視ること躁にして足高し。
モノを観察するのに軽率な態度をもってし、また、歩く場合に驕り高ぶって足を高く上げる。そういう者は必ず失敗する。
<管 見>
「躁」の文字は、足+喿(音)の形声文字で、喿(ソウ)は騒がしいの意。従って、足をバタバタさせて落ち着かない意味を表す。
字義としては、はやい(疾)・うごく・落ち着きがない・騒がしい・悪賢い・手荒い…など。
人の生き方を分類するのに、色々な視点・方法があり、それは多岐にわたる。
例えば、<子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり>(論語)。
(師の教え⇒朝に「道(徳)」を学べば、夕べに死んでも、満足だ)という名言がる。
「道」もまた、人によって夫々異なる。
自分に適う「道」を目的とすれば、それを探し続けるためにあらゆる手段を試みることが、それが人生そのものなのだろう。
言い換えれば、学ぶことに努めるその過程が人生なのだ。
人に限らず、この世の生物は(自らの意志で)生まれる環境を選ぶことができない。
だから、与えられた環境の中で自らの力で模索して見つけ、得るべき努力するしかない。
努力をし続けるも、放棄するも…、また、選択する種別もそれはその人の勝手次第である。
ただ、善悪の因縁に応じた吉凶禍福を我が身で受けることになるだけのことである。
つまり、因果応報である。
「蒔いた種は刈らねばならない」の出典は、聖書だという。
その「蒔いた種」の意を、自らきっかけを作って招いた悪い事態のこと、と解釈する向きが多い。
即ち、仏語の「自業自得」の類語だとすることである。
⇒[自業(自分が為した悪事)は、自得(己自身で受けること)せねばならない]
だが、真の意味は「豊かな収穫を得たいならば良い種をまきなさい」ということらしい。
従って、聖書の説くのは、どこまでも説教的な生き方をせよ、なのだ。
詰まる所、善悪は兎も角 「蒔いた種は刈らねばならない」のだから、どうせ蒔くなら良い種を蒔こうではないか、との訓えだ。
さらに勝手な解釈を加えるなら、将来実り豊かな収穫を(幸せ)望むなら、その過程では苦労しても良種(善行)に努めよ、しかも、その過程を楽しみながらなのだろう。
これは、無宗教の愚生でも納得できる。
この世にあっては(誕生を含めて)、幾らジタバタ藻掻いても己の力ではどうにもならないことが厳然としてある、のである。
ならば、他と比較して不満・不平を抱きながら日々を過ごすより、自身の努力で(内面の)向上に努めるならば、やがてはそれが楽しくなり生き甲斐を感じるようになる。
「蒔かぬ種は生えぬ」ともいう慣用語(?)がある。
これもまた、道理である。
種を蒔かなければ花も実もなるはずなどなく、収穫は望めない。
原因がなければ結果は生じない。
言い換えれば、働かなければ利益も得られるはずがない。
言だけでなく、正しい精神を基にした行動を継続しなければ、なにも現状は変わらぬばかりか、悪化の一途を辿るしかないのである。
「打たぬ鐘は鳴らぬ」・「春植えざれば秋実らず」・「物が無ければ影ささず」
これらも、お題目だけで実行する・実行しない、も夫々自由である。
過日、TVで横浜中華街の過去〜現在が放映されていた。
何気なく見ていたら、「落地生根」という文字が映し出され、深く印象に残った。
後日、意味を調べてみると、植物の種子が地に落ちて、やがて根を張り、花が咲き、葉が繁り、また落葉となって土に還ること、らしい。
即ち、それを生国(中国・台湾)から遠く離れた地・異国(日本)を本拠地として逞しく生きる華僑の人々に準えたものだということだったのだ。
あの日中戦争(日本による一方的な侵略)にも限らず、華僑の人たちの中には戦争勃発〜戦争中〜戦後〜現在に至るまで、「隣人愛」をごく当たり前のように実行していた人たちが多くいたのだ。
それは、時(状況)によって目線を上下せず、常に同じ視点(立場・観点)で接することができるのは、取りも直せず孟子の言う「大人は赤子の心を失わず」(懐の大きい・徳の高い国・人は赤子のような純真な心を失ない)の仁徳・人徳という伝統(性善説)のなせる業なのであろう。
〈用語注〉:
仁徳:他人に対する思いやりの心。
人徳:生まれながら備わっている、或いは学習・努力などで培ったもので、周りから自然と慕われたり尊敬されたりするような気質。品性。