2022年03月07日

孟子 10

63孟子 I_20210812I.jpg

(文王)
       如    視
       
       傷    民

(周の文王)は、

一般の民を労りの心を寄せ、恰も傷つける人を見るように、心配りをした。


<管 見>

はなに記した言葉の後に、望道而未之見、が続くのである。

そこで改めて全文を記せば、文王は民を()ること、()める(ものを傷む)が如く、道を望むこと未だ之を見ざるが如し、となる。

周の文王は民に対しては、病人を哀れむように民をいたわり、正しい道を仰ぎ望むことと、

同時に、まだ見ぬものをあこがれ慕うように熱心であった、ということになる。


また、伝説時代の三皇五帝を除き、それ以降の聖王と後世から尊敬され慕われるような人たちを、孟子は次のように述べている。(夏王朝・殷王朝・周王朝の三代について)

孟子は、(※記述のものは、重複するが……)

「禹(夏王朝の始祖)は、美味い酒などを遠ざけて、善言を聞くことを好んだ。

湯王(殷王朝の創始者)は、中庸の徳を持って賢者を登用し、依怙贔屓(えこひいき)しなかった。

文王(周王朝の創始者)は、人民を怪我人をいたわるかのように視察し、どうすれば正道を行くことができるのかと未踏の道を望むがごとくに(こころ)()がれた。

武王(周王朝の初代の王)は、側近を侮ることなく、疎遠な者どもですら心に忘れなかった。

周公(名は旦、周王朝・文王の子で、武王の弟。武王を援けてその死後、甥の成王の補佐役に徹して周王朝の存続に貢献した)は、これら夏・殷・周の三代にわたる四人の聖王たちの業績を全て兼ねようと思い立った。

このように、聖王たちの政治が現代の実情に合わないことがあったならば、正しい解答はどこにあるのかと、天を仰いで昼も夜もずっと考え続けた。

そして幸いにもよい解答が思いついたならば、すぐにでも政治に適用しなければと焦る気持ちで、早く朝が来ないかと座って待ち続けたものだ。」

以後、現在までこのような聖人・賢人に相当せずとも、それに少しでも近いといわれる人たちどれほ存在しただろうか?


世界的諸問題を多く抱えている現在、選挙の時ばかり美酒・甘言を並び立て国民のクダラナイ輩どもを相手に票稼ぎに精を出し、当選すればそっくり返る有様である。

それが、国単位から地方単位まで押しなべて然りなのだ。


ある時、医院の待合室で何気なく横目で、横の席のスマホを覗き見したら

「選ばれる方も・選ぶ方も、どっちもどっちなんだよ!」

と、呟くようなメールを受信したその人は、目でその文を追いながら笑っていた。





posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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