事に臨んで懼る。
大事に直面しては、むしろ戦戦兢兢として身を慎むべきだ、という。
これは、決して臆病ではない、と断言している。
<管 見>
人生においては、折々選択・決断を迫られる。
その場合、
* 一時逃れ
* その場凌ぎ
* 匙を投げる
* 八方美人
* 頬被り
* 丸投げ
…などの無責任な言動は、何時かまた己に還ってくるのだ。
何事もまめ(忠実)に処理することに努め、未処理・未解決・未決定などを溜め込まないことだ。
心の内をゴミ屋敷状態にしたり、胸中の庭を雑草で埋もれさせるようであってはならない。
その時の処理方法も問題で、除草剤などの使用や業者など他人に依頼したりせずに、自らの力を以て、マメに手間をかけることが肝要だ。
最近、よく見聞きする断・捨・離≠ニいう言葉がある。
「断」は、入ってくる不要なモノを断つこと。
「捨」は、既にあるガラクタを捨てること。
「離」は、モノへの執着から離れる。
これは、物質的なことより、先ず精神的な健康状態のために断・捨・離≠ェ望まれるのだ。
さて余談はさておき、事に当たっての姿勢についての今回の「至言」に触れたい。
前後の句を記すと、
子曰、
暴虎馮河、死而無悔者、
吾不與也。
必也臨事而懼、好謀而成者也。
で、現代語訳は、
〚「若し、軍の総大将となった場合、誰を副官に選びますか?」子路の問いに〛孔子は、
「暴虎馮河のような者は任命しない。
注意深く、成功率の高い綿密な計画を立てる人物を任命するだろう。」
と答えた、という。
思慮深い、慎重な人物というのは、一朝一夕では出来上がるものではない。
日頃から怠らぬ学習・体験⇒経験が、<いざっ>という時に役立つのだ。
前にも触れたが、平時には<如何にも…>といった風情を装う者が、非常時には背を向け遠ざかり平然としている輩の姿勢を、これまで数多く味わってきた。
㋑ 苦難を敢えて受け、自ら苦汁味わう者。(他人事でも自分のことのように心を配る者)
㋺ 苦難を極度に避け、他人に苦汁を味あわせる者。(己の事でも他人事のことのように振舞い、他者に丸投げした上、収まれば己の手柄にする輩)
これまでの経験からすれば、名利に拘る者ほど、この世では㋑よりも㋺の方が断然多い。
何故なら、上記㋺の殆どの輩は、常識的・道徳的に基づけば、当然あるはずの屈託(気にかけての心配り)・躊躇い・恥じらい、と
いった感情が見受けられず、平然として憚らない(恐縮・遠慮がない)からである。
それは愚生のような、この世の底辺を徘徊してきた者のみが知ることでもあるようだ。