みとなって反撃してくるのだ。
これらの場面・仕打ちを、愚生は今日まで言い尽くせない程遭遇し、相当の苦汁も幾たびも味わってきた。
どう考えても、身近な相互関係だけの単純なものに限らず、社会の一員としての最低の常識さえ弁えない輩は、経歴の良し悪しとか肩書などとは関係なく、見える部分という形だけを気にする者ほど偏見を振りかざしてくることが顕著であり、全く以て度し難い。
そして、この世に昔からそんな省みない者どもが、確かに存在することは厳然たる事実である。
各人が周囲を見渡して見て、それらの輩の存在の有無が確認できるかどうか、それ次第で、自らの存在が明らかになるだろう。
今回の<管 見>は、孟子の至言から遠く離れてしまい、愚生の愚痴話に終始した感が拭いきれない。
それに対する誹りは甘受するのみで、敢えて弁解はしない。
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孟子 4
謂 ヘ
之 善 人
忠 以
人に教うるに「善」を以てする、之を「忠」と謂う。
*人を教えるのに、如何なることが「善」であるか?
*その「善」は如何にして、実行するか?
を考えての仕事こそ、本当の「忠」というのだ、と説く。
<管 見>
この前後を付記すれば、
人に物を分け与えることを「恵み」と言い、人に善を教えることを「忠」と言い、天下の為の人材を得ることを「仁」と言う。
ここでの孟子の言う大意を記せば、「天下を任せる人財を得ることが如何に難しいか」なのであろうが、愚生の独断で今回は少しそこから離れて、「善」と「忠」について考えてみたい。
六書(漢字)によれば、
*「善」〜会意文字で、仁人・君子の美しい言葉にあって正理(正しい道理)に適った、完全なものなのだといい、転じて、一般に良い意味≠ニある。
また、旧字では原告と被告の発言の意が含まれ、両者が良い結論を求めるために利己心を捨てて論じ合う様から、やはり良い意味≠表す、としている。
つまり、それらから勘考すれば、道理・正道≠ネどとなるのだろう。
*「忠」〜会意兼形声文字で、中身に欠け目(不足・不完全・欠点)が無い心のこと、真心とか誠意に溢れている、などの意義とある。
ところで、殆どの辞典では「忠」(忠義)とは臣下や民衆が国家や君主に仕えること、と定義している。
だが、本来の「忠」(忠義)とは上記とは逆で、国家や君主が臣下や民衆に対して、道理を以て真心溢れる仕事(政)をすること、なのではないだろうか?
何故なら、「主権在民」の本源は、古代ギリシアの民主政(democracy)に発するからだ。
ただ、これを始まりとしながらも、今日に至るまでの間君主制など当時の権力者及びそれに与する者たちによる時代もあったことは、歴史上においても確かな事実だ。
だが、その期間に長短があるも、とどのつまり永続することが無かったではないか。
これらから思うことは、上位の者は己の仕事を「善」として実行しているか否かを下位のものを鏡
(鑑)として、常に深い自省の念を忘れずに務めることが肝要なのであろう。
例えば、「教育」を取り上げてみると、孟子に教うる亦術多し(教育も亦多くの方法がある)
<私がどうしても教える気が無く断った者も、それを機に反省して、自ら学を修めて徳に進むよ
うになれば、此の謝絶(教えることを拒絶)も教えの一つだと言えるだろう。>
つまり、時には「敢えて教えない」のも教育の方法の一つだ、というのである。
「教育」とは、押し付けるものではなく、長期的視点から対象者たちの自発的成長を促して、彼ら
に期待することに止めて静観するものである、というのが愚生の持論なのである。
これまた極論かもしれないが、学校で教育を受けるという意味は、学ぶことの興味を肌で感じて独
学することの楽しさやコツ(要領・急所・呼吸)を知るための手段であって、目的では無いのだ。
然しそれを習得すれば、一生の宝となって各自が己の力で目的を定めて、独学を以て成し遂げるま
で苦痛や飽くことことなどを全く感じず、かえって継続・意欲が自ずと湧き起り一途に邁進するこ
とであろう。
「書経」の<〜習い性と成る〜>を出典とする成句に、
習慣は第二の天性なり
習慣は自然の如し
[習慣は、知らない内に身に付き、天性(生まれつき備わっている才能)のようになる]
というのがあるけれど、結果としてその独学という習慣が健全な人格を磨き、より人品を高みへと
導てくれる働きを果たしてくれるのである。
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孟子 3
「孟子・公孫丑下」2
此 彼
一 一
也 時 時
あの時はあの時、この時はこの時、時に従って最適の道を守る。
この言葉は、得てして誤解を招きやすい、といわれる。
人によっては、弁解・言い逃れする時に用いる場合があるからである。
然し、「孟子」の真意は、決断を迫られた時は時勢に従うのが良い、というのだ。
<管 見>
愚生は、この「至言」について連想するのは、荀子の是々非々(是・非を明白にする場合、常に公平な立場を崩さない)≠ニいう言葉である。
さらに付言すれば、時代の変遷の勢いに逆らうことなく、その時々の出来事に従い言動することは当然であり、その場合夫々の岐路の選択に差が生じることは当然だ、と説いたものなのだろう。
ただ、欠いてはならないのは、「道理」・「公平」・「謙虚」の堅持であろう。
そこで、世の大勢と己れ個人の立場とを考えるとき、
@相互が矛盾する場合
A相互共に整合する場合
とがある。
その時、Aの場合は問題ないのでさて置き、
@の場合を(世の中と自己の)夫々について、さらに糺せば、
*世が正しい道が行なわれている場合には、謙虚に己の身を世の道に従わせて生きる。
*世が正しい道が行なわれていない場合ならば、趨勢に阿ることなく己の道を守る。
になるだろう。
では、夫々の正と不正(邪)とを見極めるにはどうすればよいのだろうか?
(短見ながら)、鏡・鑑の応用だと考える。
それには先ず、
@十分に時間をかけて、現状を正確に把握すること。
A各自のこれまでに蓄積した能力を使って(色々な手法を用いて)、@の材料を分析することで本質を焙り出し
てその内因を突き止める。
その上で、
*歴史
*書・他者
を鏡(鑑)に写す・照らし合わせることで、真の姿を知ることになるだろう。
何れにしても、正しい道を公平な立場で守りながら、道理を見極めて判断する為には、日頃からの学びを怠らないことと、謙虚な姿勢に努めることが肝要だろう。
「道理」は、不変である。
だから、「公平」な立場を堅持し、「謙虚」な姿勢を以て臨むことが肝要なのだ。