樂不可極
楽しみは極むべからず。
楽しみは、その果てまで尽くすべきではない。
何故なら、快楽を求める心は限りないものであり、その後には倦怠と絶望が待っている、という。
<管 見>
我が生家は、代々漁業を生業としていて、父親は高齢になっても海にでていた。
多分、根っからの海好きの所為もあったのであろうけど、母親が望む平凡でも安定した月給取りという職業をいくら頼んでも聴き入れず、選ばなかった。
つまり、己の意志(望み)を抑えて家族のために宮仕えするよりも、自分らしい生き方(自己優先)を選択して憚らなかったのだ。
仕事場は荒海の日本海だから、漁の期間は三月の末頃から十一月頃の約七か月が精々だった。
その間の稼ぎによって、漁具(舟・網などの購入や修繕)を始めとして、一年間の生計費を賄うのだ。
尤も、僅かな田畑はあったけれど、それも小作農地を含めてだから実収は高がしれたものだし、それに何といっても大人数だから、収穫の量よりも消費の量の方が多く、食費が家計の支出中に占める割合を指す、所謂、エンゲル係数が高く生活水準が低いという典型的な貧乏所帯だった。
漁の種類は、刺し網・地引網・(機械船での)疑似餌を使っての曳き釣り漁(トローリング)・延縄漁・竹籠(の中にニシンなどを入れた)を連ねたバイ貝漁などであった。
自然を相手に、受け継がれてきた技・自らの体験⇒経験による技と工夫での勝負だから、工場勤めのように定まった給料が毎月入ってくるわけでは無く、確実性に乏しい生活だった。
かてて加えて雑炊や 茶碗十三 鍋一つ≠フ大人数の家族状態だった。
でも、父親のために言い添えておくと、後年(愚生が郷を離れてから知った)、旧軍人に対する恩給制度が復活して余裕のある老後だったらしい。
そこで当時の我が家と一般会社員宅と比較してみると、
➀一般会社員宅の場合
A)現役時代中の公私の環境
㋑一人(複数の場合もあるが)の定期的収入である給料で、一家が安定した生活が送れる。
㋺また、年に二度は賞与(ボーナス)が支給される。
㋩残業すれば、手当が出る。
㊁定年(当時は五十五歳)がくればかなりの退職金が入るし、希望すれば関連会社へ就職することが可能である。
㋭日曜・祭日・盆、年末年始には休日がある。
㋬休日出勤した場合には代休がとれる。
㋣上記とは別に、当然のように(権利として)年次休暇が二十日間ある。
㋠給与・賞与以外の福利厚生(家族に対しても)が確保されている。
など、使用者側による(労働者が)一方的な不利益にならないように、労働基準法などの法律による就業規則があって確り守られている。
B)退職後の環境
公的には殆ど縛られることなく、私的(自由)時間が大半を占める。
一見すると、気楽で幸せそうに感じられたが、果たして?
➁我が家(漁業)
A)(愚生の知る祖父・父の)現役時代の公私の環境
殆ど、自業自得果であり「蒔かぬ種は生えぬ」・「打たぬ鐘は鳴らぬ」の因果応報を直接我が身・己が家族にはね返ってくる環境だった。
B)老後の環境
健康である限り、生涯現役である。
今、➀と➁を比較してみる時、
A)に関しては、➀の方が経済的には断然恵まれていたし、➁の立場からみたら羨ましかった。
だが、
B)に関しては、➀の方が傍目には自由気儘な生活を楽しんでいるように見えたけど、果たして実状はどうだったのだろうか?
➁の立場の者としては推論になってしまうけれども、実状は全員とは言えぬまでも、大半の人は暇を持て余してしまい「時」という貴重な宝を無駄に浪費していたのではないのだろうか?
勤務していた頃は、ただ馬車馬の如く脇目も振らず毎日勤めに明け暮れ、趣味に興ずることなどは殆どの人は無かったであろう。
だから、定年と同時に何もすべきことが無く、生活に空白が生じてしまい途惑ってしまうのだ。
その点、➁の場合は趣味と実益を兼ねていたように思える。
扨て、振り返って見る時、愚生の体にも「板子一枚下は地獄」、所謂、大自然相手の過酷で命がけの仕事という自己責任の世界である、という血が流れているように思える。
何故なら、どのような組織に属しても、
*己が心から素直に従うのは、「地」(生物の住むところ)にあっての「天」(地・人を超えた存在)のみであるとの信念に反する場合。
*自身の生き方(名利を追わず、己の仕事に徹す)と異なる場合。
*立場を笠に着ての邪道・無理強いと判断した場合。
*口先三寸で世渡りをし、然も、人の足を引っ張る輩に接した場合。
などの時は、如何なる相手であっても屈することなく自分というものを貫いてきた、からである。
「漁師は生涯竹一竿」という、漁夫はただ一本の釣り竿で暮しをたてている、という意味だ。
それは一見まことに貧しく品性に欠けるようにみえるが、実際は肉体を主にして、然も心豊かで自由な境涯を楽しみ味わっているのである。
つまり、➁の場合は粗衣粗食の貧乏暇なしの暮らしであるけれど、それが却って心身の健康を培っているのではなかろうか。
八十路の現在、負け惜しみでは無くて心から思い、深謝している。
〈用語注〉: