2022年04月04日
孟子 14
恥ずることなきを之れ恥ずれば、恥無し
無恥を恥じる心があれば、この人は恥ずべきことの無い人である。
<管 見>
恥を知るとは、自らの誤った行いを恥ずかしがる心があることである。
孔子(BC552〜BC479)は、
「己を行うに恥あり」と、自分の行動について、恥とは?ということを弁えている「士」(学問・道徳を具えている人)の精神を大いに讃えている。
また、「恥を知るは勇に近し」とも言っている。
人が自らを恥ずかしがることは勇気が必要であり、恥を知ってこそ金銭の欲を抑えられ、困難に負けず、謙虚でいることができ、他人に対して思いやりを持って接することができるのだ。
孟子(BC372〜BC28)は、
「悪を恥じる心がないのは、人間でない」とも言っている。
孟子の「性善説」は、人は生まれつき、哀れむ心、恥じる心、謙虚の心、是非の心を持っており、これらは仁、義、礼、智の芽生えであるとし、
これら人類にしかない善の性は、禽獣や虫魚には備わっていない。
人は悪を恥じる心があるから、名利を前にして立派な節操が働くのだ。
また、
「人は恥知らずではならず、恥知らずの恥こそ、恥知らずなり」との言もある。
即ち、人は恥をなくしてはならない、恥知らずという恥は本当の恥知らずである。
自身の能力不足を素直に、そして躊躇わずに認めるという言動は容易なことではない。
人が自分の不足を恥と感じ、改正する勇気があれば、まだ救いがある。
* 恥そものの、意識が無い(恥を恥と思わない)。
* 人の反応を勝手(自分に良いように)な解釈して、自慢にする。
* 人の反応を勝手(故意な悪評と捉えて)な解釈して、反省せずに開き直る。
朱熹(1130〜1200)は、
「人に恥じありて、為すべきでないことを為さない」と言っている。
人に恥じる心があったら、してはいけないことをしない。
恥を知れば、自ずと意志固く、貧富、得失、利益において取捨選択ができ、欲望に走らない。
そうでなければ、恥じる心がないとなんでもやりかねない。
呂坤(1536〜1618・明代の学者)は、
「五刑は一恥にかなわず」と言った。
即ち、如何なる厳罰でも、百姓(人民)に恥を知ってもらうことに敵わない。
人に廉恥(恥を知る心)を知ることは刑罰より大切で、道徳が高まることで恥を知れば、自ずと言動を弁えるのだという。
これは法を犯してから刑罰するより効率的である、というのだ。
ドストエフスキーの「罪と罰」では、(主人公の学生の理論と実践について)
➀理論(理想):罪悪(殺人など)は善行(社会貢献)によって償われる、とする勝手な立論。
➁実線(現実):目的とする殺人以外にも、殺人を犯してしまう、という実態。
B結果:@と➁のギャップに増長する一方、苦悩する主人公。
そういう中にあった時、家族の為に献身的な自己犠牲に生きる女性を知り、彼は自首する。
という人間回復の物語だが、これも真の善というものを知らない成長過程にある若者とはいえ、人としての勝手極まる恥ずべき行為だろう。
序でに記せば、 漢和字典(昭和40年初版)に、
「恥」は、会意形声文字で、心が柔らかくイジケルこと、また、恥じて耳が赤らめること。
「羞」は、恥じて心が縮まること。
「愧」は、恥ずかしくて心にシコリがあること。
「辱」は、柔らかい意を含み、恥じて気後れすること。
「怍」は、ドキッとして、顔色が変わること。
とある。
勝手に解釈すれば、
*自ら生ずる情動や他からの情報を、先ず素直な感覚(視聴覚等)で感じ取ること。
*それを、自然(柔らかい)にして有心(思慮・分別・深い心の働き)を琴線に伝達すること。
*次に、届けられた事柄を確りと柔軟に適応できる赤心を以て感知し、認識すること。
つまり、
*素朴な感覚の持続。
*円満な「知情意」の発達に努めること。
であり、自然で素直な感覚と心は一対なのである、といえるだろう。
人生にあって、これらを努めることで「恥を知る心を」を持続できるのだ。
それはまた、「人」としての価値を失わない為の我々が出来得る、最低の手段だといえるであろう。