2022年06月30日

0057 夏越祭

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2022年06月29日

0056

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2022年06月28日

0055

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2022年06月27日

0054

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中庸 2

79中庸 ➁.jpg

 (子曰、…君子)
                     
           以人治人

(孔子の言葉)

人を以て、人を治む。

人間の道を以て人間を治める。

これが最上の政治だ、というのだ。

かれも人の子と、我が身に引き比べる忠恕()が、政治の

要諦となるのだ、と孔子は言う。


<管 見>

これに関連するものに、「詩経」豳風伐柯(ひんふうばつか)の詩の中にあ

る「()を伐り柯を伐る、其の(のり)遠からず」

という句がある。

その意は、「柯」、即ち斧の柄を伐ろうと考えて、山に入

った人が、その長さや太さをどのようなものにしようか?

と考え迷う、というのである。

然し、その柄を伐るための斧は、今、我が手にあるのだか

ら、それを標準に考えればよいわけだ、と気が付く。


人を治めようと考える人は、自分も人であることに気が付

けば、そこに自ずから治法()は定まるだろう、というこ

とである。



諸事に於ける当然なすべき方法として、基準・法則は、

何も遠くに求める必要はない。

それは、木を伐って()をこしらえる場合は、伐るのは他な

らぬ斧を握って、それを振るってを伐り取るのであるか

ら、目前の手元を見れば、それで済む話しなのだ。

然しそれでも、

*自分が伐ろうとする木の枝。

(それは、やがて作りだされるべき())と、

*今まさに彼の手の中に握られている((のり)としての)柯。

とは、なお別々のものであるとして思い、考え違いしてし

まうのだ。

それ故、伐る者からすれば依然として両者の間には 隔た

りを感じて、手本となるものを他に求めてしまうのであろ

う。


手に握られた()を人道として捉えてみるならば、

それは人間そのものの中に内在している則=道を、

さらなる高み・深みなどが他にあるものと考え違いをし

て、在らざる幻影を自ら思い描き、追い求める、といっ

た愚考・愚行を指すのであろう。


用語注〉:

忠恕:思いやり。

柯:斧の柄。


治法:くにを治める方法。




79中庸 ➁.jpg

 (子曰、…君子)
                     
           以人治人

(孔子の言葉)

人を以て、人を治む。

人間の道を以て人間を治める。

これが最上の政治だ、というのだ。

かれも人の子と、我が身に引き比べる忠恕()が、政治の

要諦となるのだ、と孔子は言う。


<管 見>

これに関連するものに、「詩経」豳風伐柯(ひんふうばつか)の詩の中にあ

る「()を伐り柯を伐る、其の(のり)遠からず」

という句がある。

その意は、「柯」、即ち斧の柄を伐ろうと考えて、山に入

った人が、その長さや太さをどのようなものにしようか?

と考え迷う、というのである。

然し、その柄を伐るための斧は、今、我が手にあるのだか

ら、それを標準に考えればよいわけだ、と気が付く。


人を治めようと考える人は、自分も人であることに気が付

けば、そこに自ずから治法()は定まるだろう、というこ

とである。



諸事に於ける当然なすべき方法として、基準・法則は、

何も遠くに求める必要はない。

それは、木を伐って()をこしらえる場合は、伐るのは他な

らぬ斧を握って、それを振るってを伐り取るのであるか

ら、目前の手元を見れば、それで済む話しなのだ。

然しそれでも、

*自分が伐ろうとする木の枝。

(それは、やがて作りだされるべき())と、

*今まさに彼の手の中に握られている((のり)としての)柯。

とは、なお別々のものであるとして思い、考え違いしてし

まうのだ。

それ故、伐る者からすれば依然として両者の間には 隔た

りを感じて、手本となるものを他に求めてしまうのであろ

う。


手に握られた()を人道として捉えてみるならば、

それは人間そのものの中に内在している則=道を、

さらなる高み・深みなどが他にあるものと考え違いをし

て、在らざる幻影を自ら思い描き、追い求める、といっ

た愚考・愚行を指すのであろう。


用語注〉:

忠恕:思いやり。

柯:斧の柄。


治法:くにを治める方法。




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2022年06月26日

0053

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2022年06月25日

0052

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2022年06月24日

0051

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2022年06月23日

0050

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2022年06月22日

0049

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2022年06月21日

0048 夏至

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2022年06月20日

0047

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中庸 1

78中庸 @_20220122 (22).jpg
(仲尼曰)                              
           
          
            中

(仲尼〜孔子の言葉)(とき)(ちゅう)す。

<管 見>

中庸・章句の冒頭(一章)は、

➀天の(めい)()れを(せい)()い、

 (天が人に授けたものを性といい)

➁性に(したが)う之を(みち)と謂い、

 (その生まれつきもっている性質が,

  自然に従うことを、これを人の道

  といい)

