無侮老成人。
老成人を侮る無れ。
多くの人生経験をつんだ老人を侮ってはならない。
(盤庚の言葉)
<管 見>
この場合の「老成人」は、単に高齢者を指すのではない、と愚生考える。
それは、(短見ではあるが)
@ 五感(目・耳・鼻・舌・身―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によるモノ・コトを、十分に咀嚼して味わうこと、それが体験である。
➁上記@の体験に、己の意(心)を以て其の時に感じた・学んだモノ・コト(自分の見解)を加えておくこと、それが経験である。
*上記Aを多く保持している人を、「老成人」というのであろう。
また、「老成人」とは狭義の意ではなく、
*先人や先人たちの残してくれた諸々のことを含めた、広義として捉えるべきだと思う。
さて、今回の至言であるが、
「農は国家の基本」という考え方は、日本だけに限らず、古今東西世界の如何なる国においても然りであることには異論はないだろう。
例えば、
*ピタゴラスの定理とナイル川の氾濫
*禹(夏王朝の始祖)の治水
*武田信玄、加藤清正、豊臣秀吉らの治水
*天下統一後の豊臣秀吉による検地
*本県でいえば、
・長野堰(高崎市本郷町で取水⇒住吉町⇒堰代町⇒高崎城の堀割⇒東町で佐野分水が分岐⇒南の佐野地域⇒江木町の城東小学校南側の地点で地獄堰・上中居堰・矢中堰・倉賀野堰の4水路に分流)は、群馬県高崎市中部に農業用水を供給する用水路である。
928年(延長6年)に長野康業が長野堰の開発に着手。 時代が下って1551年(天文20年)長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正は長野堰を整備した、といわれる。
・標高1370mの稲含山を水源とする甘楽町小幡を流れる雄川堰は、織田信長の次男、織田信雄が元和元年(1615年)に上州小幡の家督を相続後の築造だといわれる。
武家屋敷や町民の生活用水や非常用水、下流の水田の灌漑用水として利用されてきた。
・天狗岩用水は、前橋市を流れる用水で、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、総社藩主となった秋元長朝が築いたもので、400年以上も現役であり続ける貴重な用水である。
など、何れも農(食)のための農地(田畑・山林等)の重要性を語るものであろう。
古代中国では、
「本」は、食糧を生み出す農業とその生産手段としての土地を尊重するといった、農本思想と呼ばれている。(一部、生活必需品を生産する最低限の手工業も含む)
特にこれらの中国思想は、中国と周辺諸国において政治思想の中核をなしていた。
この思想は、経済・社会政策の一つの基盤となった。
それに対して、
「末」は、贅沢奢侈な商品を製造・販売する商工業者を指す。
実際に中国の歴史を見ると他国に征服された場合を除けば、多くの王朝が創建から日が経つにつれて、農民の流民化の進行に伴い社会秩序は混乱して王朝が崩壊し、新しい王朝が新秩序を形成するという過程を繰り返している。
つまり、これらの記述を簡潔に纏めれば、
生活の三要素は衣・食・住であるが、若し一つだけに絞るとしたら(敗戦後の生活を経験した愚生の場合に限るけれど)、食だと断言したい。
そこで、次のような図式が成立するのではなかろうか。
食⇒農⇒大自然という環境の中での生産⇒暗黙知(経験知+身体知)⇒老成人
余談になるが、盤庚は各地の諸侯を集め、彼らに対して、国の統治について語るシーンがある。
この中で、盤庚は以下のように説いた。
「地方政治がうまくいっていない理由は、私に徳がないからではない。
お前たちの愚かさが問題だということは、火を見るよりも明らかである。」
この中での言葉火を見るよりも明らか(明白で疑う余地がない)が、我々が現在、諺として用いている語源だと言われる。
〈用語注〉:
盤庚:殷の第19代の王。兄陽甲を継ぎ即位したが当時殷の内部は政治が乱れ,国勢が衰退していた。
盤庚は国力を再興するため,奄(山東曲阜県)から殷(河南安陽市)に遷都し,王朝創設者湯王の徳を遵守したので,諸侯は再び殷に服したという。