2022年02月21日
孟子 8
恵なれども、政を為すを知らず。
恵む心はあるけれども、大局から見れば真の政治の方法を知らない、と孟子は説く。
鄭の名宰相として名高い子産が、人々が川を徒歩で渡っているのを見て、自分の車(馬車・牛車か)を貸してやった、という。
それを聞いた孟子は、
「小恵であるが、政治ではない。為政者として為すべきことは、もっと大局に意を注ぐべきだ」
と言った、というのである。
<管 見>
世界中が厄災に悩まされている時に、自らお祭り騒ぎを煽り立てて旗を振っている。
それが、〇〇屋と言われる所以なのであろう。
矛盾=E自家撞着=E自家撲滅=E朝令暮改=c…を臆面もなく振る舞うことができるのも当事者の資質を考えれば、”然もありなん”と何だか妙なところで納得してしまう。
〈そんな輩は、今更話題にするに値しないのだが、中国の春秋・戦国時代など周末から漢代にかけて出現した諸子百家の人々と比較すること共に、理非を判別する意味合いで記したに過ぎない……〉
―閑話休題―孟子に先立つこと≒180年前の孔子は、子産が亡くなったことを知った時に、「古の遺愛なり」(昔の宰相のように民を本当に愛すること)と、言って惜しんだ、という。
扨て、そこで三者のことを記してみると、
「孔子」(BC551〜BC479春秋時代)は、広い学識により信望を集め,多くの門弟を教えた。
「子産」(BC585?〜BC522春秋時代)は、春秋時代の鄭の名宰相。
法治主義(法律によって国を治める主義)によって国を治め、中国最初の成文法を作った。
外交・内政に優れ、巧みに大国間(晋〜楚)の均衡を保ち平和を実現するなど、国に貢献した。
「孟子」(BC372〜BC289戦国時代)は、 孔子の孫の子思の門人に学び,梁 ・斉 ・宋などを遊説を遍歴するも目的が叶わず、晩年故郷で門人の教育にあたった。
孔子・子産と孟子の違いは、≒180年程の差があり時代背景が異なることも一因だろう。
では試みに、この三者を上記とは異なる見地を以てすれば、
孔子:(春秋時代)「仁」、つまり、人間(個々)を大切にすることが基本とした、思想家・教育家。
子産:(春秋時代)「法治主義」を以て国を治めた、実務家・政治家。
孟子:(戦国時代)「義」(人としての基準)、特に孟子は、生命より義を選び、社会的行為がある一定の規則にかなっていること、を重要視した。つまり、社会の規範を重視した、思想家・教育家。
従って、今回の至言である孟子の大局的見地の指摘も否定はせぬが、だからと言って多くの人たちによる子産の高い評価は、些かも褪せることは無い、と言える。