毋不敬
敬せざること毋れ。
何事についても、注意して慎まなければならない。
人を欺かず、自らを欺かない。
それが敬である、と説いているのだ。
<管 見>
某―漢和辞典によれば、「禮」ネ(示)+乚(豊)〜音符の形声文字で、豊(れい)は甘酒を表し、神に甘酒を捧げて幸福の到来を祈る儀式の意を指す、という。
➀人の履むべき則・心に敬意を抱き、それを行動として
外にあらわすみち。
A作法・礼儀。
など、とある。
また、別の字典では、豊(れい)は甘酒ではないが、たかつき(豆)に形よくお供え物持ったさまを表し、示(祭壇)+乚(豊)〜音符の会意兼形声文字で、整えた祭礼を示す、とあるからほぼ上記と意味は同じとみてよいだろう。
さて、今回の至言をひと言でいえば、「礼」を行うには「敬」を怠ってはいけない、というのだ。
勿論、(履歴や年齢などの」上下関係の区別なく(親しき中にも礼儀あり・垣をせよ)である。
「敬」は、攴(ぼく)+苟(きょく)〜音符の形声文字で、髪を特別な形にして、身体を曲げて神に祈るさまにかたどる、とある。
また、別の字典では、攴(動物のR)+苟(引き締める)の会意文字で、はっと畏まって体を引き締めること、とある。
加えて、「苟」(きょく)は、羊の角+人+口からなる会意文字で、人が角に触れてはっと驚いて体を引き締めることを示す、のだとある。
そこで、愚生なりきに纏めれば、人として生きていく基本的に大切なこと(言動)は、ヒト・モノ・コトに対する時には、心中に緊張感をもって接すれば自ずと尊ぶべき礼儀作法に適った言動として表れる、というのだと思う。
「意到りて筆随う」(自分が書く気になれば、筆がひとりでに進むとの意)ではないが、
*「意気に感じる」(相手のひたむきな気持ちに感動し、
自分も物事を行おうとする気持ちになる)
*「意気に燃える」(物事を積極的に行おうとする
意欲を強く抱くこと)
*「意気が揚がる」(何かをやり遂げようとする積極的
な気持ちが高まること)
*(精神一到、何事か成らざらん」(精神を集中して取り
組めば、 どんな難しいことでもできないことはないということ)
*「水到り、渠(溝)成る」(学問を究めれば自然に徳が
備わってくるということ。
また、時期が来ればものごとは自然に成就するということ)
等々、結果として現れる言動などは、その能力の程度・日頃の努め方・心中のあり方次第が表面に無意識のうちに滲み出るように曝け出てしまうのだ。
ただ、始末に負えないのは、往往にして発している本人にはその自覚が無いことだ。
然も、人間社会の中における指導的立場の者に、少なからず存在するのは誠に残念なことだ。
日本における会社組織の大半は、ピラミッド型組織(ヒエラルキー型組織)であり,
多くの利点があるけれども、問題となるのは、その頂点に立つ者と側近たちの資質というか人間性なのだ。
具体的には、底辺(直接生産労働に携わる人たち)に対する姿勢のあり方である。
組織とは、One for all,all for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的ために)をモットーに、各自が各々の責務を応分にそして忠実に果たすことであり、
そこには上位の者が個人感情を介入させて下位の者に対応するなどは以ての外だ、といえるだろう。
〈用語注〉
礼記:
「五経」(五部の経書で、易経・書経・詩経・礼記・春秋)の一つ。
周末から漢代に至る古礼についての儒者の説を集録したもの。
礼に関する理論・実際を記録編集したもの。