2023年06月05日

老子 10 

118老子 I.jpg

上善若水

上善は水の(ごと)し。

最上の善は水のようなものである。

続いて、

水は()く万物を()して(しか)(あらそ)わず

(しゅうじん)(にく)む所に()

(ゆえ)に道に(ちか)


<管 見>

最上の善は、水のようなものだ、と説く。

その理由は、三つあるという。

水は万物に利沢を与えている。

 天地に水なくしては存在するものは無い。

 それ程大きな存在でありながら、他と争わない。

人間は得てして(とかく)一歩でも高みを望むが、水はその逆により低い所を目指す。

B低きに身を置くから大()へと繋がるのだ。

初めの一滴はやがて谷川となり大川に、その大川の流れはさらに海という大きな存在になる。

 若し、最初から高みにいれば、低きに至るのみである。

 何故なら、満つれば()(満月は次第に欠けるように、人間も栄華の絶頂に達すると、やがて衰運に至るのみである。盛者必衰) 


また、水は方円の器に随う$は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきる。

しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残さない。

優れた人は何時、 何処、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引かない。

怒る時は徹底して怒る、悲しむ時は徹底して悲しむ、仕事の時は徹底して仕事に没頭、趣味に興ずる時にはこれまた徹底する。

―滋賀県 ・西江寺住職の稲葉隆道さんの法話―によれば、

……その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。

 しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。 

……平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。

人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。

自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。


即ち、水は清濁を問わずに用い方で如何様にも(災害をもたらすこともまた人の役に立つこともある)様変わりするけれども、それを決して水自らが理屈で教えるのではなく、人間それぞれの体験⇒経験で取得することを望んでいるともいえる。


〈用語注〉:


posted by 頑輝 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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