2022年07月04日

中庸 3

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     仁者人也

仁とは人也。

「仁」の徳をもっていればこそ人間だ、というのだ。

若し、「仁」の心を失えば、その瞬間から人間ではない、

とする。

人の人たる所以は、「仁」があるからであり、

故に、「仁」の道こそ人の道である、と言い切る。


<管 見>

(てい)(こう)(※)によれば、

「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。

医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼ぶ、という。

何故なら、

*それは、自身の心に対して、何らの働きを出来なくなってしまう

からだ、と解して、

*これを、生の連帯の断絶とそれに対して自覚を欠くことを意味す

るとし、これらの症状を治して生気を回復させることが「仁」であ

るとした。

結局、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、

身に受ける不快な刺激・苦痛の感覚(五感意)をもつことを「仁」と

しているわけである。

言い換えれば、我々は五感を通して意に届いた苦痛や不快感などを

疎ましく思うけれども、本来はそうではなくてそのように感ずるこ

とこそ、感覚が正常に働いて知らせてくれている証拠なのだ。


もう一つの説は、義・礼・智・信が、全て、「仁」であるとするこ

とである。


また、web(フリー百科事典)によれば、

(ていこう)は、書斎の窓にかかる雑草を切り払わず、常に天地の

「生意」(生気)に心を配っていたという。

師の(しゅう)(とん)()がやはり草木を「自家(自身)の意思と同じ」と考え

たことに通じ、万物は一体であるという思想を共有していた。

中国の医学書で手足が麻痺して痛みを感じなくなることを「不仁」

ということに着目し、心においても他人の苦しみを感じないことを

「不仁」、感じ得ることを「仁」と考えた、のだという。

(ていこう)は、また宇宙の万物は陰陽二気の交感によって生じされ、

事物の差は陰陽の混合の度合いに偏りがあるからだと考えた。

多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」()と呼び、

この理を直観によって把握すべきであると説いた。(直観の重視)


〈用語注〉:

(ていこう):明道元年(1032年) - 元豊8615日(108579日)

    )は、中国北宋時代の儒学者。字は伯淳。明道先生と

    された。

    朱子学・陽明学の源流の一人である。

(しゅう)(とん)():北宋の思想家。

誠敬:真心をもって事にあたり、言動を慎むこと。

自私:自己中心・利己的。

理:道理。

直観:対象となるものの本質を直接認識すること。

  (論理的思考によらない)




posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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