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春秋左氏伝 12
天道は謟わず(※)。
<管 見>
天の道には偽りがなく、善人には幸福を、悪人には災いを
もたらす、という意味である。
(出典は『春秋左氏傳』昭公二十六年)
言い換えれば、天の道は時によって阿る(諂い・追従)など
で、変わるものではない。
何時までも一定不変である、ということだ。
これは、春秋時代、BC516年、齊の國で彗星の流れが
見られたので、景公がお祓いをさせようとした。
その時、晏嬰(※)がお祓いは無益であり、景公が徳を
修めるべきである、と説いた中の言葉、だという。
徳の無い権力者は、とかく功名を己のものとし、汚名・
恥辱・醜聞・不名誉…は他者に転嫁して憚らない。
さらに、その手の茶坊主どもはそれを真似ておなじこと
をする。
ところが、賢臣晏嬰は主君に対して、諫言を敢えて行いを
改めさせる。
晏嬰の著と言われる「晏子春秋」の中の一部を記せば、
晏子が仕えた君主は、霊公、荘公、景公であるが、
在位期間がもっとも長い景公との問答が一番多くなって
いる。
晏子は、倹約を第一にし、食事には肉は一種類しか
食わず、
狐の皮衣を30年も着続けるほどの吝嗇家であったが、
景公は、狩猟に出かけると帰ることを忘れ長い間帰ることが
なく、女色を好んで限度を知らなかった。
晏子春秋は、こういった景公に対する晏子の諫言が
ほとんどを占めている。
愚生は思う。
権力の頂点は、山の頂上に似て遠くを見ることはするが、
得てして足下を疎かにする傾向が景公でなくともごく
当たり前のようにするだろう。
景公は、凡庸な人だったかもしれないけれども、
晏嬰の諫言を受け入れて改めるということは、
*心が健康な人だった、と愚生は思う。
それは(※以下、Wikipediaからの引用)、
晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行って
いた。そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車
に飛び乗って臨淄に向かった。景公は馬車の速度が遅いと、
御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。
それでも遅いので、ついには自分の足で走った。晏嬰の邸に
着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。近臣が、
「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし夫子
(晏嬰のこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを
責めた。
いま、誰が寡人(わたし)を責めようか」と言い泣き続けた。
*晏嬰は、景公だけでなく、霊公、荘公や他国の人たち
に諫言 した、といわれる。
つまり、それが受け入れられたということは、背が低く
風采は上がらなかったらしいけど、人物としては誰からも
認められていたのだろう。
結局は、目先の利に目を奪われることなく、己の人生を
堅実にそして陸(※)に歩み続けることが肝要なのだ。
〈用語注〉:
謟わず:裏切らない。
晏嬰:生?〜没敬王20(BC500年)、春秋時代の斉の政治家。
諡は平仲,通称は晏子。斉の霊,荘,景公の
3代に仕えて節倹力行,政治にあたり,
国民の信望が厚く管仲(※)と並ぶ斉の名宰相。
記憶力にすぐれた読書家で合理主義的傾向が強かった。
『晏子春秋』は彼の著といわれるが一部は後世の編纂
である、ともいわれる。
管仲:没襄王7(BC前645),春秋時代の斉の政治家,思想家。
「管鮑の交わり」で有名。
陸:物事のようすや性質が、正しい、まともである、
完全である、十分であること。
建築用語⇒陸屋根(水平な屋根)・陸墨(水平な墨
=水平な基準となる線)。
不陸〜水平でないこと。
脚下照顧:自分の足元をよ〜く見よという意の禅語。
他に向かって御託を並べるより、
まず自己を省みよという戒めの語。
転じて、他者に理屈を捏ねるよりも、
まず自分のことをよく反省すべきこと。
また、足元に気をつけよの意で、
身近なことに気をつけるべきことをいう。
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2022年12月19日
春秋左氏伝 11
春秋左氏伝・學殖也。
学は殖なり。
学問とは、草木を移植し繁殖させるようなものである。
学問は次第にその人を豊かにし、多才にするものだ、
という。
<管 見>
「殖」は、@しげる・そだつ・そだてる…
Aふえる・ふやす・たくわえる…
Bうえるなどだが、この場合は、Aの意が
相応しいであろう。
つまり、「学殖」とは「学んで集める・積み重ねる
・蓄える」であり、その為には先ずは自ら努力
して実行を繰り返すことによる土台・基礎となるものが
必須なのだ。
その結果として「蓄えられた知識」によって人間性の
豊かさにも通じるようになる、のだという。
だから春秋左氏伝では「学は殖なり」と言明し、続けて
「不学将落」(※)と断言している。
努力=苦しみ(さ)と成果=楽しみ(さ)とは因果関係に
ある、と思う。
ある目的のために努力を尽くし励めば、相応の結果や
成果を得ることは確かである。
若し、成果が得られないとすれば、それはまだ努力が
足らないのだ。
但し、成果とか評価などは期待せず、一歩いや半歩でも
前進していることが自覚出来れば、良しと
してそれを糧・励みに継続すれば、やがてそのことが
楽しさになる。
「苦中作楽」という言葉がある。愚生の体験⇒経験から
すれば(本来の意とはことなるが)、与えられた仕事を夢中
で熟している内に、(性分だと解釈しているのだけれど)基本的な
ことが身に付くとあれこれ自身で工夫をしたくなるのを抑えきれ
なくなってしまうのである。
また、「守破離」(※)という言葉がある。
これもまた性分だろうが、我の強さからか?何時までも
基本通りでは納まらなくなり、我流の芽が生じて独自の道
を歩み始めることになる。
始めの試行錯誤の段階では、失敗の連続で苦しいばかり
だが、やがて徐々に形を成してくるに従い楽しさが増してくる。
確りと努力(苦)をすれば、必ず成果(楽)が顕れる。
それは不思議でもなんでもなく、道理(※)なのだ。
〈用語注〉:
不学将落:学ばざれば将に落ちたり(学ばなければ
木の葉や花が枯れ落ちるように、人間性が衰える一方で、
非才に陥る)
苦中作楽:苦しい中で楽しみを作り出すこと。
上記の類語として、
苦中有楽:どんな苦にも楽がある。苦の中にこそ楽を
観つめよ。
苦中有楽苦即楽:苦しみの中に楽しみがあり、
極めれば苦しみは、即楽しみとなる。
守破離:第1段階の「守」では、師の教えを型どおりに身につけます。
型を完全にマスターできたら
「破」に移り、師の教えに自分独自のものを加えていきます。
最後の「離」で師を離れて独立すること。
道理:物事のそうあるべきこと・当然のすじみち
・正しい論理。