2022年12月26日

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春秋左氏伝 12

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春秋左氏伝・天道不謟

天道は(たが)わず()


<管 見>

天の道には偽りがなく、善人には幸福を、悪人には災いを

もたらす、という意味である。

(出典は『春秋左氏傳』昭公二十六年)

言い換えれば、天の道は時によって阿る(諂い・追従)など

で、変わるものではない。

何時までも一定不変である、ということだ。

これは、春秋時代、BC516年、齊の國で彗星の流れが

見られたので、景公がお祓いをさせようとした。

その時、晏嬰(あんえい)()がお祓いは無益であり、景公が徳を

修めるべきである、と説いた中の言葉、だという。


徳の無い権力者は、とかく功名を己のものとし、汚名・

恥辱・醜聞・不名誉…は他者に転嫁して憚らない。

さらに、その手の茶坊主どもはそれを真似ておなじこと

をする。


ところが、賢臣晏嬰は主君に対して、諫言を敢えて行いを

改めさせる。

晏嬰の著と言われる「晏子春秋」の中の一部を記せば、

晏子が仕えた君主は、霊公、荘公、景公であるが、

在位期間がもっとも長い景公との問答が一番多くなって

いる。

晏子は、倹約を第一にし、食事には肉は一種類しか

食わず、

狐の皮衣を30年も着続けるほどの吝嗇家であったが、

景公は、狩猟に出かけると帰ることを忘れ長い間帰ることが

なく、女色を好んで限度を知らなかった。

晏子春秋は、こういった景公に対する晏子の諫言が

ほとんどを占めている。


愚生は思う。

権力の頂点は、山の頂上に似て遠くを見ることはするが、

得てして足下を疎かにする傾向が景公でなくともごく

当たり前のようにするだろう。

景公は、凡庸な人だったかもしれないけれども、

晏嬰の諫言を受け入れて改めるということは、

*心が健康な人だった、と愚生は思う。

 それは(※以下、Wikipediaからの引用)

晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行って

いた。そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車

に飛び乗って臨淄に向かった。景公は馬車の速度が遅いと、

御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。

それでも遅いので、ついには自分の足で走った。晏嬰の邸に

着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。近臣が、

「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし夫子

(晏嬰のこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを

責めた。

いま、誰が寡人(わたし)を責めようか」と言い泣き続けた。

*晏嬰は、景公だけでなく、霊公、荘公や他国の人たち

 に諫言 した、といわれる。

 つまり、それが受け入れられたということは、背が低く

風采は上がらなかったらしいけど、人物としては誰からも

認められていたのだろう。


結局は、目先の利に目を奪われることなく、己の人生を

堅実にそしてろく()に歩み続けることが肝要なのだ。


〈用語注〉:

(たが)わず:裏切らない。

晏嬰(あんえい):生?〜没敬王20(BC500)、春秋時代の斉の政治家。

    諡は平仲,通称は晏子。斉の霊,荘,景公の

    3代に仕えて節倹力行,政治にあたり,

     国民の信望が厚く管仲()と並ぶ斉の名宰相。

     記憶力にすぐれた読書家で合理主義的傾向が強かった。

     『晏子春秋』は彼の著といわれるが一部は後世の編纂

     である、ともいわれる。

管仲:没襄王7(BC645),春秋時代の斉の政治家,思想家。

   「管鮑の交わり」で有名。

(ろく):物事のようすや性質が、正しい、まともである、

  完全である、十分であること。

  建築用語⇒陸屋根(水平な屋根)・陸墨(水平な墨

  =水平な基準となる線)

  不陸(ふろく)〜水平でないこと。

脚下照顧(きゃっかしょうこ):自分の足元をよ〜く見よという意の禅語。

他に向かって御託を並べるより、

まず自己を省みよという戒めの語。

転じて、他者に理屈を捏ねるよりも、

まず自分のことをよく反省すべきこと。

また、足元に気をつけよの意で、

身近なことに気をつけるべきことをいう。


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