知 觀
仁 過
矣 斯
過ちを観て、斯に仁を知る。
過ちは避け難い。
その過ちにも、
* 情けがあり過ぎて犯す場合
* 情け知らずの場合
とがある。
その過ちの仕方(行為・方法)の有り様によって、その人の真の姿が解る、というのだ。
<管 見>
八十年に及んだ人生を顧みると、確かに過ちというものは避け難いものである。
何故なら、この世の人は、等しく生かされている身であり、己れの才覚には限りがあるからだ。
ならば、その過ちを活かすことにするのが賢明、というものだろう。
ということで、その観点から考えてみたい。
そこで、知者(知識人)と仁者(徳・情・慈悲のある人・博愛者)との違いを考えてみると、
* 知者〜主義主張(特に利益の確保)を同じくする者同士の結束は固く、互いの便宜は図るが、諫言はせず馴れ合いの関係。
* 仁者〜主義主張の枠に囚われず、決して徒党を組むことはせず、要用(差し迫って要する場合)は敢えて怯まずに諫言を行う。
となる。
但し、「仁者」でも過ちを犯すことがある。
然し、その場合言い訳をせず、速やかに謝罪し改める。
躊躇わずに、それが出来るのが「仁者」なのだ。
愚生の素な姿はどうだろうか?
顧みても判然とせず、甚だ心許無い。
だが敢えて記せば、どちらでも無く中途半端な放浪人生だった、
というのが的を射ているのだろう。