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2023年01月09日
礼記 ➀
毋不敬
敬せざること毋れ。
何事についても、注意して慎まなければならない。
人を欺かず、自らを欺かない。
それが敬である、と説いているのだ。
<管 見>
某―漢和辞典によれば、「禮」ネ(示)+乚(豊)〜音符の形声文字で、豊(れい)は甘酒を表し、神に甘酒を捧げて幸福の到来を祈る儀式の意を指す、という。
➀人の履むべき則・心に敬意を抱き、それを行動として
外にあらわすみち。
A作法・礼儀。
など、とある。
また、別の字典では、豊(れい)は甘酒ではないが、たかつき(豆)に形よくお供え物持ったさまを表し、示(祭壇)+乚(豊)〜音符の会意兼形声文字で、整えた祭礼を示す、とあるからほぼ上記と意味は同じとみてよいだろう。
さて、今回の至言をひと言でいえば、「礼」を行うには「敬」を怠ってはいけない、というのだ。
勿論、(履歴や年齢などの」上下関係の区別なく(親しき中にも礼儀あり・垣をせよ)である。
「敬」は、攴(ぼく)+苟(きょく)〜音符の形声文字で、髪を特別な形にして、身体を曲げて神に祈るさまにかたどる、とある。
また、別の字典では、攴(動物のR)+苟(引き締める)の会意文字で、はっと畏まって体を引き締めること、とある。
加えて、「苟」(きょく)は、羊の角+人+口からなる会意文字で、人が角に触れてはっと驚いて体を引き締めることを示す、のだとある。
そこで、愚生なりきに纏めれば、人として生きていく基本的に大切なこと(言動)は、ヒト・モノ・コトに対する時には、心中に緊張感をもって接すれば自ずと尊ぶべき礼儀作法に適った言動として表れる、というのだと思う。
「意到りて筆随う」(自分が書く気になれば、筆がひとりでに進むとの意)ではないが、
*「意気に感じる」(相手のひたむきな気持ちに感動し、
自分も物事を行おうとする気持ちになる)
*「意気に燃える」(物事を積極的に行おうとする
意欲を強く抱くこと)
*「意気が揚がる」(何かをやり遂げようとする積極的
な気持ちが高まること)
*(精神一到、何事か成らざらん」(精神を集中して取り
組めば、 どんな難しいことでもできないことはないということ)
*「水到り、渠(溝)成る」(学問を究めれば自然に徳が
備わってくるということ。
また、時期が来ればものごとは自然に成就するということ)
等々、結果として現れる言動などは、その能力の程度・日頃の努め方・心中のあり方次第が表面に無意識のうちに滲み出るように曝け出てしまうのだ。
ただ、始末に負えないのは、往往にして発している本人にはその自覚が無いことだ。
然も、人間社会の中における指導的立場の者に、少なからず存在するのは誠に残念なことだ。
日本における会社組織の大半は、ピラミッド型組織(ヒエラルキー型組織)であり,
多くの利点があるけれども、問題となるのは、その頂点に立つ者と側近たちの資質というか人間性なのだ。
具体的には、底辺(直接生産労働に携わる人たち)に対する姿勢のあり方である。
組織とは、One for all,all for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的ために)をモットーに、各自が各々の責務を応分にそして忠実に果たすことであり、
そこには上位の者が個人感情を介入させて下位の者に対応するなどは以ての外だ、といえるだろう。
〈用語注〉
礼記:
「五経」(五部の経書で、易経・書経・詩経・礼記・春秋)の一つ。
周末から漢代に至る古礼についての儒者の説を集録したもの。
礼に関する理論・実際を記録編集したもの。
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春秋左氏伝 13
索えんば何をか獲ん。
求めなければ、何物をも獲ることは出来ない。
聞くところによれば、『新約聖書』・マタイ伝にも、
「すべて求むる者は得、たずぬる者は見出し、
門をたたく者は開かるるなり」、とあるらしい。
後漢書にも、「人生在勤、不索何獲」とある。
人生勤むるに在り、索め不ば何をか獲んや。
<管 見>
改めて記せば、「人生在勤、不索何獲」となる。
人生にあっては、与えられた環境の中で全力を以て
己の可能性に挑み続けて、その結果の良し悪し・
好むと好まざるとに拘らず、天与として素直に受容することだ。
一生懸命に勤勉さに努めなくして、何が己が人生か、だと思う。
それには、先ず求めること。それがなければ何が得られるというのか。
人は死ぬまで心身を鍛える為に、勉強をし続けるものである。
然し、目標がなければ何を得るかも定まらない。
何も得るつもりか(目的)がなければ努力しても身につく筈はないのだ。
目標があってその目的のための手段の一つとして、例えば勉学の意味があるのである。
生涯現役で仕事を続けるのも、その仕事に対する向上心と常に励みとなるものに気付き、そこから得るものがあるから継続するのだ。
また継続は、己次第なのであって他力ではないのだ。
不動の目標と努力の継続が相俟って、果が得られる。
物事には、原因があって結果がある。
だが、その因と果を関係づけるものに縁がある。
短見だが、
➀ 因⇒目標
A 縁⇒励み⇒意欲⇒継続した努力
@ 果⇒達成
この@からBを繰り返すことにより、徐々に人間力の厚さが増していくのだろう。
本性(本来の素質など)だけでは、人生は成り立たない。
➀(自分が何をすべきか?)を常に追い求めることが、人生の緒に就くことである。
そして得た、B(仮に・例えば)平凡な幸福≠維持するためには、やはり、それなり
のA(継続した努力)を為し、時と場合によって責任をも果たさなければならないのだ。
〈用語注〉:
春秋左氏伝:春秋三伝の一つで,経書に数えられている。左丘明が孔子の『春秋』の正しい意味が失われることを恐れて,『左伝』をつくり,また『国語』を著わしたと伝えられているが実際は漢代(前漢末)の学者が『国語』その他の伝承史料により,『春秋』の編年に合せて編集したものと考えられる。
孔子:BC552〜BC551or―BC479)。古代の思想家。儒教の祖。
左丘明:孔子と同時代の人。孔子の弟子と伝えられる。
春秋時代:周が東西に分裂したBC771年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が三国に分裂したBC5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指す。
後漢書:後漢時代を記した紀伝体の歴史書。正史の一つ。120巻。
後漢(25〜220)の歴史を叙述しようという試みは、後漢当時から行われていた。
そのうち本紀10巻、列伝80巻は范曄)(398〜445)の撰であり、志30巻は晋の司馬彪(≒240〜≒306)の『続漢書』の志であったものをとっている。
これ以前にも7〜8種類の《後漢書》があったといわれるが,それらはいずれも失われ,最後の范曄のものだけが残って正史とされる。
范曄:398年 - 445年)は、南朝宋の政治家・文学者・
歴史家にして『後漢書』の作者。
紀伝体:本紀・世家・列伝などから成る歴史書の書体。
(史記を始めとする)
本紀:紀伝体の歴史で、帝王1代の事跡を記したもの。
世家:諸侯に関する記述。
列伝:個々の人物、特に国に仕えた官僚の
一生を記したもの。
志:天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。
表:各種の年表や月表。