上善は水の若し。
最上の善は水のようなものである。
続いて、
水は善く万物を利して而も争わず
衆人の悪む所に処る
故に道に幾し
<管 見>
最上の善は、水のようなものだ、と説く。
その理由は、三つあるという。
➀水は万物に利沢を与えている。
天地に水なくしては存在するものは無い。
それ程大きな存在でありながら、他と争わない。
➁人間は得てして(とかく)一歩でも高みを望むが、水はその逆により低い所を目指す。
B低きに身を置くから大(高)へと繋がるのだ。
初めの一滴はやがて谷川となり大川に、その大川の流れはさらに海という大きな存在になる。
若し、最初から高みにいれば、低きに至るのみである。
何故なら、満つれば虧く(満月は次第に欠けるように、人間も栄華の絶頂に達すると、やがて衰運に至るのみである。盛者必衰)
また、水は方円の器に随う$は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきる。
しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残さない。
優れた人は何時、 何処、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引かない。
怒る時は徹底して怒る、悲しむ時は徹底して悲しむ、仕事の時は徹底して仕事に没頭、趣味に興ずる時にはこれまた徹底する。
―滋賀県 ・西江寺住職の稲葉隆道さんの法話―によれば、
……その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。
しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。
……平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。
人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。
「自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。
即ち、水は清濁を問わずに用い方で如何様にも(災害をもたらすこともまた人の役に立つこともある)様変わりするけれども、それを決して水自らが理屈で教えるのではなく、人間それぞれの体験⇒経験で取得することを望んでいるともいえる。
〈用語注〉: