2021年12月27日

孔子(論語・述而) I

53孔子 I_20210812 (2).jpg

             學

             而

             不

             厭


学びて厭(いと)わず


※この前後を記せば、

默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。


何か我に有らんや。黙して之を識し、学びて厭わず、人を誨て倦まず。

@  (理解したことを)黙って心に刻んで記憶し、


A学んで厭きるということがなく、

B人に教えて飽きることがない。

この三つのことだけが、自分のなし得ることで、これ以外には自分には、何の取り柄もない。


<管 見>

愚生の場合、普通の人たちが真面目に一生懸命になって、学んでいる時には怠けていた。

「人生は因果応報だ」と聞いていたが、場当たり≠ナ向こう見ず≠ネ目先だけに囚われれた性と、木を見て森を見ず≠フ愚かさの上に頑固さが加わり、短い人生を(我が世が)永遠に続くものと勘違いしていた。

名もなき雑草が、梅や蓮のような高貴な未来を確信していたようなものだった。


その悪い見本のような人生を歩んできた。


顧みると、常に社会の底辺を彷徨うような生活だった。

まさに、「苦多くて、楽少なし」であった。

そのような訳で、親に肩身の狭い思いをさせたままで終わってしまい、今でも背中には決して剥がすことが出来ない「親不孝」のレッテルを貼りっぱなしの有様なのである。


ところで、還暦とは六十年で再び誕生時の干支に還るというから、愚生の場合は2020927日で二十歳になったことになる。


その還暦によって、これまでのお粗末な人生の愚生にも、遅まきながら目覚めの時が来たようだ。

それは、上記@・A・Bを考えるとき、愚生の場合は唯一Aが適している、と実感するからだ。


八十路の現在、学んで、(そして)学んでも、(さらにまた、幾ら)学んでも、決して厭きることは無いのだ。

どうしたことだろうか?

言わば、狂い咲きの態である。


孔子ほどの境地には到底達し得ないけれど、日暮れて道遠し≠フ愚生でも学ぶことの楽しさは、辛うじてではあるけれども何とか理解できるようになった。

早朝散歩と併せて学ぶことは、日々の生活には欠かせぬ存在になったのである。

随分遠回りをしてきた我が人生だったが、天は救いようのない愚生にも、慈悲の心をお与え下さったのだ、と素直な気持ちで受け止めている。

有り難いことである。


感謝、感謝、感謝…。



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句
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