善を好めば天下に優なり。
為政者が真に善を好めば、その力は全世界を治めてもまだ余裕がある。
だから、そのような真の為政者にとっては、一国を治めるなど造作も無いことだ。
<管 見>
魯の国が、孟子の弟子の楽正子を政治に登用しようとしていた。
そこで、孟子は次のように言った、
「余はこの知らせを聞いてから、嬉しくて夜も寝られないよ。」
それを聞いて、別の弟子の公孫丑が言った、
「楽正子は、剛毅なのでしょうか?」
それに対して孟子は、
「全くそんな事は無いよ」
では、
「思慮深い智慧者なのでしょうか?」
孟子、
「いいや」
公孫丑、
「博識多聞だとか?」
孟子、
「些かも無い」
公孫丑、
「それならば、どうして先生は嬉しくて夜も寝られないのですか?
それだったら、むしろ不安にならないのですか?」
孟子、
「楽正子の人となりは、善を好むからだ」
公孫丑、
「善を好むだけで、政治を執れるのでしょうか?」
孟子、
「善を好めば、天下を治めるのにも十分なのだ。
それにも増して、魯国を治めるには余りある。
そもそも、いやしくも善を好めば、天下の者はこぞって千里の道をも平気で駆けつけて、彼に善を告げようとするのだ。
しかし善を好まなければ、甘言を好み諫言を退けるような、誤った判断のもとに独りよがりの言動をしてしまうのだ。
心ある人(有為の人たち)を遠ざけてしまうのである。
賢臣(諫言者)が千里の遠くに離れてしまえば、代りに阿諛追従の輩(甘言者)が集まってくる。
阿諛追従の輩と共にいては、国を治めようとしても治められないのだ。」
楽正子は、孟子の愛弟子であったが、然し、孟子が言うに彼は剛毅でもないし、思慮深い知恵者でもないし、博識多聞でもない。
単に善を好むだけが取り得だと言う。
孟子は、楽正子が善を好む人となりであることだけで、国を治めるのには十分であると言う。
為政者のなすべきことは、とにもかくにも人材を得ることにある。
堯は舜を、舜は禹を、湯王は伊尹を、文王は太公望らを得たことが天下の王となった理由であった。
そして為政者自身は特に実務を行なう必要はなく、信に値する人材(人財)を選択する正しい眼力を有していればよいのだ。
孔子は、(舜ついて)自ら政治に関与せず、天下を保ち続けたとして称えた、という。
それこそが、聖人(三皇五帝の五帝の一人)の道であったと言うのだ。
例えば、劉邦と項羽を比較する時、(結果論ではあるが)、
劉邦:自らは無能であったが、有能な人材を信任して自由に活躍させた。
項羽:卓越した能力と若さ、そして筋目正しい家柄などを持ちながら、独立不羈(他から制御されないで自己の所信を貫く)を貫いた。(他者の意見には、耳を貸さなかった)
結果は周知の通り、史の示す通りは歴然としている。
歴史に見えないことは勿論、剰え巷間の風聞にさえ現れない誠の人たちの存在を、想うべきだろう。
でも、想ってみても詮無いことかもしれない。
何故ならこの世は、名を馳せた巨星であろうが、梲の上がらぬ名無しの権兵衛であろうとも、何れ時の経過と共に色褪せていくのを免れようとしても全ては天任せで、人にはその術はないのだから。
「臣の好む所の者は道なり。技よりも進めり。」(荘子)・(既述)
( 私が好きなのは道である。技術の先にあるものだ。)
包丁(既述)は「道」、つまり自然を好んだ。
彼は料理人だったが、
「自然体とは何かを追及しながら、技術を極めた」と、いう。
最近よく見聞きする語にSustainable(持続可能)というのがあるけど、愚生がこの言葉に初めて出会ったのは、今から20年ほど前のことだったと想起する。
それは、従来からの各界での概念であった、経済最優先のスクラップ&ビルド(建てては壊し、壊しては建てる)方式の見直し論に関する書だった、と記憶している。
つまり、建築という狭い世界においても、「自然の存在と、それを素直に受け入れることの出来る己の心のあり方を追及しながら、技術を極める」のでなければならない、といえるであろう。
他の世界にあっても、然りだと思う。