2022年01月31日

孟子 5

58孟子 C_20210812C.jpg

       道    不

       不    直

       見    則



(ただ)さざれば則(すなわ)ち、道は見(あら)われず。


過ちというものは、言葉を尽くして正していかなければ、真の道は明らかにならない。


だから、友に過ちがあれば遠慮せずに忠告しよう、というのだ。


<管 見>

今回の至言については、「孟子」を知る以前つまり、物心がつく頃から吾の本性(生まれつきの性)なのであろうと思われるが、還暦を過ぎるころまで子供・大人に限らず誰彼無しに、言動に違和感を感じた際には黙認することはしなかった。

だから、この至言を目にした時には、然もありなんと大いに首肯したものである。


だが、愚生の今回の短見は、下記の点について述べたい。


@  改めさせようと幾度も繰り返し「忠告」をしても、その効果が全くなく疲れ果ててしまう。

A  そこで、手段・方法に工夫を凝らし、根気よく尽くしても徒労に終わり、際限がない。


B  それではと、心を込めて言うばかりでなく、行動(垂範)で示しても効果がない。

C  「友」とは、ただ血縁・戸籍上・級友・竹馬の友・地域・グループ・会社などを同じくすることには全く関係ない。

D  特に困るのは@〜Bでも述べたように、真心を核とした言動に細心の注意を以て臨み「忠告」しても、全く受け付けないばかりか所謂逆切れされたり、年齢や目上・目下・性別などには関係なくこれらの人たちの中には甘言馴れした輩ほど諫言をはき違えて怨みとなって反撃してくるのだ。


これらの場面・仕打ちを、愚生は今日まで言い尽くせない程遭遇し、相当の苦汁も幾たびも味わってきた。


どう考えても、身近な相互関係だけの単純なものに限らず、社会の一員としての最低の常識さえ弁えない輩は、経歴の良し悪しとか肩書などとは関係なく、見える部分という形だけを気にする者ほど偏見を振りかざしてくることが顕著であり、全く以て度し難い。

そして、この世に昔からそんな省みない者どもが、確かに存在することは厳然たる事実である。


各人が周囲を見渡して見て、それらの輩の存在の有無が確認できるかどうか、それ次第で、自らの存在が明らかになるだろう。

今回の<管 見>は、孟子の至言から遠く離れてしまい、愚生の愚痴話に終始した感が拭いきれない。

それに対する誹りは甘受するのみで、敢えて弁解はしない。



〚言い足らないので追補する〛孟子の言う通りに実行して少しでも効果の兆しでも感ずるならば、心友・親友とは言えないまでも(仮に広義での友であっても)、言葉を尽くして正すことには吝(やっぶさ)かではない。
然し、その言動を日数や月数単位では無く、何年・何十年努めても「もとの木阿弥」では匙を投げざるを得ない、のではなかろうか。
それとて、まだ未だ……
*辛抱が足らない。
*智恵・工夫が浅慮・短慮の域を超えていない。
*説得する者の人間力不足。
などと言われてしまえば、返す言葉もない。
だが、話し手と聞き手相互の心理的とか人間力というようなモノ・コトだけではなく、やはり相性の問題が関わり合うことの方の要素が少なくない、のではなかろうか?
八十路の愚生も、これまで随分色々な形・場面で多くの人たちと必然(因縁・宿命)・偶然(遭遇・邂逅)或いは公的・私的といったような関係での関わり合いがあったけれども、結論は相性と相克といった陰陽五行説としか考えられないことが、どんなに文明・科学が進んでもあることを断言しておきたい。


posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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