2023年01月31日

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2023年01月30日

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礼記 C

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樂不可極 

楽しみは極むべからず。

楽しみは、その果てまで尽くすべきではない。

何故なら、快楽を求める心は限りないものであり、その後には倦怠と絶望が待っている、という。


<管 見>

我が生家は、代々漁業を生業としていて、父親は高齢になっても海にでていた。

多分、根っからの海好きの所為もあったのであろうけど、母親が望む平凡でも安定した月給取りという職業をいくら頼んでも聴き入れず、選ばなかった。

つまり、己の意志(望み)を抑えて家族のために宮仕えするよりも、自分らしい生き方(自己優先)を選択して憚らなかったのだ。

仕事場は荒海の日本海だから、漁の期間は三月の末頃から十一月頃の約七か月が精々だった。

その間の稼ぎによって、漁具(舟・網などの購入や修繕)を始めとして、一年間の生計費を賄うのだ。

尤も、僅かな田畑はあったけれど、それも小作農地を含めてだから実収は高がしれたものだし、それに何といっても大人数だから、収穫の量よりも消費の量の方が多く、食費が家計の支出中に占める割合を指す、所謂、エンゲル係数が高く生活水準が低いという典型的な貧乏所帯だった。


漁の種類は、刺し網・地引網・(機械船での)疑似餌を使っての曳き釣り漁(トローリング)・延縄漁・竹籠(の中にニシンなどを入れた)を連ねたバイ貝漁などであった。

自然を相手に、受け継がれてきた技・自らの体験⇒経験による技と工夫での勝負だから、工場勤めのように定まった給料が毎月入ってくるわけでは無く、確実性に乏しい生活だった。

かてて加えて雑炊や 茶碗十三 鍋一つ≠フ大人数の家族状態だった。

でも、父親のために言い添えておくと、後年(愚生が郷を離れてから知った)、旧軍人に対する恩給制度が復活して余裕のある老後だったらしい。


そこで当時の我が家と一般会社員宅と比較してみると、

➀一般会社員宅の場合

 A)現役時代中の公私の環境

 ㋑一人(複数の場合もあるが)の定期的収入である給料で、一家が安定した生活が送れる。

 ㋺また、年に二度は賞与(ボーナス)が支給される。

 ㋩残業すれば、手当が出る。

 ㊁定年(当時は五十五歳)がくればかなりの退職金が入るし、希望すれば関連会社へ就職することが可能である。

 ㋭日曜・祭日・盆、年末年始には休日がある。

 ㋬休日出勤した場合には代休がとれる。

 ㋣上記とは別に、当然のように(権利として)年次休暇が二十日間ある。

 ㋠給与・賞与以外の福利厚生(家族に対しても)が確保されている。

など、使用者側による(労働者が)一方的な不利益にならないように、労働基準法などの法律による就業規則があって確り守られている。

 B)退職後の環境

  公的には殆ど縛られることなく、私的(自由)時間が大半を占める。

  一見すると、気楽で幸せそうに感じられたが、果たして?

➁我が家(漁業)

 A)(愚生の知る祖父・父の)現役時代の公私の環境

 殆ど、自業自得果であり「蒔かぬ種は生えぬ」・「打たぬ鐘は鳴らぬ」の因果応報を直接我が身・己が家族にはね返ってくる環境だった。

 B)老後の環境

 健康である限り、生涯現役である。


今、➀と➁を比較してみる時、

)に関しては、➀の方が経済的には断然恵まれていたし、➁の立場からみたら羨ましかった。

だが、

)に関しては、の方が傍目には自由気儘な生活を楽しんでいるように見えたけど、果たして実状はどうだったのだろうか?

の立場の者としては推論になってしまうけれども、実状は全員とは言えぬまでも、大半の人は暇を持て余してしまい「時」という貴重な宝を無駄に浪費していたのではないのだろうか?

勤務していた頃は、ただ馬車馬の如く脇目も振らず毎日勤めに明け暮れ、趣味に興ずることなどは殆どの人は無かったであろう。

だから、定年と同時に何もすべきことが無く、生活に空白が生じてしまい途惑ってしまうのだ。

その点、➁の場合は趣味と実益を兼ねていたように思える。


扨て、振り返って見る時、愚生の体にも「板子一枚下は地獄」、所謂、大自然相手の過酷で命がけの仕事という自己責任の世界である、という血が流れているように思える。

何故なら、どのような組織に属しても、

*己が心から素直に従うのは、「地」(生物の住むところ)にあっての「天」(地・人を超えた存在)のみであるとの信念に反する場合。

*自身の生き方(名利を追わず、己の仕事に徹す)と異なる場合。

*立場を笠に着ての邪道・無理強いと判断した場合。

*口先三寸で世渡りをし、然も、人の足を引っ張る輩に接した場合。

などの時は、如何なる相手であっても屈することなく自分というものを貫いてきた、からである。


「漁師は生涯竹一竿」という、漁夫はただ一本の釣り竿で暮しをたてている、という意味だ。

それは一見まことに貧しく品性に欠けるようにみえるが、実際は肉体を主にして、然も心豊かで自由な境涯を楽しみ味わっているのである。

つまり、➁の場合は粗衣粗食の貧乏暇なしの暮らしであるけれど、それが却って心身の健康を培っているのではなかろうか。

八十路の現在、負け惜しみでは無くて心から思い、深謝している。


〈用語注〉:


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2023年01月29日

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2023年01月28日

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2023年01月27日

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2023年01月26日

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2023年01月25日

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2023年01月24日

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2023年01月23日

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礼記 B

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志不可滿  

志は満たしむべからず。

全てのことについて、完全に満足のいくまで求めるという考えは捨てなければならない、というのである

欲望に限りは無く、そして一旦のめり込めば自ら退くことが出来ず、前に前にと進む一方で際限がないものだから、限度を弁えることが出来ない者は、最初からなまじ手を出さないことだ、という。

その典型的なものが、男の「飲み、打つ、買う」の道楽だろう。


<管 見>

「ヤマアラシのジレンマ」で知られるドイツの哲学者ショーペン・ハウエルの至言に、

「富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる」、というのがある。

当に、その形容は言い得て妙である。


『四書』の一つに「中庸」がある。

第一章に、「天の命之を性と謂い、性に(したが)う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂う」という言葉がある。

その意は、天が授けたものを人の性というのだ。

短見ながら、「天」とは、天・地・人(万物の)の最高に位置する絶対的な存在、と解釈する。

➀「人の性」とは、天から生まれる時に授かった自然な性質(天性・人性)であろう。

A  「人の道」とは、上記➀の自然(人情)に従うことである。

B  上記Aを修めることを「教え」(教育)という。

また、別な言い方をすれば、「天」には考えがあるのだ、という。

その考えとは、

㋑ある「目的」を持っている。

㋺そして、上記➀から発する「命令」なのだ、という。

その「命令」とは、斯く在れと人間に与えられたものである。

それからは、上記➀〜Bと重複することになるが、

㊁その与えられたものとは、「人の性」。

㋭次に上記㊁、つまり「性に(したが)う」〜人情に従うことが「人の道」なのだ、という。


「天」は、万物に対して公平であり、決して偏ったり偏愛はなく、常に「陸」なのだ。

従って、「中庸」の説くところは、中和の徳で人間が持つ特有のものだから、「至誠」(誠実・真心)、と言っても差し支えないだろう。

だから、

*人は常に欲望を(ほしいまま)にせず、

*傲慢を慎み、

*一方に偏らず、

*知者は之に過ぎ(出過ぎ者・やらなくともよいことをやり過ぎる)

*愚者は及ばず(全てやり足りない)

等々に鑑みて、和して同ぜず(和すれども付和雷同にならず)に生を送ることが、肝要なのだろう。

人は、「天・地・人」にあっては、所詮「天・地」の中で生かされている存在なのだから、高い境地には到達できなくても、せめてそれらを目標として怠りなく努め・励むという日々の生き方をすることが大切なのだろう。


また、離欲・知足の精神に沿った生き方を忘れてはなるまい。


〈用語注〉:


