難きを先にして獲ることを後にす。
何事でも、先ず困難なことを行い、結果として獲る利益のことは、二の次として後回しにする。
それが仁者(真っ直ぐな心で人生を歩む者・人格者)の道だ、というのである。
<管 見>
この「至言」に接した時の(愚生の)思いは、「極、当たり前のこと」という風に捉えた。
それは、森羅万象にあっては人に限らず生あるものは、須らく当たり前の営みだからだ。
何故なら、獲るためには先ず何か行為をしなければ、取得することが出来ないのは当然であって、
例えば、農業を考えてみれば、土壌づくり⇒耕し⇒播種⇒健康管理(雑草除去・害虫駆除・水・施肥・異状気候対策)⇒収穫⇒製品化⇒出荷⇒対価の取得。
これは、
* 工業(手作業によるモノづくりの職人〜工場での生産)。
* 漁業(櫓櫂の操船や手職の荒働きによる魚など水産物の捕獲)。
* 商業(供給〜需要の架け橋的役割)。
など、他の産業でも然りである。
だからといって、今回の「至言」は決して月並みな言葉ではないのだ。
今から2,500年ほど前に成立したとされる「論語」の<雍也篇>。
「仁とは人を愛することだ」という孔子の話しを、理解できなかった樊遅という弟子がいた。
そこで孔子はさらに、
「仁者というものは、人の嫌がることを率先して行い、報酬は後回しにするのだ」
と言い直した、とされる。
亦候の感が拭えないけれど、何時もの如く下手の無駄口というか、泡沫のような解釈を付してみる。
「貧富の差・貴賤の差が生まれたときの態度によって、真の友情がわかる」と、司馬遷が言う。
それほど人間関係というものは複雑で、順風な時と逆風な時では異なる現象をみることがある。
身を以て経験とした司馬遷の意見を土台にして、狭き人生を歩んできた愚生の、偏見と独断を敢えて恐れずに記せば、この世で難き(難しい・困難)モノ・コトは、対人との関わりあいだ。
とすれば、
難きとは、人間関係となる。
そこで、愚生として今回の「至言」難きを先にして獲ることを後にす≠、
下記のように表記してみた。
先ず選んで而る後に交わる(相知心を以て誼を結ぶ)
序でに記せば、「方丈記」の鴨長明は極度なほど対人関係が不得手だったらしい。
これについて、後世の歌人らは批判的であるが、愚生は長明の心情は理解できる。
それは、格式高い家に生まれながら、晩年に至るまで幾たびも重なる悪しき運命に翻弄され続けた挙句に、やっと辿り着いた粗末な庵での一人住まいが、長明の安住の境遇だったからである。
そんな長明も、嘗ては上皇に才能を高く評価されて名利を目指した時期もあったが、人為による作為的な謀りにより阻まれ、観念の臍を固めた経緯を知れば<然もありなん>と得心できる筈だ。
かてて加えて、「相知心」を持ち合える人(乃至は、人たち)との出会いがあまりにも少なく、無に等しかったのが一層独歩を加速させたのだろう。
それでも拗ねたり、めげたりせず、運命として素直に受け入れての自然を相手の隠遁生活をする内に、この生活こそ己の求めていた道だったと知るに至ったのだ、と思う。
そればかりか、その暮らしの中にこそ喧噪な場では得られない充ちた日々を見出したのだ。
だから、他者が思う以上に幸せな暮らしだった、と確信してやまない。
そして、常に歩き、常に働くは、養生なるべし≠ニして、何事も自力で為すを信条の前向きな人生を歩み続けた長明を、狷介孤高な人物などと批判的な論には、愚生は首肯することは出来ない。
何故なら、批判的な人たちの人生は、
* 幸運のみの環境。
* 常に、天険・隘路を意図的に避け、大通り・広小路のみの世渡り。
* 「先難而後無」を他者に代行させ、自らは「先獲而後獲」・「先甜而後甜」……。
* 目途は終始上位にあり、下位のことは一顧だにしない。
そこで、鴨長明に代わって書すれば、
文字通り、今回の至言の先難而後獲≠フ生涯であった。
けれども、長明の「獲」は自らの魂を込めた、永遠の不朽の名作である『方丈記』であった。