2021年08月09日

宋名臣言行録」(歐陽脩 @)

33歐陽脩-➀_20210401 (14).jpg

       既
       去
       民
       思

既に去りて、民思う。

役人がその地での任(任務・役目)を終えてそこから去る。

すると、残された庶民は、はじめてその人の恩義(報いるべき義理ある想い)を覚えるのだろう。

つまり、人というのは在る(居る)時は、感じないけれども去る・失うなどの事態にならないと、その重要さとか有難味がなかなか解らないのだ。


というふうに考えてみれば、人に対する価値判断というものは、去って後に民から慕われるような人こそ、本当の正しい役人なのだ、ということだ。


これは、その他の各界においても同様であろう。


人が生きていくための必要なモノ・コトには色々ある。

その中にあって、厚生(衛生・健康)面も欠かすことのできない専門領域あることは間違いない。


そこで、医師を例として取り上げで考えてみれば、

@  Aという、裕福な医者がいた。

* 彼が往診する際の様子は、お供の下僕も馬もとても立派だ、という。

  * 一同の立ち振る舞いも礼儀正しい。

  * 医書を詳細に調べて、病の症候を述べる弁舌は熱心で敬愛すべきものだ、という。

 だが、病の子供が処方された薬を服用しても一向に効き目が無い、というのだ。

一方、

➁ Bという、とても貧しい医者がいる。

  * 彼が往診する際の様子は、お供する下僕もいないし、当然馬だって持っていない。

  * 立ち振る舞いは、粗野である。

  * 事情によっては料金を貰わないから医書は無いし、会話は寡黙で不十分である。

然し、如何なる患者であろうと、脈など直に手で触れて納得するまで決して手間を省かない。


その結果、A医師が諦めて見放した子供を、B医師は見事に直した、というのだ。

即ち、AのB医師が良い医者だ、ということになる。


これは、古い時代の役人や医者に限ったことではなく、今時の各方面・各位にも該当する話しではないだろうか?

この「至言」の出典である、歐陽文忠公が数郡を治めた時、治めた業績をあらわに(喧伝)せず、名声や誉れを求めず、ゆったりと簡便な政治を行い、民の生活をかき乱さない事を旨とした、というのだ。


そこで民衆はこの郡の利便にひかれて、この地に至り、既に去った民も、この地を思ったのである。


元来、民衆を治めるのに、官吏候補の履歴とか能力が優秀か否かが問題なのではないのだ。

つまり、能書き云々などよりも実施した政策がどうかが問題なのだ。


例えば、飼っている馬や犬に立派な装いをさせ、芸を仕込んで周囲に見せびらかして得意満面の輩がいる。

だが、そんなことなどしないで、飼い主共々自然のままに穏やかに暮らしている犬馬もいる。


この世では、各々がそれぞれ仮の姿を借りて生かされている、といわれる。

であれば、たかが人間の微小な力を以て、自然に逆らった小細をしない方が自然に適っているのではなかろうか?

授かった生を全うすること、或いはその手助けをすることに専念することの方に、「道」の意義があるのだ。


だから、そこに暮らしている民(生物)が有益であると評価するなら、即ちそれが良い官吏(生物)の行いなのである。



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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