B道を(おさ)むる之を(おし)と謂う。

 (その人の道を修めること、これを教えという)

これは、「中庸」の全体を貫く思想であり、言い換えれば、

天には、一つの考えがあり、「目的」がある、という。

➀その目的から命令を出して、()()()

と人間に与えられたもの、それが人間の「(さが)」であり、

➁その性(人情)に従うことが人としての「道」であり、

Bその道を修めることが真の人になるための、

 「教育」なのだ。

としている。


さらに、

➀「天命」とは「天理」()である。

その「天理」が人に伝われば、人の「性」という。

同様に、植物に伝われば、植物の「性」といい、

動物に伝われば動物の「性」という。

「天理」と「人性」とは同一のものであって、

「人性」()と「万物の性」は根源を同じくする、

と言い切っている。

以下➁・Bは略し、今回の至言に戻して記す。


真の「中庸」とは、時期と場合に応じて

柔軟に対応することであり、機宜(きぎ)()に中庸を

とることなのである。

つまり、常に一定とかどんな場合にでも,

不動であるということは無い、ということだ。

ある意味においては、高低の中とか強弱の中

なども「中庸」といえるが、だからといって

善悪の中間をとるのは見当違いも甚だしく、

()に良し悪しや程度の差は無い。

また、悪()も然りである。

従って、善悪の中間である(白黒の混濁した灰色)は無く、

「中庸」とは全く関連しない。

ただ、本来は上記の如く、「性」と「善悪」とは

無関係だったが、何時か(後年になって)諦観(ていかん)に通

じる否定的文脈(悪い意として)に用いられる場合も、

例外として用いられることもある。 

そういえば、若い頃のサラリーマンになり立ての頃の

職種別の呼称に、ホワイトカラー()と、ブーカラー()

そして技能職をその中間色であるグレーカラー(※)と呼んでいた。

但し、これなどは単なる着衣の色などで,

職種を示す便宜上の呼称にすぎない。


このように、何でもかんでも中間に存在するから

といって、「中庸」とは言わないのだ。

真の「中庸」(偏らない・調和・整合…)

「時に中する」もので、時と場合によっては動くものだ、

ともいう。 

ところで、知者も愚者も「中庸」ではあり得ない、

と説いている。

世間でいう「知者」とは、

*出過ぎ者のことで、せずとも良いことをやり、

*考えなくともよいことを、考えてしまう、

所謂、やり過ぎてしまう者のことである。

⇒「過ぎたるは及ばざるが如し」・「功を弄して拙と成る

()」。

また、「愚者」とは、

*全て、やり足りない、

*もう少し考えてもよい時に、考えない、

所謂、及ばない者のことである。

⇒「竜頭蛇尾」・「仏作って魂入れず」である。

つまり、過不足何れも「中庸」では無い、のだ。


そこで浅見ではあるけれども、「中庸」をまとめてみると、

*「人の(さが)」とは、天が与えたもの。

*「人の道」とは、「性」に従って歩むこと。

*「教育」とは、「人の道」を修めること。

その上で、人は胸中に「核」()を確り持った上で、

偏った前提などを持たずに無心()な状態で対処すべきだ、

とすることなのであろう。


さらに、同じ一章に「中和(ちゅうわ)(いた)して天地(くらい)し、

万物(ばんぶつ)(いく)す」の言葉がある。

これは、中和の道を実現すれば、天地貴賤の位も正しくなり、

万物はみな正常に発育を遂げるものである、している。

この項での、

*「中」とは、ほど良いこと、喜怒哀楽の情の「中庸」

  を得たもの。⇒「体」(原理)

*「和」とは、事を行っていく場合、和やかにやっていくこと。

  ⇒「用」(働き)

即ち、正しい事物()・事象()を拠り所とする

根本の法則に基づいて、物事に備わっている機能()や、

その及ぼす作用そのものの本来に沿って発揮させる

ことができれば、みな正常に発育するのだ、ということである。


〈用語注〉:

()()れ:この様に在りなさい。

天理:人為でない天の正しい道理。万物を支配している道理。

人性:人が生まれつき持っている自然な性質。

機宜(きぎ):それをする(行う)のによい機会。

諦観(ていかん):他の意もあるが、この場合はあきらめること。

ホワイトカラー:技術者・事務員・販売員・営業職。

ブルーカラー:生産現場で働く労働者。

グレーカラー:技術職(技能)に従事する労働者。

功を弄して拙と成る:上手くやろうとして逆に失敗してしまうこと。

核:物事の中心・急所・本質。

無心:公平・中立。

事物:事柄や物。

事象:現実の出来事。

機能:そのものが本来備えている働き。 


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2022年06月19日

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2022年06月18日

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2022年06月17日

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2022年06月16日

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2022年06月15日

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2022年06月14日

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2022年06月13日

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