2022年10月31日
春秋左氏伝 4
譲禮之主也
譲は礼の主たり。
人に譲るということは、礼の第一義である、というのである。
<管 見>
漢和辞典によれば、
「譲」は、言と襄(音符)の形声文字で、
襄は、衣服に呪いの品を沢山詰め込んで、邪気を払うの意味。
言は、言葉。
従って、言葉で悪い点をせめるの意味となる。
また、沢山の品を詰め込むことを許すことから、ゆずるの意味をも表す。
字義としては、
@ゆずる(与える)。
➁責める(なじる・ののしる)。
B 拝礼の形式(手を平らに挙げて人をおしすすめる意を表す礼)。
ここの場合は、Bであろう。
「禮」は、礻(示)と乚(豊)の形声文字で、
音符の豊は、甘酒の意味。※豊とは別。
甘酒を神に奉げて幸福の到来を祈る儀式の意味を表す。
また他の字典によれば、
「禮」は、会意形声文字で、心に敬い行儀の則るを守る道にて、人の履み行うべきもの。
この道は神を祭る時、特に大事なる故に示と豊を合わす。※豊とは別。
この「譲」と「禮」から愚生の主観を記せば、
*人間の欲望は、夫々に濃淡・強弱・多寡などと異なるけれど、皆無では無い。
*人寰(※)に於いては、個人間の才能の優劣・名利の高低…など差があるけれど、それはあくまでも人間社会内でのことである。
*宗教・治国・主義主張…など、全てに於いて一つに万人が心服することは、あり得ない。
このように多少の差はあっても、畢竟団栗の背比べといえるだろう。
そんな人間社会にあって、誰もが頭を垂れて赤子の如くに無垢な心で順う存在が、天(神)なのだ。
つまり、大自然に対する如く理屈なく畏敬の念を懐き、抗えない神聖的存在なのである。
それが、古代中国から人寰を統治することの存在として(形の変遷があろうとも)続いてきたのだ。
それでも天(神)をも恐れぬ愚行を、現在においても繰り返しているのが人間社会なのである。
それは取りも直さず、果てしなき人間の欲望の所為である。
今回の至言は、困った(苦しい)時の神頼みや人頼み…で無く、己自身の生き方のためにも天(神)に対することは勿論、人間同士個々の間においても日頃からの「譲」⇒「禮」を欠いてはならない、箴言として受け止めるべきだろう。
〈用語注〉:
人寰:世の中。世間。人間界。
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春秋左氏伝 3
杖莫如信
杖るは信に如くは莫し。
寄りたよるには、信義の人に寄ることがいちばんよろしい、というのである。
<管 見>
「寄」は、宀と寄(音符)の形声文字で、寄(音符)は身体を曲げて立つ人の意。
つまり、釣り合いが保てずに片方によることで、屋根の下に身を寄せるの意味を表す、と漢和辞典にあり、語の用途によりその意は<与える・預ける・たのむ・よる・期待・集まる・加える・より(発疹や腫物が固まる)・寄席・積もり重なる…>など多義にわたる。
この場合は、心をよせる・たよる・すがる…であろう。
然し、どんなに能力や財力があっても、約束を違えたり(反故に…)・嘘をつくなど、道義的な努めを怠るような者には縋るようなことをしてはならないと戒めているのだ、とも受け取れる。
そこで大切なコトは、頼みとする人を正しく選択する力が必要となる。
つまり、普段から学習により人を見極める能力を養い、素直な心を保つように努めるべきだろう。
その上で、先ず頼ろうとする人の、
*見識(※)・胆力(※)…の度合いを計る。
*オノレの考えと比較してみる。
*基本的に諫言を好むタイプか、或いは甘言を用いて世を渡っているタイプかを見極める。
…などを試みることで、本質を見定めることが肝要である。
これはまた、個々の人たちに留まらず国家間など、小・中・大の団体でも然りであろう。
〈用語注〉:
見識:物事を正しく見通し、本質を見分ける判断力。
胆力:動じない心。
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春秋左氏伝 2
成允成功
允を成して功を成す。
允、即ち誠実を成し遂げて、はじめて本当の成功ができるものである、というのだ。
<管 見>
漢和辞典によれば、
А
「允」は、儿(人体)と柔らくくねった形の会意文字で、和やかな姿をした人を示す、という。
尹(調和をとる)⇒均(和やかに調和がとれる)などと同系のことば、だという。
従って、意としては、
@ まこと・調和がとれて誠実なさま・おだやか。
A ゆるす・角を立てずに、相手の意見を聴き入れる。
など、となるのだろう。
ところで、
B
「組織」という言葉がある。
辞典によれば、
@ 組み立てること。また、組み立てられたもの…。
A (organization)
一定の目標があり、成員の地位と役割それに応じた責任が決められている集合体。
また、それを組み立てること。
広義には、一定の機能を持ちつつ、全体として結合を保っているもの。
B 生物体を構成する単位で…。
C 織物の経糸と緯糸を組み合わせること…。
など、とある。
そこで、上記AとBを併せて考えてみると、
人間(人の住む世界)には、目的達成のために色々な集団があるけれども、果たして正確に定義とされる「組織」といえるものがどれほどあるのだろうか?
試みに、上記B「組織」の意に愚生の経験を当て嵌め乍ら記してみると、
殆どは形だけのものである。
例えば、
*他者への迷惑も顧みず、名利を追い求める。
*応分の義務・責任は形だけで、他者に転嫁して
憚らない。
*結果が、良であればオノレのものとし、
悪であれば我関せずの体を装う。
*オノレにとって、必要な時だけ他者を利用して
不要になれば切り捨てる。
などである。
さて、前にも記した技より進めリ(荘子)で、(文恵君の問いに答えた包丁の言葉)、所謂、知識・技術の前に(或いは、超えたところ・もの)に大切なこと・ものがある。
それが、道である、という。
即ち、本質を見極めての誠実な心身で対処する、上記Aの「允」である。
〈用語注〉: