2023年06月05日

老子 10 

118老子 I.jpg

上善若水

上善は水の(ごと)し。

最上の善は水のようなものである。

続いて、

水は()く万物を()して(しか)(あらそ)わず

(しゅうじん)(にく)む所に()

(ゆえ)に道に(ちか)


<管 見>

最上の善は、水のようなものだ、と説く。

その理由は、三つあるという。

水は万物に利沢を与えている。

 天地に水なくしては存在するものは無い。

 それ程大きな存在でありながら、他と争わない。

人間は得てして(とかく)一歩でも高みを望むが、水はその逆により低い所を目指す。

B低きに身を置くから大()へと繋がるのだ。

初めの一滴はやがて谷川となり大川に、その大川の流れはさらに海という大きな存在になる。

 若し、最初から高みにいれば、低きに至るのみである。

 何故なら、満つれば()(満月は次第に欠けるように、人間も栄華の絶頂に達すると、やがて衰運に至るのみである。盛者必衰) 


また、水は方円の器に随う$は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきる。

しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残さない。

優れた人は何時、 何処、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引かない。

怒る時は徹底して怒る、悲しむ時は徹底して悲しむ、仕事の時は徹底して仕事に没頭、趣味に興ずる時にはこれまた徹底する。

―滋賀県 ・西江寺住職の稲葉隆道さんの法話―によれば、

……その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。

 しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。 

……平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。

人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。

自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。


即ち、水は清濁を問わずに用い方で如何様にも(災害をもたらすこともまた人の役に立つこともある)様変わりするけれども、それを決して水自らが理屈で教えるのではなく、人間それぞれの体験⇒経験で取得することを望んでいるともいえる。


〈用語注〉:


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2023年05月01日

老子 9 

117老子 H.jpg

天長地久

天は長く、地は久し。

天地が永遠に変わらないように、物事がいつまでも続くこと。


<管 見>

愚生の管見などより、保立道久氏(東京大学史料研究所名誉教授・歴史学者)の解説を、以下に引用させていただくこととする。

冒頭の「天長地久」という言葉は、きわめて有名なもので、普通、天地の安定を謳歌する、おめでたい文句であるとされている。

明治時代には天皇誕生日を「天長節」といったが、本来、天長節というのは、絶世の美人とされる中国の楊貴妃の

夫の玄宗皇帝が自分の誕生日を祝日としたのが最初である……。

日本でも光仁天皇が七七五年(宝亀六)十月十三日の誕生日に天長節の儀を行なった。

しかし、日本では誕生日を祝うという慣習自体が根付かず、……。

<この間、略す>

 『老子』五章には「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」()という強烈な思想があることは少し前に紹介した通りで、天地は人間とは関わりなく存在して人間を吹き飛ばすものでもあったのである。

老子は、そういう天地と歴史の現実をふまえた上で、人間は天地と同じように、「自らを生ぜざる」という覚悟をもたねばならないというのである。

これは自己意識の過剰を放棄するということであろう。


 この章の解釈で、一番問題にされてきたのは、それに続く「是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ」という部分である。

これは、普通、「聖人はわが身を人の後ろにおきながら、それでいて自ずから人に推されて先立つ」などと訳されるが、これでは、意識して人の後ろについて、推薦されるのを期待するということになりかねない。

これでは「老子のずるい処世法」「計算された功利主義」ということになりかねない。

以上を前提にすれば、

……老子は、禅の言葉でいう自己の放下を支持しているのである。それが人の後ろであれ通常をはずれた位置であれ、それは二次的な問題だというのであって、これは「曲なれば則ち全し(負けるが勝ち)」の思想と同じことである。

これを「人に推されて先立つ」ことを期待できるなどというニュアンスで読んでしまうのは、前半の「天長地久」の意味が読めていなかったことを示している。


これらを賢しらの誹りを無視して、愚生なりきに平易にして述べれば、天は永遠であり、地も永遠である≠ニいうことなのではないか?

天地がその様に永久であるのは、自ら永久であろうとする意志が無いからだ

だから「道」を知った聖人はわが身を後回しにしながら周囲に推されてその身は人の前に立ち、わが身を謙虚にして人の外側に置きながら、周囲に推されてその身は人の中心にある。

これはその人が無私無欲(原因)であることのからの結果ではないだろうか。

無私無欲であるからこそ、自分の意(意見・考え・望み)を貫いていけるのだろう。


情けは人のためならず=E己の欲せざる所、人に施す勿れ≠ナ、自分の得することばかりを優先していると、後ろを振り向いたときには従う者は誰もいなかったという結果になるだろう。

結局、その先には淋しい孤独な人生があるだけなのだ。


〈用語注〉:(主として管見)

「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」:自然というのは「仁」(人為的な優しさや愛情)

                    を持ち合わせてはいない。

野獣の世界では、弱肉強食であり弱者が可哀想だからといって、助けていたら強者が飢え死にしてしまう。

そういう目先の「仁」(儒教における人間関係の基本・他人に対する親愛の情、優しさ)を持ち合わせていなくても、

調和が保たれるようにできているのが自然だ。

例えば、人間を含むすべての動物の食べ物は、植物が光合成によってつくる有機物(生命体)が源になっている。

そして、植物を食べる草食動物は⇒肉食動物に食べられ、その遺骸は⇒バクテリアによって分解される。

というように、互いに「食べる・食べられる」関係にある食物連鎖中、自然や神は一連の中に於いて

その都度弱者を助けるだろうか?

