2023年01月16日
礼記 ➁
辞を安定にせよ。
ことばづかいには、落ち着きがなければならない。
その落ち着きは心の平静からもたらされる。
心に動揺がなければ、ことばも自然に安定するものだ、と説いている。
<管 見>
人間には、(車の両輪のように)理性と感性(感情)ある。
➀理が過ぎると、常に冷静だが、人間味が無いと言われる。
➁情が過ぎると、情け深く情に脆い一方、感情的だとか好き嫌いが激しい等と言われる。
この世に在る限り、種々の影響化の下で生活していかなければならない。
その各種の影響を受け止め、思考し、対応するという言動を行っている中で、人によって理性と感性(感情)が夫々の形となって外に発信されて顕れ出る。
人は夫々だが、仮に上記➀と➁を考える時、「車の両輪」に譬えたけれども別な表現をすれば、
*「理性」を車の操作(操る者の意志)〜能動・自律。
目的を果たすための統御を司る役目・働き(指揮系統)。
*「感性」を車の駆動(目的に沿った働き)〜受動・他律。
操作を受けて、目的果たすために実働するもの(ハンドル・アクセル・ブレーキなど車体の各部品・機能)。
指揮系統である頭脳(理性)が十分に理解し、納得していても、精神(感情)が高ぶり理性では制御できないケース。
また、その逆に理性が勝り感情を制御できているケース
どちらも、固定化される或いは固定化されたものでは無く、ケースバイケースであろう。
仕事などでは「理性」を通して物事を処理するのが望ましいのだろうけども、それでも人との関わり合いがあるからには「感情(情動・情け)」を無視することは出来ない。
例えば、書店で本や筆記用具などを大量に購入しても、店員の対応が無表情な時がある。
そうかと思えば、同じ書店で僅かな買い物をしても笑顔で応対されると、得をした気分になる。
「ヒト」では無く、「モノ(道具など)」や「ペット」との付き合いでさえ、自然と愛着が湧いてきて思わず感謝の言葉を話しかけている時がある。
剰え、物の売買という業務は品物の売買であるけれど、「ヒト」が介在して成立するものなのだ。
やはり、そこには「精神(心・感情)」のやり取りが不可欠なのだ、と思う。
つまり、「理性」一辺倒では事程左様に味気なさが暫くは尾を引いてしまう。
「理性」で捌くのが本筋の場合でも、その何割かは「感情(情動・情け)」をもって接することが必要であろう。
仕事では、モノを主とするのが本筋かもしれないが、それだけでは血の通った人間味が失われてしまう場合もあるので、論理だけでは割り切れないものを「精神(心・感情)」を加えて補う。
「理性」と「精神(心・感情)」のバランスが重要な要素として欠かせない。
その人によって、それらの多寡・大小は異なるだろうけれども、誰もが持っている。
Webで「COOL HEAD(冷静な頭脳)」と「WARM HEART(温かい心)」という言葉を知った。
これもまた、車の両輪に譬えて大切だという。
ところで、
*「情緒」(あるモノに接した時に受けるしみじみとした味わい)
例:晩秋の夕暮れ時など、静かな環境において、軒に落ちる雨垂れの音に耳を傾ける。
*「感動」(感銘を受けて、特にしみじみとして心を深く動かすこと)
例:素晴らしい人の言動や詩歌・芸術品などに接したとき、無意識のうちに心に刻みこまれ、思わずなる茫然 自失の状態。
*「喜怒哀楽」(様々な人間としての感情)
例:突如として身に起こる様々な喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情(心持ち・気分)。
などを心に受けた時、刻み込まれる感情は何人であろうとも、あることは間違いない。
愚生の場合(自問自答だけれども)、どちらかというと、感情の激しいほうだと思っている。
時に激した場合、偶々相手となるヒトは恐らく戸惑うことだろう。
そんな例は枚挙に暇がなく、当に「後悔先に立たず」の為体なのだ。
八十路になった愚老の現在は、容姿は何処から見ても枯れた状態だが、精神的には何ら成長せずに未熟のままなのである。
それが偽りのない現状なのだ。
我ながら、全く情けない。
そこで、後悔をなるべく少なくする為に日頃から努めていることを紹介すると、独言を呟く(ホームページでの書き込み)ことだ。
公開するからには、出たとこ勝負(ぶっつけ本番)という訳にはいかないから、下書きやら簡単ながら推敲を行う。
すると、それに没頭している内に、自然とストレスの解消を図っていることに気付くのである。
だけど、それは取りも直さず誤魔化し人生でしかないのである。
結局、肉体は枯れても精神は幼稚な木偶の坊のままに人生を終えるのだろう。
〈用語注〉: