2022年01月03日

孔子(述而) J

54孔子 J_20210812 (6).jpg

       臨
       事
       而
       懼

事に臨んで懼る。


大事に直面しては、むしろ戦戦兢兢として身を慎むべきだ、という。

これは、決して臆病ではない、と断言している。


<管 見>

人生においては、折々選択・決断を迫られる。

その場合、

* 一時逃れ

* その場凌ぎ

* 匙を投げる

* 八方美人

* 頬被り

* 丸投げ

…などの無責任な言動は、何時かまた己に還ってくるのだ。


何事もまめ(忠実)に処理することに努め、未処理・未解決・未決定などを溜め込まないことだ。

心の内をゴミ屋敷状態にしたり、胸中の庭を雑草で埋もれさせるようであってはならない。

その時の処理方法も問題で、除草剤などの使用や業者など他人に依頼したりせずに、自らの力を以て、マメに手間をかけることが肝要だ。


最近、よく見聞きする断・捨・離≠ニいう言葉がある。

「断」は、入ってくる不要なモノを断つこと。

「捨」は、既にあるガラクタを捨てること。

「離」は、モノへの執着から離れる。

これは、物質的なことより、先ず精神的な健康状態のために断・捨・離≠ェ望まれるのだ。


さて余談はさておき、事に当たっての姿勢についての今回の「至言」に触れたい。

前後の句を記すと、

子曰、

暴虎馮河、死而無悔者、

吾不與也。

必也臨事而懼、好謀而成者也。

で、現代語訳は、

〚「若し、軍の総大将となった場合、誰を副官に選びますか?」子路の問いに〛孔子は、

「暴虎馮河のような者は任命しない。

注意深く、成功率の高い綿密な計画を立てる人物を任命するだろう。」

と答えた、という。


思慮深い、慎重な人物というのは、一朝一夕では出来上がるものではない。

日頃から怠らぬ学習・体験⇒経験が、<いざっ>という時に役立つのだ。


前にも触れたが、平時には<如何にも…>といった風情を装う者が、非常時には背を向け遠ざかり平然としている輩の姿勢を、これまで数多く味わってきた。

㋑ 苦難を敢えて受け、自ら苦汁味わう者。(他人事でも自分のことのように心を配る者)

㋺ 苦難を極度に避け、他人に苦汁を味あわせる者。(己の事でも他人事のことのように振舞い、他者に丸投げした上、収まれば己の手柄にする輩)


これまでの経験からすれば、名利に拘る者ほど、この世では㋑よりも㋺の方が断然多い。

何故なら、上記㋺の殆どの輩は、常識的・道徳的に基づけば、当然あるはずの屈託(気にかけての心配り)・躊躇い・恥じらい、と

いった感情が見受けられず、平然として憚らない(恐縮・遠慮がない)からである。


それは愚生のような、この世の底辺を徘徊してきた者のみが知ることでもあるようだ。

 


posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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