2022年08月31日
2022年08月30日
2022年08月29日
書経 6
(伊尹曰、…)。
習與性成。
習慣は第二の天性なり≠ニいう慣用句がある。
これは、生まれる時に備わった性質は無であっても、毎日
コツコツ努めている内に、天から授かったような性質が自然と身
に付いてくる、というのだろう。
<管 見>
習慣が身に付くと、終にはそれが生まれつきの天性と同じ
になる、というのが今回の至言である。
これは、太甲(※)に伊尹(※)が断腸の思いで苦言した言葉
である。
そこで、伊尹・太甲、相互の立場で考察してみる。
*伊尹の視点、
自らのことはさておいて、只管、国(王朝)のことを思っ
て諭したが、聞き入られない伊尹がとった行動は、主
筋であるにも関わらず太甲を即位3年目にして桐の地に追放
したのだ。
恐らく、周囲の口さがない者たちは伊尹の思い上
がった心から発した行動と解したかもしれない。
剰え、逆臣の汚名を浴びたかもしれない。
だが、王朝の継続を願う伊尹の言動には、些かも
揺るぎが無かった。
そこには、公(王朝も然る事ながら、民優先)を重
んじて私心を捨てるという、所謂、利他の精神が
徹底していたのだろう。
*太甲の視点
帝位に太甲が即位すると、太甲元年に伊尹は、
・伊訓(伊尹の教えをまとめたもの)
・肆命(行うべき政治を記したもの)
・徂后(湯が作成した法律)
を作った。(愚生の勝手な類推だが…これが、太甲に
は面白くなかったのでは…)
然し、公を重んじる伊尹に対して帝太甲三年に、建国
の功臣で宰相である伊尹を太甲は目の上のたん瘤的存在とし
て 感じていたのだろう。
次第に暴虐になり湯の法律に従わずその徳を乱した。
伊尹は帝太甲を桐宮に放逐(幽閉)して、伊尹が三
年間政治を摂行(太甲の代わりに行う)して国事に当た
り、諸侯を入朝させた。
太甲は桐宮で三年間過ごし、過ちを悔い、自責の念を
もち、善人に戻ったので、これをみて伊尹は太甲を桐
宮から出し、政治を(再び)授けた。
帝位に復帰した太甲は徳を修め、諸侯は咸(みな)殷
(商王朝)に帰服し、人々は安泰であった。
伊尹はこれを喜んで太甲訓三篇を作り、帝太甲を褒めて太
宗と称した。
太宗(太甲)が崩じ、子の沃丁が位に着くと、まもなく伊
尹が亡くなった。
一時は国の将来を憂い、絶望感を味わうという紆余曲折
はあったけれど、伊尹の真意を解したのだろう、改心して
民に慕われる王になった。
恐らく、(愚生の短見だが)伊尹は苦労が報われ、安らか
に黄泉へ旅立ったことだろう。
〈用語注〉
伊尹:殷の湯王を補佐し、王朝の成立とその後を支えた功
臣中の功臣であり、名補佐役。
太甲:殷の四代目の王である。
世襲にありがちな傍若無人・暴虐非道であったため
に、伊尹が施政の心を諭した。
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書経 5
(仲虺曰、…))。
改過不吝。
過ちを改めることに(を)、躊躇ってはならない、というの
だ。(仲虺の言葉、…))。
<管 見>
前回に関連して、同じ「書経」の「仲虺之誥」である。
湯王の臣下で、仲虺が湯王に告げ、また広く民衆に告げた
言葉だという。
この中で、「有夏昏徳として、民塗炭に墜つ」とある。
※(有の字は国名や部族名につける接頭辞)
夏の国の桀王の不徳・背徳や悪虐行為によって、民の受け
た異常な苦難を、ここでは一言で「民塗炭に墜つ」と言った
のである。
言い換えれば、その王は不徳となり、民は泥にまみれ火の
中にいるような苦難を味わった、ということになる。
この言葉の中の「王」は、紛れもなく夏の桀王を指してお
り、湯王はこの進言に従って桀王を追放したのだ、といわれ
る。
今日、四字熟語で知られる【塗炭之苦】(塗炭の苦しみ)の語源とされ
ているものだ、と言われる。
敢えて重ねて記せば、塗炭≠フ「塗」とは泥水のこと
で、「炭」は炭火のこと、あたかも泥水や炭火の中におと
しいれられたような水火の苦しみという、意味になる。
それにしても、湯王のような臣下仰がれるような王(指導
者)は、傾聴の精神に富んでいることに今さらながら
然もありなん≠ニ大いに得心せざるを得ないのである。
古今東西、実力がなくても、
*或る種の僥倖によって
*仕える者たちの頭には権力者の存在などなく、