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2023年01月22日

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2023年01月21日

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2023年01月20日

0075 大寒

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2023年01月19日

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2023年01月18日

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2023年01月17日

0072 冬土用入り

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2023年01月16日

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礼記 ➁

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安定辭

(ことば)を安定にせよ。

ことばづかいには、落ち着きがなければならない。

その落ち着きは心の平静からもたらされる。

心に動揺がなければ、ことばも自然に安定するものだ、と説いている。


<管 見>

人間には、(車の両輪のように)理性と感性(感情)ある。

➀理が過ぎると、常に冷静だが、人間味が無いと言われる。

➁情が過ぎると、情け深く情に脆い一方、感情的だとか好き嫌いが激しい等と言われる。


この世に在る限り、種々の影響化の下で生活していかなければならない。

その各種の影響を受け止め、思考し、対応するという言動を行っている中で、人によって理性と感性(感情)が夫々の形となって外に発信されて顕れ出る。

人は夫々だが、仮に上記➀と➁を考える時、「車の両輪」に譬えたけれども別な表現をすれば、

*「理性」を車の操作(操る者の意志)〜能動・自律。

 目的を果たすための統御を司る役目・働き(指揮系統)

*「感性」を車の駆動(目的に沿った働き)〜受動・他律。

 操作を受けて、目的果たすために実働するもの(ハンドル・アクセル・ブレーキなど車体の各部品・機能)


指揮系統である頭脳(理性)が十分に理解し、納得していても、精神(感情)が高ぶり理性では制御できないケース。

また、その逆に理性が勝り感情を制御できているケース

どちらも、固定化される或いは固定化されたものでは無く、ケースバイケースであろう。

仕事などでは「理性」を通して物事を処理するのが望ましいのだろうけども、それでも人との関わり合いがあるからには「感情(情動・情け)」を無視することは出来ない。

例えば、書店で本や筆記用具などを大量に購入しても、店員の対応が無表情な時がある。

そうかと思えば、同じ書店で僅かな買い物をしても笑顔で応対されると、得をした気分になる。


「ヒト」では無く、「モノ(道具など)」や「ペット」との付き合いでさえ、自然と愛着が湧いてきて思わず感謝の言葉を話しかけている時がある。

剰え、物の売買という業務は品物の売買であるけれど、「ヒト」が介在して成立するものなのだ。

やはり、そこには「精神(心・感情)」のやり取りが不可欠なのだ、と思う。


つまり、「理性」一辺倒では事程左様に味気なさが暫くは尾を引いてしまう。

「理性」で捌くのが本筋の場合でも、その何割かは「感情(情動・情け)」をもって接することが必要であろう。


仕事では、モノを主とするのが本筋かもしれないが、それだけでは血の通った人間味が失われてしまう場合もあるので、論理だけでは割り切れないものを「精神(心・感情)」を加えて補う。

「理性」と「精神(心・感情)」のバランスが重要な要素として欠かせない。

その人によって、それらの多寡・大小は異なるだろうけれども、誰もが持っている。


Webで「COOL HEAD(冷静な頭脳)」と「WARM HEART(温かい心)」という言葉を知った。

これもまた、車の両輪に譬えて大切だという。


ところで、

*「情緒」(あるモノに接した時に受けるしみじみとした味わい)

 例:晩秋の夕暮れ時など、静かな環境において、軒に落ちる雨垂れの音に耳を傾ける。

*「感動」(感銘を受けて、特にしみじみとして心を深く動かすこと)

 例:素晴らしい人の言動や詩歌・芸術品などに接したとき、無意識のうちに心に刻みこまれ、思わずなる茫然   自失の状態。

*「喜怒哀楽」(様々な人間としての感情)

 例:突如として身に起こる様々な喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情(心持ち・気分)

  などを心に受けた時、刻み込まれる感情は何人であろうとも、あることは間違いない。


愚生の場合(自問自答だけれども)、どちらかというと、感情の激しいほうだと思っている。

時に激した場合、偶々(たまたま)相手となるヒトは恐らく戸惑うことだろう。

そんな例は枚挙に暇がなく、当に「後悔先に立たず」の為体なのだ。

八十路になった愚老の現在は、容姿は何処から見ても枯れた状態だが、精神的には何ら成長せずに未熟のままなのである。

それが偽りのない現状なのだ。

我ながら、全く情けない。


そこで、後悔をなるべく少なくする為に日頃から努めていることを紹介すると、独言を呟く(ホームページでの書き込み)ことだ。

公開するからには、出たとこ勝負(ぶっつけ本番)という訳にはいかないから、下書きやら簡単ながら推敲を行う。

すると、それに没頭している内に、自然とストレスの解消を図っていることに気付くのである。

だけど、それは取りも直さず誤魔化し人生でしかないのである。


結局、肉体は枯れても精神は幼稚な木偶の坊のままに人生を終えるのだろう。


〈用語注〉:


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2023年01月15日

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