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孔子(論語・述而) K
楽しみを以て憂えを忘れる。
人によって辛苦の多寡には差があろうとしても、皆無の人はおそらくいないであろう。
だから、人生に在っては「道」を楽しみ、憂いを忘れる「余裕」と「趣味」をもつことだ、と孔子が自身の体験から説いた、のだ。
<管 見>
<注>
道: *人道、仁義……。
*道理。
*働き、手段。
*学問、技芸……
趣味:*専門(学者・職業……)としてではなく、味わいを楽しみ・愛好する者。
例:文学・書・絵画……。
余裕:*形而下。
肉体的・物質的な意として…
*精神的・形而上…。
時間・空間を超越した抽象的・理念的…
孔子は弟子に、
「辛苦の多い世の中の状態と考えると食事のことも忘れてしまい、また、逆に楽しみごとに熱中すると心配事も吹っ飛んでしまう。そして、老い先の短いことも忘れてしまうような、そんな男が私なんだよ」
と語った、という。
そこには、聖人と言われる近寄り難い孔子の姿ではなく、並の人間の親しみを感じてしまう。
だからこそ凡人は、知徳の高み・深みなどを感じて仰ぎ見るのであろう。
下がるほど 人が見上げる 藤の花=E実るほど 頭の垂るる 稲穂かな≠ネのか…。
愚生の場合は、孔子ほどには勿論到底及ばぬので、
l 義憤を感じて憤りを覚える時には、食事をすることは忘れないが、味は砂を噛むようであることは間違いない。
l 一方、楽しむときでも心配事が気になり、晴れやかな気分にはなれず、熱中できない。
だから、どっちもどっちの中途半端な状態で、凡人の域からは脱し切れずの身なのだ。
だけど、齢を重ねることで身を以て知ることの一つに、時の過ぎる速さがある。
まさに、白駒の隙を過ぐるが如し∞光陰矢の如し≠フ箴言が針のように胸を刺す。
そうすると、止まる事の無い今の時の大切さが、深く沁みてくるのである。
また「食事」を心身に入り込む広義でのモノとすれば、単なる食べ物に限定することは出来ない。
それは、自らの好む・好まざるに拘わらず、心身に(好悪の)影響を及ばすことになる。
だとすれば、短い余生を楽しみを以て憂えを忘れる≠スめには、
l 学問・技芸に勤しみ、
l それを楽しみ、
l 心に反映させる。
ように、日々努めることと、受け止めたい。
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孔子(述而) J
事に臨んで懼る。
大事に直面しては、むしろ戦戦兢兢として身を慎むべきだ、という。
これは、決して臆病ではない、と断言している。
<管 見>
人生においては、折々選択・決断を迫られる。
その場合、
* 一時逃れ
* その場凌ぎ
* 匙を投げる
* 八方美人
* 頬被り
* 丸投げ
…などの無責任な言動は、何時かまた己に還ってくるのだ。
何事もまめ(忠実)に処理することに努め、未処理・未解決・未決定などを溜め込まないことだ。
心の内をゴミ屋敷状態にしたり、胸中の庭を雑草で埋もれさせるようであってはならない。
その時の処理方法も問題で、除草剤などの使用や業者など他人に依頼したりせずに、自らの力を以て、マメに手間をかけることが肝要だ。
最近、よく見聞きする断・捨・離≠ニいう言葉がある。
「断」は、入ってくる不要なモノを断つこと。
「捨」は、既にあるガラクタを捨てること。
「離」は、モノへの執着から離れる。
これは、物質的なことより、先ず精神的な健康状態のために断・捨・離≠ェ望まれるのだ。
さて余談はさておき、事に当たっての姿勢についての今回の「至言」に触れたい。
前後の句を記すと、
子曰、
暴虎馮河、死而無悔者、
吾不與也。
必也臨事而懼、好謀而成者也。
で、現代語訳は、
〚「若し、軍の総大将となった場合、誰を副官に選びますか?」子路の問いに〛孔子は、
「暴虎馮河のような者は任命しない。
注意深く、成功率の高い綿密な計画を立てる人物を任命するだろう。」
と答えた、という。
思慮深い、慎重な人物というのは、一朝一夕では出来上がるものではない。
日頃から怠らぬ学習・体験⇒経験が、<いざっ>という時に役立つのだ。
前にも触れたが、平時には<如何にも…>といった風情を装う者が、非常時には背を向け遠ざかり平然としている輩の姿勢を、これまで数多く味わってきた。
㋑ 苦難を敢えて受け、自ら苦汁味わう者。(他人事でも自分のことのように心を配る者)
㋺ 苦難を極度に避け、他人に苦汁を味あわせる者。(己の事でも他人事のことのように振舞い、他者に丸投げした上、収まれば己の手柄にする輩)
これまでの経験からすれば、名利に拘る者ほど、この世では㋑よりも㋺の方が断然多い。
何故なら、上記㋺の殆どの輩は、常識的・道徳的に基づけば、当然あるはずの屈託(気にかけての心配り)・躊躇い・恥じらい、と
いった感情が見受けられず、平然として憚らない(恐縮・遠慮がない)からである。
それは愚生のような、この世の底辺を徘徊してきた者のみが知ることでもあるようだ。