経に反らんのみ。
〈注〉經(経)〜常(=不変の理・道理・筋道)。
のみ〜「已」の助辞。
〈参考〉
擦れた邪道だけれど、
似た漢字の記憶術(すっかり枯れた頭だが…)
巳(み)は上に、己(おのれ・つちのと)下に付き、
已(すでに・やむ・のみ)中ほどに付く
戊(つちのえ)に、戌 (いぬ)犬一匹で、
人戍(まもーる)まもる、戉(おの・まさかり)
〚土のうえ(戊)に、犬(戌)一匹で人まもる(戍)、
斧(戉)振り上げりゃ、ボウ(戊)ジュツ(戌)ジュ(戍)エツ(戉)〛
ー閑話休題ー
結局は、君子の行いは、
常道(不変の真理・常に人が守るべき道徳)に還るということだ。
即ち、常道は平凡であるけれども、その平凡こそ
万世不易(永久に変わらないこと)道だ、というの
である。
<管 見>
君子の言動は、とどのつまりは物事の筋道に
則った常道(真理・守るべき道徳)に拠る他はない
というのである。
それこそは、常套陳腐(※)で誰の目から見ても、
何の策もない特に目立った
能力も無く、ただ惰性な手法に映るけど
それこそが進むべき普遍的な道であって、
そこが定まれば人々も立ち上がる≠ニ説いているのだ。
何の変事もない平常な日々には外見は兎も角、
人の実体(実像)は解らないけれども、一朝トラブル
が生じた際にその才能の多寡や人間性が明らかになるのだ。
例えば、日頃昼行燈≠ニ評されていた、
かの大石内蔵助を追想してみれば釈然とするであろう。
そこで、前回(「孟子・盡心下」18)の「郷原」
などにも触れたり絡みながら、記してみたい。
經は常なり。⇒常道は平凡である。
だけど、
萬世不易の常道なり。
⇒平凡こそ万世不易(永久に変わらないこと)の道だ。
興は、善に興起するなり。⇒関心ある事に対し興味を持ち、
より詳しく知ろうとする気持ちは、
正しい道理(筋道・倫理)に従って、
道徳によく適合するものであって、心を奮い立たせることだ。
邪慝(※)は、郷原(※)の屬(※)の如き、是れなり。
⇒不正で邪なこととは、郷原の仲間のようなものである。
世衰え道微にして、大經正しからず。
⇒世の中が衰えて、
人としての大いなる正しい理(道理=倫理=筋道)が
欠けることであって、決して真の道ではない。
故に人々異說を爲りて以て其の私を濟すことを得て、
邪慝幷び起き、正に勝つ可からず。
⇒だから、
*多くの人たちは変な(怪しげな)説を述べて、
*事実でないこととか当てにならないことを示して
自分勝手な言い分で済ませ、
*不正で悪いことを合わせ並べたてれば、
確かに勝れた正しい条件が整わないことになってしまうのだ。
つまり、無理が通れば道理引っ込む≠ニいうことだ。
以下、略す
〈用語注〉:
常套陳腐:ありきたりで詰まらないこと。
邪慝:不正で悪いこと。
郷原:善良を装って、郷里の好評を得ようとする小人。偽の君子(道徳家)。
屬⇒屬:仲間・同類。