禮不踰節
礼は節を踰えず。
礼儀は節度を越えてはいけない、というのだ。
鄭重がよいといっても、度を超えた丁寧さとか必要以上の謙遜は、むしろ諂いに近くなり、場合によっては失礼にさえなる、と論じている。
<管 見>
アメリカの独立宣言(の序文に)「すべての人間は、生まれながらにして平等である」、とある。
だが、(短見ながら)生まれながらにして≠ニいうのは、既に天が与えたもののように受け取るのは、短絡的だと思う。
何故なら、ただ惰性的に生きるだけだったら、差は無くならない。
現実の世を見ても、老若男女・心身障害者・名利や姿形の違いなどによって、(賢愚、貧富、身分の高低など)差は実在している。
福沢諭吉も(学問ノススメ)で、
「世には差が歴然としてあるけれど、その不平等差を埋めるため、また生じさせない為に、学問をして己を磨くべきだ」、と説いている。
個々の差を無くして平等を得るには、己の努力次第だ、という訳なのであろう。
そのようにして得た平等な世にあっても、礼儀は人間関係を良好に保つためには必要不可欠であるけど、過度になるとかえって礼を失することになってしまう。
適度が大切、という訳だ。
即ち、偏ることの無い(中庸)ことが重要ということになる。
ところで、「稀少なるが故の価値」という話題に転じて考えてみると、
例えば、カレンダーを見ても昔と比較して祝祭日・休日が随分増えている。
愚生の青少年時代は、週一の休みは日曜日だけで、学校の長い休みの記憶は夏休みだ。
ところが、今は休日だらけの様相を呈し、レジャー(余暇)は増大する一方である。
「衣食住」は満ち足り、心身を酷使することなく余裕ある生活が容易になった。
要するに、生活全体にメリハリの無い、だらけた(締まりの無い)ものになった、といえるだろう。
節制を無視した生き方は、人間の欲望を増長させ、まったりとした渋茶よりも濃い美酒を追い求め、刺激に刺激を重ねるといった負のスパイラルに陥るのだ。
さらに困ったことには、その状態になっていること自体を気づかないことなのだ。
例えば、偶の休みだからこそ、待ち遠しく感じるのは言い換えればその間を楽しんでいるともいえるのではなかろうか。
苦のお蔭、当たり前の有り難さ≠ネのではあるまいか?
僅かな楽しみのために、多くの苦労・辛抱をしてこそ人間らしい節度ある生活といえる。
また話が転じるが、厚生労働省のホームページなどに依れば、
*身体と心の健康を維持するには
健康=身体的だけではなく、総合的なものである、という。そして、日常生活や習慣を重視したものが重要であり、運動や食 事、喫煙、飲酒などの生活習慣行動、感情のコントロールなどの問題に対して有効なセルフケア(自己管理)が必要。
*身体と心の健康を保つ生活習慣
適度な運動を習慣化することが、健康な身体と心を維持する上で不可欠。
*適度な運動をして汗をかくことで、肉体に良い影響を与えるだけでなく、ストレスを軽減させる。
即ち、意識して(日々の地道な努力)身体を動かすようにすること。
*バランスのとれた食事
心身の健康を育むためには、バランスのとれた食事・食べ方が欠かせない。
食生活の乱れは生活習慣病にも繋がるため、欠食や間食は避け、やけ食いにも注意して栄養バランスのとれた食事を3食しっかりとること。
アルコールも我慢するとストレスに繋がるので、節度ある飲み方が肝要。
*休養をとる
身体と心の健康を維持には、しっかり睡眠をとって疲労回復を図ること。
また、休養とは無為に過ごすのではなく、自省など自分を見つめたり、趣味やスポーツなどで過ごしたりすることで、心身を整える。
などと呼び掛けている。
これらもいうならば、過度な事を避け適度な生活習慣を薦めているのだ。
〈用語注〉: