2022年06月30日
2022年06月29日
2022年06月28日
2022年06月27日
中庸 2
(孔子の言葉)
人を以て、人を治む。
人間の道を以て人間を治める。
これが最上の政治だ、というのだ。
かれも人の子と、我が身に引き比べる忠恕(※)が、政治の
要諦となるのだ、と孔子は言う。
<管 見>
これに関連するものに、「詩経」豳風伐柯の詩の中にあ
る「柯を伐り柯を伐る、其の則遠からず」
という句がある。
その意は、「柯」、即ち斧の柄を伐ろうと考えて、山に入
った人が、その長さや太さをどのようなものにしようか?
と考え迷う、というのである。
然し、その柄を伐るための斧は、今、我が手にあるのだか
ら、それを標準に考えればよいわけだ、と気が付く。
人を治めようと考える人は、自分も人であることに気が付
けば、そこに自ずから治法(※)は定まるだろう、というこ
とである。
諸事に於ける当然なすべき方法として、基準・法則は、
何も遠くに求める必要はない。
それは、木を伐って柯をこしらえる場合は、伐るのは他な
らぬ斧を握って、それを振るって柯を伐り取るのであるか
ら、目前の手元を見れば、それで済む話しなのだ。
然しそれでも、
*自分が伐ろうとする木の枝。
(それは、やがて作りだされるべき柯)と、
*今まさに彼の手の中に握られている(則としての)柯。
とは、なお別々のものであるとして思い、考え違いしてし
まうのだ。
それ故、伐る者からすれば依然として両者の間には 隔た
りを感じて、手本となるものを他に求めてしまうのであろ
う。
手に握られた柯を人道として捉えてみるならば、
それは人間そのものの中に内在している則=道を、
さらなる高み・深みなどが他にあるものと考え違いをし
て、在らざる幻影を自ら思い描き、追い求める、といっ
た愚考・愚行を指すのであろう。
用語注〉:
忠恕:思いやり。
柯:斧の柄。
治法:くにを治める方法。

(孔子の言葉)
人を以て、人を治む。
人間の道を以て人間を治める。
これが最上の政治だ、というのだ。
かれも人の子と、我が身に引き比べる忠恕(※)が、政治の
要諦となるのだ、と孔子は言う。
<管 見>
これに関連するものに、「詩経」豳風伐柯の詩の中にあ
る「柯を伐り柯を伐る、其の則遠からず」
という句がある。
その意は、「柯」、即ち斧の柄を伐ろうと考えて、山に入
った人が、その長さや太さをどのようなものにしようか?
と考え迷う、というのである。
然し、その柄を伐るための斧は、今、我が手にあるのだか
ら、それを標準に考えればよいわけだ、と気が付く。
人を治めようと考える人は、自分も人であることに気が付
けば、そこに自ずから治法(※)は定まるだろう、というこ
とである。
諸事に於ける当然なすべき方法として、基準・法則は、
何も遠くに求める必要はない。
それは、木を伐って柯をこしらえる場合は、伐るのは他な
らぬ斧を握って、それを振るって柯を伐り取るのであるか
ら、目前の手元を見れば、それで済む話しなのだ。
然しそれでも、
*自分が伐ろうとする木の枝。
(それは、やがて作りだされるべき柯)と、
*今まさに彼の手の中に握られている(則としての)柯。
とは、なお別々のものであるとして思い、考え違いしてし
まうのだ。
それ故、伐る者からすれば依然として両者の間には 隔た
りを感じて、手本となるものを他に求めてしまうのであろ
う。
手に握られた柯を人道として捉えてみるならば、
それは人間そのものの中に内在している則=道を、
さらなる高み・深みなどが他にあるものと考え違いをし
て、在らざる幻影を自ら思い描き、追い求める、といっ
た愚考・愚行を指すのであろう。
用語注〉:
忠恕:思いやり。
柯:斧の柄。
治法:くにを治める方法。
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中庸 1
(仲尼〜孔子の言葉)時に中す。
<管 見>
中庸・章句の冒頭(一章)は、
➀天の命之れを性と謂い、
(天が人に授けたものを性といい)
➁性に率う之を道と謂い、
(その生まれつきもっている性質が,
自然に従うことを、これを人の道
といい)
B道を修むる之を教と謂う。
(その人の道を修めること、これを教えという)
これは、「中庸」の全体を貫く思想であり、言い換えれば、
天には、一つの考えがあり、「目的」がある、という。
➀その目的から命令を出して、斯く在れ(※)、
と人間に与えられたもの、それが人間の「性」であり、
➁その性(人情)に従うことが人としての「道」であり、
Bその道を修めることが真の人になるための、
「教育」なのだ。
としている。
さらに、
➀「天命」とは「天理」(※)である。
その「天理」が人に伝われば、人の「性」という。
同様に、植物に伝われば、植物の「性」といい、
動物に伝われば動物の「性」という。
「天理」と「人性」とは同一のものであって、
「人性」(※)と「万物の性」は根源を同じくする、
と言い切っている。
以下➁・Bは略し、今回の至言に戻して記す。
真の「中庸」とは、時期と場合に応じて
柔軟に対応することであり、機宜(※)に中庸を
とることなのである。
つまり、常に一定とかどんな場合にでも,
不動であるということは無い、ということだ。
ある意味においては、高低の中とか強弱の中
なども「中庸」といえるが、だからといって
善悪の中間をとるのは見当違いも甚だしく、
善(白)に良し悪しや程度の差は無い。
また、悪(黒)も然りである。
従って、善悪の中間である(白黒の混濁した灰色)は無く、
「中庸」とは全く関連しない。
ただ、本来は上記の如く、「性」と「善悪」とは
無関係だったが、何時か(後年になって)諦観に通
じる否定的文脈(悪い意として)に用いられる場合も、
例外として用いられることもある。
そういえば、若い頃のサラリーマンになり立ての頃の
職種別の呼称に、ホワイトカラー(※)と、ブルーカラー(※)、
そして技能職をその中間色であるグレーカラー(※)と呼んでいた。
但し、これなどは単なる着衣の色などで,
職種を示す便宜上の呼称にすぎない。
このように、何でもかんでも中間に存在するから
といって、「中庸」とは言わないのだ。
真の「中庸」(偏らない・調和・整合…)は
「時に中する」もので、時と場合によっては動くものだ、
ともいう。
ところで、知者も愚者も「中庸」ではあり得ない、
と説いている。
世間でいう「知者」とは、
*出過ぎ者のことで、せずとも良いことをやり、
*考えなくともよいことを、考えてしまう、
所謂、やり過ぎてしまう者のことである。
⇒「過ぎたるは及ばざるが如し」・「功を弄して拙と成る
(※)」。
また、「愚者」とは、
*全て、やり足りない、
*もう少し考えてもよい時に、考えない、
所謂、及ばない者のことである。
⇒「竜頭蛇尾」・「仏作って魂入れず」である。
つまり、過不足何れも「中庸」では無い、のだ。
そこで浅見ではあるけれども、「中庸」をまとめてみると、
*「人の性」とは、天が与えたもの。
*「人の道」とは、「性」に従って歩むこと。
*「教育」とは、「人の道」を修めること。
その上で、人は胸中に「核」(※)を確り持った上で、
偏った前提などを持たずに無心(※)な状態で対処すべきだ、
とすることなのであろう。
さらに、同じ一章に「中和を致して天地位し、
万物育す」の言葉がある。
これは、中和の道を実現すれば、天地貴賤の位も正しくなり、
万物はみな正常に発育を遂げるものである、している。
この項での、
*「中」とは、ほど良いこと、喜怒哀楽の情の「中庸」
を得たもの。⇒「体」(原理)
*「和」とは、事を行っていく場合、和やかにやっていくこと。
⇒「用」(働き)
即ち、正しい事物(※)・事象(※)を拠り所とする
根本の法則に基づいて、物事に備わっている機能(※)や、
その及ぼす作用そのものの本来に沿って発揮させる
ことができれば、みな正常に発育するのだ、ということである。
〈用語注〉:
斯く在れ:この様に在りなさい。
天理:人為でない天の正しい道理。万物を支配している道理。
人性:人が生まれつき持っている自然な性質。
機宜:それをする(行う)のによい機会。
諦観:他の意もあるが、この場合はあきらめること。
ホワイトカラー:技術者・事務員・販売員・営業職。
ブルーカラー:生産現場で働く労働者。
グレーカラー:技術職(技能)に従事する労働者。
功を弄して拙と成る:上手くやろうとして逆に失敗してしまうこと。
核:物事の中心・急所・本質。
無心:公平・中立。
事物:事柄や物。
事象:現実の出来事。
機能:そのものが本来備えている働き。