2023年05月11日

0006

0006.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月10日

0005

0005.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月09日

0004

0004.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月08日

0003

0003.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月07日

0002

0002.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月06日

0001 立夏

0001.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

富岡市_石仏G

34富岡市 石仏Gー投稿画.jpg

posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | スケッチ

2023年05月05日

2023年05月04日

0090 みどりの日

0090.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月03日

0089 憲法記念日

0089.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月02日

0088 八十八夜

0088.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

2023年05月01日

0087 メーデー

0087.jpg



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句

老子 9 

117老子 H.jpg

天長地久

天は長く、地は久し。

天地が永遠に変わらないように、物事がいつまでも続くこと。


<管 見>

愚生の管見などより、保立道久氏(東京大学史料研究所名誉教授・歴史学者)の解説を、以下に引用させていただくこととする。

冒頭の「天長地久」という言葉は、きわめて有名なもので、普通、天地の安定を謳歌する、おめでたい文句であるとされている。

明治時代には天皇誕生日を「天長節」といったが、本来、天長節というのは、絶世の美人とされる中国の楊貴妃の

夫の玄宗皇帝が自分の誕生日を祝日としたのが最初である……。

日本でも光仁天皇が七七五年(宝亀六)十月十三日の誕生日に天長節の儀を行なった。

しかし、日本では誕生日を祝うという慣習自体が根付かず、……。

<この間、略す>

 『老子』五章には「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」()という強烈な思想があることは少し前に紹介した通りで、天地は人間とは関わりなく存在して人間を吹き飛ばすものでもあったのである。

老子は、そういう天地と歴史の現実をふまえた上で、人間は天地と同じように、「自らを生ぜざる」という覚悟をもたねばならないというのである。

これは自己意識の過剰を放棄するということであろう。


 この章の解釈で、一番問題にされてきたのは、それに続く「是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ」という部分である。

これは、普通、「聖人はわが身を人の後ろにおきながら、それでいて自ずから人に推されて先立つ」などと訳されるが、これでは、意識して人の後ろについて、推薦されるのを期待するということになりかねない。

これでは「老子のずるい処世法」「計算された功利主義」ということになりかねない。

以上を前提にすれば、

……老子は、禅の言葉でいう自己の放下を支持しているのである。それが人の後ろであれ通常をはずれた位置であれ、それは二次的な問題だというのであって、これは「曲なれば則ち全し(負けるが勝ち)」の思想と同じことである。

これを「人に推されて先立つ」ことを期待できるなどというニュアンスで読んでしまうのは、前半の「天長地久」の意味が読めていなかったことを示している。


これらを賢しらの誹りを無視して、愚生なりきに平易にして述べれば、天は永遠であり、地も永遠である≠ニいうことなのではないか?

天地がその様に永久であるのは、自ら永久であろうとする意志が無いからだ

だから「道」を知った聖人はわが身を後回しにしながら周囲に推されてその身は人の前に立ち、わが身を謙虚にして人の外側に置きながら、周囲に推されてその身は人の中心にある。

これはその人が無私無欲(原因)であることのからの結果ではないだろうか。

無私無欲であるからこそ、自分の意(意見・考え・望み)を貫いていけるのだろう。


情けは人のためならず=E己の欲せざる所、人に施す勿れ≠ナ、自分の得することばかりを優先していると、後ろを振り向いたときには従う者は誰もいなかったという結果になるだろう。

結局、その先には淋しい孤独な人生があるだけなのだ。


〈用語注〉:(主として管見)

「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」:自然というのは「仁」(人為的な優しさや愛情)

                    を持ち合わせてはいない。

野獣の世界では、弱肉強食であり弱者が可哀想だからといって、助けていたら強者が飢え死にしてしまう。

そういう目先の「仁」(儒教における人間関係の基本・他人に対する親愛の情、優しさ)を持ち合わせていなくても、

調和が保たれるようにできているのが自然だ。

例えば、人間を含むすべての動物の食べ物は、植物が光合成によってつくる有機物(生命体)が源になっている。

そして、植物を食べる草食動物は⇒肉食動物に食べられ、その遺骸は⇒バクテリアによって分解される。

というように、互いに「食べる・食べられる」関係にある食物連鎖中、自然や神は一連の中に於いて

その都度弱者を助けるだろうか?

また人間社会においても、公平にみて善人だと思われる

人達が独裁者たちによって虐げられている不公平な現状もまた然りである。

これらを目の当たりにして、神仏に思わず疑問を抱いた心の働きを思わば理解できるだろう。


posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記