然 吾
者 而 有
邪 待
吾を待つ有りて、然る者か。
私の生活は、ただ何かの動きに従っているのかもしれない。
何故なら、人の世の行動は、大自然の力によって支配されているからだ。
以下は、影と影をふちどる罔両(モウリョウ・うすかげ)との問答である。
罔両が影に質問した。
「どうも不思議だ。先ほどあなたが歩くと私も歩き、あなたが止まると、私も止まる。
あなたが坐り、あなたが起つと私もまたその通りにする。
常にあなた次第であって、自分にはそもそも自主の志操(堅い志し)はないのでしょうか?」、
これに対して、影は答えた。
「私も同様に、また他のモノに左右されているようだ。
即ち、私(影)を生じさせる別の実体があり、その実体の行止坐起に従って私も行止坐起するのだ」
と、答えた。
<管 見>
勝手ながら、この問答を加筆訂正しながら、次記のように少し変えて再現してみる。
ある時、罔両が影に質問した。
「あなたをみていると、行き来したり立ち止まったり、また坐ったり起ったリという行動をみていると、誰かに動かされているみたいで、あなた自身の存在価値はないじゃないですか。
どうしてそんな主体性のない動き方をするのですか?
あまりにも節度がなさすぎますよ!
あなたが確りしてくれないと、あなたを頼りにしている私まで迷惑するじゃないですか」と、
注文をつけた。
すると影が、
「なるほど言われてみれば、確かにわたし自身が頼るところの、つまり形(人間の肉体)につき従って、その形(人間の肉体)の動くままに動いているのかもしれない。
だが、わたしがつき従っている形(人間の肉体)そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いているのではあるまいか?
ただ何も考えずに、形(人間の肉体)の変化のままに従っているわたしにとっては、何故そうなるのかも分からないし、またそうならないのかも全く分からないのだ」と、答えた。
つまり、天地間の全てのモノは大自然の力によって動いているのだ、ということなのだ。
大自然⇒空〚形(人間の肉体)⇒影⇒罔両(うすかげ)〛、となる。
これを言い換えれば、
* 罔両と影が、互いに各々自身の主体性の無さを嘆いている。
* その罔両や影が、彼らの主として付き従っている形(人間の肉体)の主体性のなさをも疑い、異を唱えている。
* また彼らの主である筈の、形(人間の肉体)自身も何かに支配されている。
* さらに、その行動をコントロールしている、精神までも何かに管理されている。
ということになる。
つまり、森羅万象は、間違いなく存在している、と思っていたが、実体がないのだ、という。
翻って、これまでの我が人生を振り返ってみると、己の心身だけを以て世を渡ってきたつもりでいた。
だけど今回の「至言」に触れ、「五蘊皆空」・「一切空」などと併せて沁み沁み味わうと、夜郎自大的な傲慢さと相俟ってつくづく己の愚かさを思い知ることとなった。