また人間社会においても、公平にみて善人だと思われる

人達が独裁者たちによって虐げられている不公平な現状もまた然りである。

これらを目の当たりにして、神仏に思わず疑問を抱いた心の働きを思わば理解できるだろう。


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2023年04月03日

老子 8 

116老子 G.jpg

多言數窮

多言なれば数数(しばしば)(きゅう)す。

饒舌(じょうぜつ)は、しばしばゆきづまるものだ。

「虚心で無言を守るに()くはなし(及ぶものはない

・匹敵するものはない)」。

言い換えれば、「言葉が多いとしばしば行き詰まる。

虚心坦懐なのが一番よい」得てして、

「口数が多いと、かえって言葉に行き詰まることが多い」というのだ。


<管 見>

過ぎたるは及ばざるが如し

であって、極端に度が過ぎたり、

程度に達しないのは、どちらも正しいとはいえない。

 論語の説く天人合一真理「中庸の道」。

つまり、「どちらにも偏らず常に不変のこと」が実は大切なことなのだ。

過不足がなく、調和がとれていることが、

平凡のようでこれがまたなかなか難しいのであって、

ふとした軽率な言葉は、しばしば誰かを追い詰めることに繋がる。

だから、先入観を抱かず心をからっぽにして偏重しないように心がけるに越したことはない。


天は、人の自立を促すことはあっても、

無条件に人を助けてくれることはない。

人は葦の如く弱者であっても、考える葦≠セから

お互いが英知を出し合いし、協力・助け合いを以てすれば大概なコトは可能とすることができる。

”天は自ら助くる者を助く”を為して、

その後に”人事を尽くして天命を待つ”のが望ましい。


つまり、天の力添え(神頼み)や天命を待つしかない、

という時でもその前には為すべきことに対して、

人は全力で先ず努めなければならない。

自然界の調和が保たれるように出来ているのが自然である。

その教えにある通り、人間社会においても自然界の原理原則に基づいて、

虚心坦懐()に、真摯に、謙虚に、誠実に行うことが肝要なのだ。


話す・聴く、という会話は、言葉(書き言葉・話し言葉)や態度(表現方法)

を道具(シンボル)として用いてお互いのコミュニケーション

(意味内容の伝達)を図るさまである。

これによって、社会生活(共同生活)成り立つものだ。

然し、「能弁」だから効果をより上げるものでも無いし、

「訥弁」だから意思の疎通が図れないものでもないのは、

自明の理である。


〈用語注〉:

虚心坦懐:心に蟠りもなく、さっぱりして平らな心。また、そうした心で物事に臨むさま。


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2023年03月06日

礼記 9

115礼記 H.jpg

報本反始

(もと)に報い始めに()える。

㋑万物の存在は、天に基づく。

㋺人は、祖先に基づく。

その根本の恩に感謝し、その功を讃えるべきだ、ということである。

<管 見>

漢和大字典によれば、

「天」は、

➀会意文字で、一と大の合字。「大」は人の貌。人の頭上に一の符号を加えてテンの義とする。

人と二の合字。「二」上の古文という。中国古代の民は、「天」を至高のものとし、之を造化の神、上帝と考え、之より真理・正義・運命等の義とする。

梵語の「提婆(どうば)」は、「天」のこと。

「神」(~)は、

形声文字で、ネ()+申(音符)

申は、いなびかりの象形で、天の神の意味。

示を付し、一般に、「かみ」のいみを表す。

「仏」()は、

 形声文字で、人+(ふつ)(音符)

 漢和大字典では、よく見えないの意を含む、(ぶつ)(はっきりしない)(こつ)(ぼんやりする)・没(て見えない)と同系の言葉。

 梵語のBuddha(ブッダ)に当てたのは、音訳であって原義とは関係が無い。


このように、文字から勝手な解釈をすれば、

「天」・「神」は、天地を創造し、その間の万物を創造するばかりでなく、化育をも為される存在であり、

そこには「人」の入り込むなんてことは、全く論外なのである。

ところが、

「仏」()は、人偏があり人の性質や状態などを示すもので、それらの意味と字形の分類のための部首であるからして、人が関係するものだと断定としても構わないであろう、と思われる。


これらを、冒頭の「本に報い始めに反()える」に当て嵌めれば

 ㋑は、「天」・「神」(~)は、万物を超えた存在で、「授」(与え教える・伝える)

 ㋺は、祖先⇒人は、㋑から「受」(受け取る〜受領・受け入れる〜甘受・蒙る)

となり、何れにしても「その根本の恩に感謝し、その功を讃えるべきだ」となる。



〈用語注〉:

造化:天地を創造し、その間に存在する万物を創造・化育(生み育てる)すること。

また、それをなす者。


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2023年02月27日

礼記 8

114礼記 G.jpg

天道至教」  

天道は至教なり。

天の道の運行は、人間にとって最も大切な教えである。


<管 見>

人は、自然の摂理(天道=神)の中で生かされているのだ、という。

従って、愚見などの口の挟む余地なしである。


〈用語注〉:

天道:日本国語大辞典によれば、

➀天地自然の道理。天の道。天理。

➁主宰する神。天帝。上帝。また、その神の意思。天地間の万般を決定し、さからうことのできない絶対的な意思。

B (一般に「てんとう」) 太陽。日輪。てんとうさま。

C 天体の運行する道。天。空。天空。

D 天上界。

E 仏語。六道・五道の一つ。欲界六天と色界・無色界の総称。天上界。天界。

F (てんとう) 「てんとうぶね(天当船)」の略。

摂理:自然界を支配する法則。


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2023年02月20日

礼記 7

113礼記 F.jpg

至敬無文  

至敬に文無し。

敬いの極点に達したとき、そこにはもはや(あや)や飾りは無い、という。


<管 見>

尊敬の念が最高に至ったときには、その心以外何も不要である。

また、仮に飾り立てても、

@道理に合わない

Aそうする理由がない

B意味がない、つまらない

など、かえって「敬いの心」を汚したり、薄めたりの作用が働くばかりである、というのだろう。

つまり、

*蛇足

*功を弄して拙を為す

*過ぎたるは猶及ばざるが如し

*無用の長物

であって、「敬は礼の本なり」なのだ。


〈用語注〉:

():語源は、縦糸と横糸を組み合わせで、織物や模様の意。

そこから派生して、

*心の綾(心の動きの機微)

*言葉の綾(微妙で上手い言い回し)

*目にも綾な(織りなされた美しい情景)

等という。


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2023年02月13日

礼記 6

112礼記 ➅.jpg

量入爲出  

入るを量りて以て出ずるを為す。

収入の多少を加減してから支出をする。

それが財政学の根本である、と説いているのだ。


<管 見>

が、然し………?

「量入爲出」の類語に「量入制出」(入るを量りて以て出ずるを制する)があり、

その対義として、

「量出爲入」⇒「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)があるのではないか?


経済組織の二元論『市場経済』と『財政』

➀『市場経済』とは、企業であれば企業の売上、家計であれば賃金収入、というように、収入がまず決まり、その収入に基いて支出を決める。

従って、「量入制出」(入るを量って出ずるを制する)に基いて運営される。

というのは、企業の売上は生産物市場、賃金収入は労働市場というように、市場によって収入が決まるからだという。

一方、

➁『財政』とは、国家の経済を指し、政治過程で決定されるものである。

そのため必要な支出を決めてから、それを賄う収入を決めることになる、政治過程で収入を決めるには、必要な支出が決まらない限り、収入(税金など)の決めようがないからだ。

従って、財政は「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)で運営されることになる。

先ず、国民の要望をはじめに考えてそのための財源を、みんなで負担し合うというもの。

人間社会を、互恵・共有・共生を基とし、(社会のニーズを充足するための存在であるから)先ず財政民主主義の原則のもとでこれらのニーズを確定する必要があるのだろう。

例えば、(この際、防衛論はさて置き)

先ず、「現在の防衛力を強化する」を国是とした時、防衛費の増額を図る場合にその財源を、税制・公債(国債)・他の予算削減……、という風に支出を前提として収入を図る、所謂、「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)ことになるのだろう。


扨て、これからの記述は、経済に関して門外漢の愚生による独断と偏見だけど、

㋑『家政』の根本は量入為出(量入制出)。

㋺『財政』の根本は量出為入(量出制入)。

だというけど、結論は同じだと思うのである。

何故ならば、『家政』であれ『財政』であれ、収入と支出のバランスを考慮しないで運営すれば、やがては破綻を招くのは必至だからだ。


さらに極論を言えば、健康の維持は「食事」と「排泄」のバランスが不可欠なのだ。



〈用語注〉:


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2023年02月06日

礼記 D

111礼記 D.jpg

禮不踰節 

礼は節を()えず。

礼儀は節度を越えてはいけない、というのだ。

鄭重がよいといっても、度を超えた丁寧さとか必要以上の謙遜は、むしろ諂いに近くなり、場合によっては失礼にさえなる、と論じている。


<管 見>

アメリカの独立宣言(の序文に)「すべての人間は、生まれながらにして平等である」、とある。

だが、(短見ながら)生まれながらにして≠ニいうのは、既に天が与えたもののように受け取るのは、短絡的だと思う。

何故なら、ただ惰性的に生きるだけだったら、差は無くならない。

現実の世を見ても、老若男女・心身障害者・名利や姿形の違いなどによって、(賢愚、貧富、身分の高低など)差は実在している。


福沢諭吉も(学問ノススメ)で

「世には差が歴然としてあるけれど、その不平等差を埋めるため、また生じさせない為に、学問をして己を磨くべきだ」、と説いている。

個々の差を無くして平等を得るには、己の努力次第だ、という訳なのであろう。


そのようにして得た平等な世にあっても、礼儀は人間関係を良好に保つためには必要不可欠であるけど、過度になるとかえって礼を失することになってしまう。

適度が大切、という訳だ。

即ち、偏ることの無い(中庸)ことが重要ということになる。


ところで、「稀少なるが故の価値」という話題に転じて考えてみると、

例えば、カレンダーを見ても昔と比較して祝祭日・休日が随分増えている。

愚生の青少年時代は、週一の休みは日曜日だけで、学校の長い休みの記憶は夏休みだ。


ところが、今は休日だらけの様相を呈し、レジャー(余暇)は増大する一方である。

「衣食住」は満ち足り、心身を酷使することなく余裕ある生活が容易になった。

要するに、生活全体にメリハリの無い、だらけた(締まりの無い)ものになった、といえるだろう。

節制を無視した生き方は、人間の欲望を増長させ、まったりとした渋茶よりも濃い美酒を追い求め、刺激に刺激を重ねるといった負のスパイラルに陥るのだ。

さらに困ったことには、その状態になっていること自体を気づかないことなのだ。

例えば、偶の休みだからこそ、待ち遠しく感じるのは言い換えればその間を楽しんでいるともいえるのではなかろうか。

苦のお蔭、当たり前の有り難さ≠ネのではあるまいか?

僅かな楽しみのために、多くの苦労・辛抱をしてこそ人間らしい節度ある生活といえる。


また話が転じるが、厚生労働省のホームページなどに依れば、

*身体と心の健康を維持するには

  健康=身体的だけではなく、総合的なものである、という。そして、日常生活や習慣を重視したものが重要であり、運動や食 事、喫煙、飲酒などの生活習慣行動、感情のコントロールなどの問題に対して有効なセルフケア(自己管理)が必要。

*身体と心の健康を保つ生活習慣

適度な運動を習慣化することが、健康な身体と心を維持する上で不可欠。

*適度な運動をして汗をかくことで、肉体に良い影響を与えるだけでなく、ストレスを軽減させる。

即ち、意識して(日々の地道な努力)身体を動かすようにすること。

*バランスのとれた食事

 心身の健康を育むためには、バランスのとれた食事・食べ方が欠かせない。

食生活の乱れは生活習慣病にも繋がるため、欠食や間食は避け、やけ食いにも注意して栄養バランスのとれた食事を3食しっかりとること。

アルコールも我慢するとストレスに繋がるので、節度ある飲み方が肝要。

*休養をとる

   身体と心の健康を維持には、しっかり睡眠をとって疲労回復を図ること。

また、休養とは無為に過ごすのではなく、自省など自分を見つめたり、趣味やスポーツなどで過ごしたりすることで、心身を整える。

などと呼び掛けている。

これらもいうならば、過度な事を避け適度な生活習慣を薦めているのだ。


〈用語注〉:



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2023年01月30日

礼記 C

110礼記 C.jpg

樂不可極 

楽しみは極むべからず。

楽しみは、その果てまで尽くすべきではない。

何故なら、快楽を求める心は限りないものであり、その後には倦怠と絶望が待っている、という。


<管 見>

我が生家は、代々漁業を生業としていて、父親は高齢になっても海にでていた。

多分、根っからの海好きの所為もあったのであろうけど、母親が望む平凡でも安定した月給取りという職業をいくら頼んでも聴き入れず、選ばなかった。

つまり、己の意志(望み)を抑えて家族のために宮仕えするよりも、自分らしい生き方(自己優先)を選択して憚らなかったのだ。

仕事場は荒海の日本海だから、漁の期間は三月の末頃から十一月頃の約七か月が精々だった。

その間の稼ぎによって、漁具(舟・網などの購入や修繕)を始めとして、一年間の生計費を賄うのだ。

尤も、僅かな田畑はあったけれど、それも小作農地を含めてだから実収は高がしれたものだし、それに何といっても大人数だから、収穫の量よりも消費の量の方が多く、食費が家計の支出中に占める割合を指す、所謂、エンゲル係数が高く生活水準が低いという典型的な貧乏所帯だった。


漁の種類は、刺し網・地引網・(機械船での)疑似餌を使っての曳き釣り漁(トローリング)・延縄漁・竹籠(の中にニシンなどを入れた)を連ねたバイ貝漁などであった。

自然を相手に、受け継がれてきた技・自らの体験⇒経験による技と工夫での勝負だから、工場勤めのように定まった給料が毎月入ってくるわけでは無く、確実性に乏しい生活だった。

かてて加えて雑炊や 茶碗十三 鍋一つ≠フ大人数の家族状態だった。

でも、父親のために言い添えておくと、後年(愚生が郷を離れてから知った)、旧軍人に対する恩給制度が復活して余裕のある老後だったらしい。


そこで当時の我が家と一般会社員宅と比較してみると、

➀一般会社員宅の場合

 A)現役時代中の公私の環境

 ㋑一人(複数の場合もあるが)の定期的収入である給料で、一家が安定した生活が送れる。

 ㋺また、年に二度は賞与(ボーナス)が支給される。

 ㋩残業すれば、手当が出る。

 ㊁定年(当時は五十五歳)がくればかなりの退職金が入るし、希望すれば関連会社へ就職することが可能である。

 ㋭日曜・祭日・盆、年末年始には休日がある。

 ㋬休日出勤した場合には代休がとれる。

 ㋣上記とは別に、当然のように(権利として)年次休暇が二十日間ある。

 ㋠給与・賞与以外の福利厚生(家族に対しても)が確保されている。

など、使用者側による(労働者が)一方的な不利益にならないように、労働基準法などの法律による就業規則があって確り守られている。

 B)退職後の環境

  公的には殆ど縛られることなく、私的(自由)時間が大半を占める。

  一見すると、気楽で幸せそうに感じられたが、果たして?

➁我が家(漁業)

 A)(愚生の知る祖父・父の)現役時代の公私の環境

 殆ど、自業自得果であり「蒔かぬ種は生えぬ」・「打たぬ鐘は鳴らぬ」の因果応報を直接我が身・己が家族にはね返ってくる環境だった。

 B)老後の環境

 健康である限り、生涯現役である。


今、➀と➁を比較してみる時、

)に関しては、➀の方が経済的には断然恵まれていたし、➁の立場からみたら羨ましかった。

だが、

)に関しては、の方が傍目には自由気儘な生活を楽しんでいるように見えたけど、果たして実状はどうだったのだろうか?

の立場の者としては推論になってしまうけれども、実状は全員とは言えぬまでも、大半の人は暇を持て余してしまい「時」という貴重な宝を無駄に浪費していたのではないのだろうか?

勤務していた頃は、ただ馬車馬の如く脇目も振らず毎日勤めに明け暮れ、趣味に興ずることなどは殆どの人は無かったであろう。

だから、定年と同時に何もすべきことが無く、生活に空白が生じてしまい途惑ってしまうのだ。

その点、➁の場合は趣味と実益を兼ねていたように思える。


扨て、振り返って見る時、愚生の体にも「板子一枚下は地獄」、所謂、大自然相手の過酷で命がけの仕事という自己責任の世界である、という血が流れているように思える。

何故なら、どのような組織に属しても、

*己が心から素直に従うのは、「地」(生物の住むところ)にあっての「天」(地・人を超えた存在)のみであるとの信念に反する場合。

*自身の生き方(名利を追わず、己の仕事に徹す)と異なる場合。

*立場を笠に着ての邪道・無理強いと判断した場合。

*口先三寸で世渡りをし、然も、人の足を引っ張る輩に接した場合。

などの時は、如何なる相手であっても屈することなく自分というものを貫いてきた、からである。


「漁師は生涯竹一竿」という、漁夫はただ一本の釣り竿で暮しをたてている、という意味だ。

それは一見まことに貧しく品性に欠けるようにみえるが、実際は肉体を主にして、然も心豊かで自由な境涯を楽しみ味わっているのである。

つまり、➁の場合は粗衣粗食の貧乏暇なしの暮らしであるけれど、それが却って心身の健康を培っているのではなかろうか。

八十路の現在、負け惜しみでは無くて心から思い、深謝している。


〈用語注〉:


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2023年01月23日

礼記 B

109礼記 B.jpg

志不可滿  

志は満たしむべからず。

全てのことについて、完全に満足のいくまで求めるという考えは捨てなければならない、というのである

欲望に限りは無く、そして一旦のめり込めば自ら退くことが出来ず、前に前にと進む一方で際限がないものだから、限度を弁えることが出来ない者は、最初からなまじ手を出さないことだ、という。

その典型的なものが、男の「飲み、打つ、買う」の道楽だろう。


<管 見>

「ヤマアラシのジレンマ」で知られるドイツの哲学者ショーペン・ハウエルの至言に、

「富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる」、というのがある。

当に、その形容は言い得て妙である。


『四書』の一つに「中庸」がある。

第一章に、「天の命之を性と謂い、性に(したが)う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂う」という言葉がある。

その意は、天が授けたものを人の性というのだ。

短見ながら、「天」とは、天・地・人(万物の)の最高に位置する絶対的な存在、と解釈する。

➀「人の性」とは、天から生まれる時に授かった自然な性質(天性・人性)であろう。

A  「人の道」とは、上記➀の自然(人情)に従うことである。

B  上記Aを修めることを「教え」(教育)という。

また、別な言い方をすれば、「天」には考えがあるのだ、という。

その考えとは、

㋑ある「目的」を持っている。

㋺そして、上記➀から発する「命令」なのだ、という。

その「命令」とは、斯く在れと人間に与えられたものである。

それからは、上記➀〜Bと重複することになるが、

㊁その与えられたものとは、「人の性」。

㋭次に上記㊁、つまり「性に(したが)う」〜人情に従うことが「人の道」なのだ、という。


「天」は、万物に対して公平であり、決して偏ったり偏愛はなく、常に「陸」なのだ。

従って、「中庸」の説くところは、中和の徳で人間が持つ特有のものだから、「至誠」(誠実・真心)、と言っても差し支えないだろう。

だから、

*人は常に欲望を(ほしいまま)にせず、

*傲慢を慎み、

*一方に偏らず、

*知者は之に過ぎ(出過ぎ者・やらなくともよいことをやり過ぎる)

*愚者は及ばず(全てやり足りない)

等々に鑑みて、和して同ぜず(和すれども付和雷同にならず)に生を送ることが、肝要なのだろう。

人は、「天・地・人」にあっては、所詮「天・地」の中で生かされている存在なのだから、高い境地には到達できなくても、せめてそれらを目標として怠りなく努め・励むという日々の生き方をすることが大切なのだろう。


また、離欲・知足の精神に沿った生き方を忘れてはなるまい。


〈用語注〉:


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2023年01月16日

礼記 ➁

108礼記 ➁.jpg

安定辭

(ことば)を安定にせよ。

ことばづかいには、落ち着きがなければならない。

その落ち着きは心の平静からもたらされる。

心に動揺がなければ、ことばも自然に安定するものだ、と説いている。


<管 見>

人間には、(車の両輪のように)理性と感性(感情)ある。

➀理が過ぎると、常に冷静だが、人間味が無いと言われる。

➁情が過ぎると、情け深く情に脆い一方、感情的だとか好き嫌いが激しい等と言われる。


この世に在る限り、種々の影響化の下で生活していかなければならない。

その各種の影響を受け止め、思考し、対応するという言動を行っている中で、人によって理性と感性(感情)が夫々の形となって外に発信されて顕れ出る。

人は夫々だが、仮に上記➀と➁を考える時、「車の両輪」に譬えたけれども別な表現をすれば、

*「理性」を車の操作(操る者の意志)〜能動・自律。

 目的を果たすための統御を司る役目・働き(指揮系統)

*「感性」を車の駆動(目的に沿った働き)〜受動・他律。

 操作を受けて、目的果たすために実働するもの(ハンドル・アクセル・ブレーキなど車体の各部品・機能)


指揮系統である頭脳(理性)が十分に理解し、納得していても、精神(感情)が高ぶり理性では制御できないケース。

また、その逆に理性が勝り感情を制御できているケース

どちらも、固定化される或いは固定化されたものでは無く、ケースバイケースであろう。

仕事などでは「理性」を通して物事を処理するのが望ましいのだろうけども、それでも人との関わり合いがあるからには「感情(情動・情け)」を無視することは出来ない。

例えば、書店で本や筆記用具などを大量に購入しても、店員の対応が無表情な時がある。

そうかと思えば、同じ書店で僅かな買い物をしても笑顔で応対されると、得をした気分になる。


「ヒト」では無く、「モノ(道具など)」や「ペット」との付き合いでさえ、自然と愛着が湧いてきて思わず感謝の言葉を話しかけている時がある。

剰え、物の売買という業務は品物の売買であるけれど、「ヒト」が介在して成立するものなのだ。

やはり、そこには「精神(心・感情)」のやり取りが不可欠なのだ、と思う。


つまり、「理性」一辺倒では事程左様に味気なさが暫くは尾を引いてしまう。

「理性」で捌くのが本筋の場合でも、その何割かは「感情(情動・情け)」をもって接することが必要であろう。


仕事では、モノを主とするのが本筋かもしれないが、それだけでは血の通った人間味が失われてしまう場合もあるので、論理だけでは割り切れないものを「精神(心・感情)」を加えて補う。

「理性」と「精神(心・感情)」のバランスが重要な要素として欠かせない。

その人によって、それらの多寡・大小は異なるだろうけれども、誰もが持っている。


Webで「COOL HEAD(冷静な頭脳)」と「WARM HEART(温かい心)」という言葉を知った。

これもまた、車の両輪に譬えて大切だという。


ところで、

*「情緒」(あるモノに接した時に受けるしみじみとした味わい)

 例:晩秋の夕暮れ時など、静かな環境において、軒に落ちる雨垂れの音に耳を傾ける。

*「感動」(感銘を受けて、特にしみじみとして心を深く動かすこと)

 例:素晴らしい人の言動や詩歌・芸術品などに接したとき、無意識のうちに心に刻みこまれ、思わずなる茫然   自失の状態。

*「喜怒哀楽」(様々な人間としての感情)

 例:突如として身に起こる様々な喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情(心持ち・気分)

  などを心に受けた時、刻み込まれる感情は何人であろうとも、あることは間違いない。


愚生の場合(自問自答だけれども)、どちらかというと、感情の激しいほうだと思っている。

時に激した場合、偶々(たまたま)相手となるヒトは恐らく戸惑うことだろう。

そんな例は枚挙に暇がなく、当に「後悔先に立たず」の為体なのだ。

八十路になった愚老の現在は、容姿は何処から見ても枯れた状態だが、精神的には何ら成長せずに未熟のままなのである。

それが偽りのない現状なのだ。

我ながら、全く情けない。


そこで、後悔をなるべく少なくする為に日頃から努めていることを紹介すると、独言を呟く(ホームページでの書き込み)ことだ。

公開するからには、出たとこ勝負(ぶっつけ本番)という訳にはいかないから、下書きやら簡単ながら推敲を行う。

すると、それに没頭している内に、自然とストレスの解消を図っていることに気付くのである。

だけど、それは取りも直さず誤魔化し人生でしかないのである。


結局、肉体は枯れても精神は幼稚な木偶の坊のままに人生を終えるのだろう。


〈用語注〉:


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2023年01月09日

礼記 ➀

107礼記 ➀.jpg

毋不敬

敬せざること毋れ。

何事についても、注意して慎まなければならない。

人を欺かず、自らを欺かない。

それが敬である、と説いているのだ。


<管 見>

某―漢和辞典によれば、「禮」ネ()+乚()〜音符の形声文字で、豊(れい)は甘酒を表し、神に甘酒を捧げて幸福の到来を祈る儀式の意を指す、という。

➀人の履むべき則・心に敬意を抱き、それを行動として

 外にあらわすみち。

A作法・礼儀。

など、とある。

また、別の字典では、豊(れい)は甘酒ではないが、たかつき()に形よくお供え物持ったさまを表し、示(祭壇)+乚()〜音符の会意兼形声文字で、整えた祭礼を示す、とあるからほぼ上記と意味は同じとみてよいだろう。


さて、今回の至言をひと言でいえば、「礼」を行うには「敬」を怠ってはいけない、というのだ。

勿論、(履歴や年齢などの」上下関係の区別なく(親しき中にも礼儀あり・垣をせよ)である。

「敬」は、攴(ぼく)+苟(きょく)〜音符の形声文字で、髪を特別な形にして、身体を曲げて神に祈るさまにかたどる、とある。

また、別の字典では、攴(動物のR)+苟(引き締める)の会意文字で、はっと畏まって体を引き締めること、とある。

加えて、「苟」(きょく)は、羊の角+人+口からなる会意文字で、人が角に触れてはっと驚いて体を引き締めることを示す、のだとある。


そこで、愚生なりきに纏めれば、人として生きていく基本的に大切なこと(言動)は、ヒト・モノ・コトに対する時には、心中に緊張感をもって接すれば自ずと尊ぶべき礼儀作法に適った言動として表れる、というのだと思う。

「意到りて筆随う」(自分が書く気になれば、筆がひとりでに進むとの意)ではないが、

*「意気に感じる」(相手のひたむきな気持ちに感動し、

  自分も物事を行おうとする気持ちになる)

*「意気に燃える」(物事を積極的に行おうとする

  意欲を強く抱くこと)

*「意気が揚がる」(何かをやり遂げようとする積極的

  な気持ちが高まること)

(精神一到、何事か成らざらん」(精神を集中して取り

  組めば、  どんな難しいことでもできないことはないということ)

*「水到り、渠()成る」(学問を究めれば自然に徳が

  備わってくるということ。

  また、時期が来ればものごとは自然に成就するということ)

等々、結果として現れる言動などは、その能力の程度・日頃の努め方・心中のあり方次第が表面に無意識のうちに滲み出るように曝け出てしまうのだ。


ただ、始末に負えないのは、往往にして発している本人にはその自覚が無いことだ。

然も、人間社会の中における指導的立場の者に、少なからず存在するのは誠に残念なことだ。


日本における会社組織の大半は、ピラミッド型組織(ヒエラルキー型組織)であり,

多くの利点があるけれども、問題となるのは、その頂点に立つ者と側近たちの資質というか人間性なのだ。

具体的には、底辺(直接生産労働に携わる人たち)に対する姿勢のあり方である。


組織とは、One for all,all for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的ために)をモットーに、各自が各々の責務を応分にそして忠実に果たすことであり、

そこには上位の者が個人感情を介入させて下位の者に対応するなどは以ての外だ、といえるだろう。


〈用語注〉

礼記:

