2021年10月18日

大雅(詩経) @

43大雅(詩経) @_20210606 (20).jpg

         詢   先
       芻   有  
         于   民
       蕘   言

他人の忠告は、虚心に傾聴せよ、ということだ。

※「芻蕘」(すうじょう):草刈る人と樵、つまり、この場合は賤しい身分の者たち。


これは、『詩経』の中の「大雅」(周王朝の儀式の歌)で、この句を含めた全般の意を記せば、

私と君は職務は違っているが、共に同僚ではないか。そのような間柄の私との話し合いなのに、君はただ煩わしそうな素振りをするばかり。この重大な問題を軽く笑ってあしらうつもりか


<管 見>

血縁関係とか心友・親友のような、ごく近しい関係は別として、

例えば、

*己よりも目下・若年

*それほど親しくない相手

などであっても、

少しでも頷くことがあるなら、真心から諫める言葉だと解釈して、素直な心で耳を傾けて一心(集中して)に聞け、ということだ。


けれど、話し合いとは単独では成立しない。

少なくとも「話し手」と「聞き手」という最小限の相手が無くては成り立たない。

また、「話し手」としての立場と「聞き手」としての立場では、思いや考えが色々な意味でそれぞれ異なる。

何れの場合でも大切なことは、

*相手の立場になって「話す」・「聞()く」こと。

*間柄の親疎や風采(姿・形・肩書・能力・など)によって、無意識のうちに使い分けをしていないか?

 ・親(既知)・スペック(風采〜自己宣伝・風説の場合が多い)が低い〜傾聴に欠ける

 ・疎(未知)・スペック(風采〜自己宣伝・風説の場合が多い)が高い〜傾聴する

 などの偏見を分別・内省。


事と次第によって、人は多面的に対応する。

自分が「話し手」の場合があるだろうし、「聞き手」の場合もある。

何れにしても、気持ちの持ち方次第でその果に大きな差が生ずる。

どのみち話し合いをするなら、確り(集中して)「話す」・「聞()く」ことは得ることはあっても、失うことは無い。


それが、日々の暮らしを意義深い生活にするのだ。

そして、それらがいつの間にか累積して、結果として充ちた生涯となるのだろう。





posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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