2022年01月10日

孔子(論語・述而) K

55孔子 K_20210812 (4).jpg

       楽
       以
       忘
       憂

楽しみを以て憂えを忘れる。


人によって辛苦の多寡には差があろうとしても、皆無の人はおそらくいないであろう。


だから、人生に在っては「道」を楽しみ、憂いを忘れる「余裕」と「趣味」をもつことだ、と孔子が自身の体験から説いた、のだ。


<管 見>

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 道: *人道、仁義……。

*道理。

*働き、手段。

*学問、技芸……

趣味:*専門(学者・職業……)としてではなく、味わいを楽しみ・愛好する者。

   例:文学・書・絵画……。

余裕:*形而下。

    肉体的・物質的な意として…

   *精神的・形而上…。

    時間・空間を超越した抽象的・理念的…

孔子は弟子に、

「辛苦の多い世の中の状態と考えると食事のことも忘れてしまい、また、逆に楽しみごとに熱中すると心配事も吹っ飛んでしまう。そして、老い先の短いことも忘れてしまうような、そんな男が私なんだよ」

と語った、という。


そこには、聖人と言われる近寄り難い孔子の姿ではなく、並の人間の親しみを感じてしまう。

だからこそ凡人は、知徳の高み・深みなどを感じて仰ぎ見るのであろう。

下がるほど 人が見上げる 藤の花=E実るほど 頭の垂るる 稲穂かな≠ネのか…。


愚生の場合は、孔子ほどには勿論到底及ばぬので、

l  義憤を感じて憤りを覚える時には、食事をすることは忘れないが、味は砂を噛むようであることは間違いない。

l  一方、楽しむときでも心配事が気になり、晴れやかな気分にはなれず、熱中できない。

だから、どっちもどっちの中途半端な状態で、凡人の域からは脱し切れずの身なのだ。


だけど、齢を重ねることで身を以て知ることの一つに、時の過ぎる速さがある。

まさに、白駒の隙を過ぐるが如し∞光陰矢の如し≠フ箴言が針のように胸を刺す。

そうすると、止まる事の無い今の時の大切さが、深く沁みてくるのである。


また「食事」を心身に入り込む広義でのモノとすれば、単なる食べ物に限定することは出来ない。

それは、自らの好む・好まざるに拘わらず、心身に(好悪の)影響を及ばすことになる。


だとすれば、短い余生を楽しみを以て憂えを忘れる≠スめには、

l  学問・技芸に勤しみ、

l  それを楽しみ、

l  心に反映させる。

ように、日々努めることと、受け止めたい。



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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