・己の現在・老後の生計のため
・天職としての職に愛着を懐き、執着心があるため
・難解な問題を解決することで、達成感・喜びのため
等により一生懸命に励んだ結果、授かった天恵としか
考えられない。
なのに、権力者や取り巻き連中は、己だけの能力で得た
かのような勘違いして憚らない輩が後を絶たないのは嘆かわし
い限りである。
何時の世も、目的が達成した暁は己や甘言してくれる側近
(茶坊主たち)で分かち合い、未達の場合は日頃何かと諫言す
る者の所為・責任として(責任転嫁)追及し、何らかのペナルテーを
科すのだ。
湯王は紀元前18世紀だといわれるから、BC1,700
〜1,799年ということになる。
仮に、BC1,750年頃だとすれば、今から≒3,80
0年前ということになる。
それほど前の至言が、現在に至るまで極一部の人にしか実
践されていないのである。
何千年もの時代を経ても、これまで如何に目先の便利さの
みを追い、人間の根本・基本的な人格の育成・履行は等閑に
されてきたかを物語るものであろう。
〈用語注〉:
吝:やぶさか(ケチなさま・物惜しみ・躊躇するさま・未
練があるさま)
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書経 4
(湯王曰、……)
不食言
(湯王の言葉)
破約しない、嘘は言わない、ということを肝に銘じてい
た、というのだ。
<管 見>
※これは、2022-06-06に「大学・傳二章」23で記した、
「荀日新、日日新、叉日新…」盤の器に彫り付けて、毎日の
自誡(自戒)の句とした、というあの湯王である。
二か月ほど前に掲載したので、記憶に新しいと思われる。
「酒池肉林」で知られる夏の桀王は、殷の紂王とともに
と並び称され、古来、国を亡ぼした非道な暴君として知られてき
た。
この夏の桀王の虐政に反抗して、兵を挙げ、桀王の大軍を
鳴条山に破り、桀王に代わって天子の位についたのが、
殷の湯王である。
(勿論、名補佐役の伊尹や賢臣仲虺(次回に記す)などの
人材に恵まれたことは、言うまでも無い)
湯王は、挙兵にあたり、領地の亳の群衆を前にして、
出陣の誓約を次のように宣布した。
「来たれ、爾もろもろよ、ことごとくわが言を聞け、
われは敢えて乱をあぐるにあらず、夏の罪多くして、
天命これを討たしむなり」、と。
つまり、夏の桀王の悪虐を天命に従って討つのだと述べた
のである。
この湯王の誓詞は、いま「書経」の「湯誓篇」として残
されているが、さらに桀王と戦って大勝し、亳に凱旋した
時、湯王は、再び諸侯に対し、「夏王、徳を滅ぼし、暴政を逞し
くし、なんじら万邦の 百姓に対し虐政を加えたり。
爾ら万邦の百姓、その凶害を蒙りて、荼毒の苦しみに堪
ええず、無辜の苦しみを上下の神祇に告ぐ。
天道は常に善に福し、淫に禍す。
天は災を夏に降し、 もってその罪を彰かにせり」。
(書経、湯誥篇)
と、言葉激しく桀の罪をならし、天命が夏を去り、殷に下
ったことの正当性を証明しようとした。
桀王の悪虐を非難した言葉は、このほか、古典に数多く見
られるが、同じ「書経」の「仲虺之誥」は次回に譲ることとす
る。
それにしても、このような優れた湯王による殷王朝の時代
も末期(紂王)には乱れに乱れて滅亡する。
これは、禅譲を旨とした三皇五帝は別として、世襲が当た
り前となった前代の夏王朝の末代(桀王)をはじめ後世に至る
まで、かくの如くの次第である。
いまさら述べるまでも無く、現在の各界においても然り
≠ニ言わざるを得ない状況である。
前轍は、時代・国・政界・財界・中小弱小零細の各企業・
商工業・自営業などの枠を超えては勿論のこと、各家庭内に
おいても良俗や長幼の序≠ェ無秩序の様相を呈している。
〈用語注〉:
殷の湯王:夏の桀王(酒池肉林…などの)は暴政を敷き、
その治世はひどく乱れた。
殷の湯王(契から数えて13代目、天乙とも
いう)は天命を受けて悪政を正すとして、
伊尹(名宰相・湯王の補佐役)の助けを借りて蜂起、
夏軍を撃破し、夏を滅亡させた。
食言:一旦、言ったことを呑み込んで、何食わぬ顔をする
こと。
亳:殷の都があったところ。
荼毒:苦しめること・虐げること。苦しむこと・苦痛。
無辜:罪がないこと。また、その者。
神祇:天の神と地の神。
天道:天地の道理(筋道・正しい論理)。