2022年02月14日

孟子 7

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            求           道
            諸    而     在
            遠           爾

道は(ちか)きに在り。而るに()れを遠きに求む。

人の道は手近な日常生活のうちにある。

それを忘れて、何かというとわざわざ高いところや遠いところに在ると思いがちである。

<管 見>

*平地から見る天空

*里や麓から見る高山

*田舎から見る都会

*在所から見る高名な名所旧跡

など、世の聞こえ高い所へ目が向きがちである。

例えば、

*地元の鎮守様

*質素な菩提寺

よりも、

有名な神社仏閣へ行けばご利益がある、と思う人達は少なくない。


孟子は、親を親愛し、年長を尊敬する、その気持ちが人の道なのだ≠ニ説いている。

極論かも知れないけれども、換言すれば人の道は、己の心の中にある≠フではないだろうか。

その自身の心を放っといて、他に頼った生き方をするのは、まさに本末転倒であろう。

そう言えば、

「山高きが故に貴からず、樹有るを以もって貴しと為なす。人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴しと為す。」という言葉がある。

即ち、山は高いから貴いのではなく、そこに樹が生えているから貴いのである。

人も、見た目が立派(図体が大きい)だから高潔だとは限らない。

つまり、見かけや評判が問題なのではなく、正味である中味()が大切なのである。

序でに記せば、孔子や始皇帝などで馴染みの山東省に在る「泰山」は、高さは1,500m程で、決して高くは無いけれど、五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも景仰(徳を慕い仰ぐ)される春秋時代以来の伝統がある。

然も、封禅の儀(天を地を祭り、天命を受ける儀式)が行われる山として名高かった。

ところで話は転ずるが、嘗て(50年以上前になるか?)女性が結婚相手に選ぶ基準として、高収入、高学歴、高身長の「三高」が男性に求められていた時代があった。

今から思うと、高度成長期の一過性のものに過ぎなかったけれど、それに踊らされた若者も少なくなかったように記憶している。

また、「より速く、より高く、より強く」は、オリンピックのモットーであるが、これは結果よりも「目標を目ざして、努力し続つづける」経過の大切さを意味するのでは?

加えて、単にスポーツだけに止まらず、人間として「より深く・高く・広く」を極めるために継続した努めを怠ることのないように、という精神を求めているのではないのだろうか。

何事も出発時から時を経ると、その目的やその過程の大切さはお座なりにされて色褪せ、単なる勝負だけに拘る風潮が、今時では益々顕著になっていくことは、真に嘆かわしい世相である。



posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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