2022年08月29日

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書経 6

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(伊尹曰、…)

習與性成。

習慣は第二の天性なり≠ニいう慣用句がある。

これは、生まれる時に備わった性質は無であっても、毎日

コツコツめている内に、天から授かったような性質が自然と身

に付いてくる、というのだろう。



<管 見>

習慣が身に付くと、終にはそれが生まれつきの天性と同じ

なる、というのが今回の至言である。

これは、太甲()に伊尹()が断腸の思いで苦言した言葉

である。


そこで、伊尹・太甲、相互の立場で考察してみる。

*伊尹の視点、

自らのことはさておいて、只管、国(王朝)のことを思っ

て諭したが、聞き入られない伊尹がとった行動は、主

筋であるにも関わらず太甲を即位3年目にして桐の地に追放

したのだ。

恐らく、周囲の口さがない者たちは伊尹の思い上

がったから発した行動と解したかもしれない。

剰え、逆臣の汚名を浴びたかもしれない。

だが、王朝の継続を願う伊尹の言動には、些かも

揺るぎが無かった。

そこには、公(王朝も然る事ながら、民優先)を重

んじて私心を捨てるという、所謂、利他の精神

徹底していたのだろう。

*太甲の視点

 帝位に太甲が即位すると、太甲元年に伊尹は、

・伊訓(伊尹の教えをまとめたもの)

めい(行うべき政治を記したもの)

こう(湯が作成した法律)

を作った。(愚生の勝手な類推だが…これが、太甲に

面白くなかったのでは…)

  然し、公を重んじる伊尹に対して帝太甲三年に、建国

  の功臣で宰相である伊尹を太甲は目の上のたん瘤的存在とし

  て 感じていたのだろう。

次第に暴虐になり湯の法律に従わずその徳を乱した。

伊尹は帝太甲を桐宮どうきゅうに放逐(幽閉)して、伊尹が三

間政治をせっこう(太甲の代わりに行う)して国事に当た

り、諸侯を入朝させた。

  太甲は桐宮で三年間過ごし、過ちを悔い、自責の念を

  もち、善人に戻ったので、これをみて伊尹は太甲を桐

  宮から出し、政治を(再び)授けた。

帝位に復帰した太甲は徳を修め、諸侯は咸(みな)殷

(商王朝)に帰服し、人々は安泰であった。

伊尹はこれを喜んで太甲訓三篇を作り、帝太甲をめて太

宗と称した。

太宗(太甲)が崩じ、子の沃丁よくていが位に着くと、まもなく伊

亡くなった。 

一時は国の将来を憂い、絶望感を味わうという紆余曲折

はあったけれど、伊尹の真意を解したのだろう、改心して

民に慕われる王になった。

恐らく、(愚生の短見だが)伊尹は苦労が報われ、安らか

に黄泉へ旅立ったことだろう。


〈用語注〉

伊尹:殷の湯王を補佐し、王朝の成立とその後を支えた功

   臣中の功臣であり、名補佐役。

太甲:殷の四代目の王である。

   世襲にありがちな傍若無人・暴虐非道であったため

   に、伊尹が施政の心を諭した。



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