春秋左氏伝・學殖也。
学は殖なり。
学問とは、草木を移植し繁殖させるようなものである。
学問は次第にその人を豊かにし、多才にするものだ、
という。
<管 見>
「殖」は、@しげる・そだつ・そだてる…
Aふえる・ふやす・たくわえる…
Bうえるなどだが、この場合は、Aの意が
相応しいであろう。
つまり、「学殖」とは「学んで集める・積み重ねる
・蓄える」であり、その為には先ずは自ら努力
して実行を繰り返すことによる土台・基礎となるものが
必須なのだ。
その結果として「蓄えられた知識」によって人間性の
豊かさにも通じるようになる、のだという。
だから春秋左氏伝では「学は殖なり」と言明し、続けて
「不学将落」(※)と断言している。
努力=苦しみ(さ)と成果=楽しみ(さ)とは因果関係に
ある、と思う。
ある目的のために努力を尽くし励めば、相応の結果や
成果を得ることは確かである。
若し、成果が得られないとすれば、それはまだ努力が
足らないのだ。
但し、成果とか評価などは期待せず、一歩いや半歩でも
前進していることが自覚出来れば、良しと
してそれを糧・励みに継続すれば、やがてそのことが
楽しさになる。
「苦中作楽」という言葉がある。愚生の体験⇒経験から
すれば(本来の意とはことなるが)、与えられた仕事を夢中
で熟している内に、(性分だと解釈しているのだけれど)基本的な
ことが身に付くとあれこれ自身で工夫をしたくなるのを抑えきれ
なくなってしまうのである。
また、「守破離」(※)という言葉がある。
これもまた性分だろうが、我の強さからか?何時までも
基本通りでは納まらなくなり、我流の芽が生じて独自の道
を歩み始めることになる。
始めの試行錯誤の段階では、失敗の連続で苦しいばかり
だが、やがて徐々に形を成してくるに従い楽しさが増してくる。
確りと努力(苦)をすれば、必ず成果(楽)が顕れる。
それは不思議でもなんでもなく、道理(※)なのだ。
〈用語注〉:
不学将落:学ばざれば将に落ちたり(学ばなければ
木の葉や花が枯れ落ちるように、人間性が衰える一方で、
非才に陥る)
苦中作楽:苦しい中で楽しみを作り出すこと。
上記の類語として、
苦中有楽:どんな苦にも楽がある。苦の中にこそ楽を
観つめよ。
苦中有楽苦即楽:苦しみの中に楽しみがあり、
極めれば苦しみは、即楽しみとなる。
守破離:第1段階の「守」では、師の教えを型どおりに身につけます。
型を完全にマスターできたら
「破」に移り、師の教えに自分独自のものを加えていきます。
最後の「離」で師を離れて独立すること。
道理:物事のそうあるべきこと・当然のすじみち
・正しい論理。