子を易(か)えて、之をヘ(おし)う。
これに前回の「父子之阨s責善。責善則離。離則不莫大焉。」が続く。
親が、己の子供を教育するのは、自然の摂理(自然界の道理・モノごとの筋道)に反している、と孟子は言う。
だから、中国の古代では(これも前回記したけど)親が己の子に対して直接手に取って教えるのではなく、朋友知己(親しい友人・知人)の間で互いに子供を交換し合ってした、というのである。
<管 見>
前回に続いての案及び対案としての、孟子の提言である。
その前に、前回も触れたけれど、父子間のことを角度を変えて考えてみると、
親族(血縁関係)の系統からいえば、親子は一親等である故に互いが見え過ぎるのだ。
別の表現をすれば、互いの捉え方が、
* 近視眼的(気付かぬ内に、視野が目先だけの狭い範囲になっている)
* 顕微鏡的(微細なモノ・コトが拡大して見えてしまう)
一説に
「道理(モノごとの正しい法則)を、自分の子供に教えても碌(陸)なことは無い。
普段は理性的な人だが、己の子供がそれを守らなければ、どうしても感情的になってしまう。
感情が理性に優ってしまうと、親子の情愛(慈しみ)を薄れさせ、その関係を悪くしてしまう。
また、親だからといっても人間だから、常に正しい行いをするとは限らない。
すると、子は自身のことをさておいて、親の言動の不一致を拡大解釈し、歪曲化してしまう。
それがやがて、親への批判の心へと変じるのだ。
批判の心が生じれば、これも親子の関に溝ができて、それが広まる一方となる。
親子の間において重要なことは、何よりも情愛であり、正だ悪だとお互いを追求することは好ましいことではない。
親子間に溝ができることこそが、不幸なのである。
だから、それを防ぐために、古(いにしえ)の賢人は、お互いの子供を変えて教えた」というのだ。
だが、孟子や上記の説のように、画一的に父子間を決めつけてしまうのには疑問を覚える。
確かに、孟子の説には一理あることは否定しない。
否定どころか、この年齢になるまで色々な場面で、「性善説」に基づく武力を否定して<仁徳>による人生のあり方に多くの共感を覚え、糧として歩んできた。
そのような経緯の上に立っても、「父子間」については微妙な違和感を禁じ得ない。
孟子の「性善説も」、荀子の「性悪説」も、先天的には「善」・「悪」の違いがあろうとも、この世にはあっては清濁・浄穢は厳として存在する。
剰え、穢土・浄土という仏語さえあるではないか。
ということは、この世においては親・師・聖職者……であれ、終始一貫して清浄無垢であることはあり得ないのだ。
上記のそれら多くの諸々の体験した上で、自らの努力次第で経験と昇華させて「清濁併吞」の域に達せしめようというのが人生なのではあるまいか。
毛沢東の言う、「反面教師」として捉える度量を培えるかどうかも、当人次第なのだ。

子を易(か)えて、之をヘ(おし)う。
これに前回の「父子之阨s責善。責善則離。離則不莫大焉。」が続く。
親が、己の子供を教育するのは、自然の摂理(自然界の道理・モノごとの筋道)に反している、と孟子は言う。
だから、中国の古代では(これも前回記したけど)親が己の子に対して直接手に取って教えるのではなく、朋友知己(親しい友人・知人)の間で互いに子供を交換し合ってした、というのである。
<管 見>
前回に続いての案及び対案としての、孟子の提言である。
その前に、前回も触れたけれど、父子間のことを角度を変えて考えてみると、
親族(血縁関係)の系統からいえば、親子は一親等である故に互いが見え過ぎるのだ。
別の表現をすれば、互いの捉え方が、
* 近視眼的(気付かぬ内に、視野が目先だけの狭い範囲になっている)
* 顕微鏡的(微細なモノ・コトが拡大して見えてしまう)
一説に
「道理(モノごとの正しい法則)を、自分の子供に教えても碌(陸)なことは無い。
普段は理性的な人だが、己の子供がそれを守らなければ、どうしても感情的になってしまう。
感情が理性に優ってしまうと、親子の情愛(慈しみ)を薄れさせ、その関係を悪くしてしまう。
また、親だからといっても人間だから、常に正しい行いをするとは限らない。
すると、子は自身のことをさておいて、親の言動の不一致を拡大解釈し、歪曲化してしまう。
それがやがて、親への批判の心へと変じるのだ。
批判の心が生じれば、これも親子の関に溝ができて、それが広まる一方となる。
親子の間において重要なことは、何よりも情愛であり、正だ悪だとお互いを追求することは好ましいことではない。
親子間に溝ができることこそが、不幸なのである。
だから、それを防ぐために、古(いにしえ)の賢人は、お互いの子供を変えて教えた」というのだ。
だが、孟子や上記の説のように、画一的に父子間を決めつけてしまうのには疑問を覚える。
確かに、孟子の説には一理あることは否定しない。
否定どころか、この年齢になるまで色々な場面で、「性善説」に基づく武力を否定して<仁徳>による人生のあり方に多くの共感を覚え、糧として歩んできた。
そのような経緯の上に立っても、「父子間」については微妙な違和感を禁じ得ない。
孟子の「性善説も」、荀子の「性悪説」も、先天的には「善」・「悪」の違いがあろうとも、この世にはあっては清濁・浄穢は厳として存在する。
剰え、穢土・浄土という仏語さえあるではないか。
ということは、この世においては親・師・聖職者……であれ、終始一貫して清浄無垢であることはあり得ないのだ。
上記のそれら多くの諸々の体験した上で、自らの努力次第で経験と昇華させて「清濁併吞」の域に達せしめようというのが人生なのではあるまいか。
毛沢東の言う、「反面教師」として捉える度量を培えるかどうかも、当人次第なのだ。