「五経」(五部の経書で、易経・書経・詩経・礼記・春秋)の一つ。

周末から漢代に至る古礼についての儒者の説を集録したもの。

礼に関する理論・実際を記録編集したもの。



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2023年01月02日

春秋左氏伝 13

106春秋左氏伝L.jpg

春秋左氏伝・不索何獲

(もと)えんば何をか()ん。

求めなければ、何物をも獲ることは出来ない。

聞くところによれば、『新約聖書』・マタイ伝にも、

「すべて求むる者は得、たずぬる者は見出し、

門をたたく者は開かるるなり」、とあるらしい。

後漢書にも、「人生在勤、不索何獲」とある。

人生勤むるに在り、(もと)()ば何をか()んや。


<管 見>

改めて記せば、「人生在勤、不索何獲」となる。

人生にあっては、与えられた環境の中で全力を以て

己の可能性に挑み続けて、その結果の良し悪し・

好むと好まざるとに拘らず、天与として素直に受容することだ。

一生懸命に勤勉さに努めなくして、何が己が人生か、だと思う。

それには、先ず求めること。それがなければ何が得られるというのか。

人は死ぬまで心身を鍛える為に、勉強をし続けるものである。

然し、目標がなければ何を得るかも定まらない。


何も得るつもりか(目的)がなければ努力しても身につく筈はないのだ。

目標があってその目的のための手段の一つとして、例えば勉学の意味があるのである。

生涯現役で仕事を続けるのも、その仕事に対する向上心と常に励みとなるものに気付き、そこから得るものがあるから継続するのだ。

また継続は、己次第なのであって他力ではないのだ。

不動の目標と努力の継続が相俟って、果が得られる。


物事には、原因があって結果がある。

だが、その因と果を関係づけるものに縁がある。

短見だが、

➀ 因⇒目標

A 縁⇒励み⇒意欲⇒継続した努力

@   果⇒達成

この@からBを繰り返すことにより、徐々に人間力の厚さが増していくのだろう。


本性(本来の素質など)だけでは、人生は成り立たない。

(自分が何をすべきか?)を常に追い求めることが、人生の緒に就くことである。

そして得た、B(仮に・例えば)平凡な幸福≠維持するためには、やはり、それなり

のA(継続した努力)を為し、時と場合によって責任をも果たさなければならないのだ。


〈用語注〉:

春秋左氏伝:春秋三伝の一つで,経書に数えられている。左丘明が孔子の『春秋』の正しい意味が失われることを恐れて,『左伝』をつくり,また『国語』を著わしたと伝えられているが実際は漢代(前漢末)の学者が『国語』その他の伝承史料により,『春秋』の編年に合せて編集したものと考えられる。

孔子:BC552〜BC551or―BC479)。古代の思想家。儒教の祖。

左丘明:孔子と同時代の人。孔子の弟子と伝えられる。

春秋時代:周が東西に分裂したBC771年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が三国に分裂したBC5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指す。

後漢書:後漢時代を記した紀伝体の歴史書。正史の一つ。120巻。

    後漢(25220)の歴史を叙述しようという試みは、後漢当時から行われていた。

そのうち本紀10巻、列伝80巻は范曄(はんよう))398445)の(せん)であり、志30巻は晋の司馬(しば)(ひょう)(≒240〜≒306)の『続漢書』の志であったものをとっている。

これ以前にも7〜8種類の《後漢書》があったといわれるが,それらはいずれも失われ,最後の范曄のものだけが残って正史とされる。

范曄(はんよう)398 - 445年)は、南朝宋の政治家・文学者・

       歴史家にして『後漢書』の作者。

紀伝体:本・世家・列などから成る歴史書の書体。

       (史記を始めとする)

本紀:紀伝体の歴史で、帝王1代の事跡を記したもの。

世家:諸侯に関する記述。

列伝:個々の人物、特に国に仕えた官僚の

     一生を記したもの。

志:天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。

表:各種の年表や月表。


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2022年12月26日

春秋左氏伝 12

105春秋左氏伝K.jpg

春秋左氏伝・天道不謟

天道は(たが)わず()


<管 見>

天の道には偽りがなく、善人には幸福を、悪人には災いを

もたらす、という意味である。

(出典は『春秋左氏傳』昭公二十六年)

言い換えれば、天の道は時によって阿る(諂い・追従)など

で、変わるものではない。

何時までも一定不変である、ということだ。

これは、春秋時代、BC516年、齊の國で彗星の流れが

見られたので、景公がお祓いをさせようとした。

その時、晏嬰(あんえい)()がお祓いは無益であり、景公が徳を

修めるべきである、と説いた中の言葉、だという。


徳の無い権力者は、とかく功名を己のものとし、汚名・

恥辱・醜聞・不名誉…は他者に転嫁して憚らない。

さらに、その手の茶坊主どもはそれを真似ておなじこと

をする。


ところが、賢臣晏嬰は主君に対して、諫言を敢えて行いを

改めさせる。

晏嬰の著と言われる「晏子春秋」の中の一部を記せば、

晏子が仕えた君主は、霊公、荘公、景公であるが、

在位期間がもっとも長い景公との問答が一番多くなって

いる。

晏子は、倹約を第一にし、食事には肉は一種類しか

食わず、

狐の皮衣を30年も着続けるほどの吝嗇家であったが、

景公は、狩猟に出かけると帰ることを忘れ長い間帰ることが

なく、女色を好んで限度を知らなかった。

晏子春秋は、こういった景公に対する晏子の諫言が

ほとんどを占めている。


愚生は思う。

権力の頂点は、山の頂上に似て遠くを見ることはするが、

得てして足下を疎かにする傾向が景公でなくともごく

当たり前のようにするだろう。

景公は、凡庸な人だったかもしれないけれども、

晏嬰の諫言を受け入れて改めるということは、

*心が健康な人だった、と愚生は思う。

 それは(※以下、Wikipediaからの引用)

晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行って

いた。そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車

に飛び乗って臨淄に向かった。景公は馬車の速度が遅いと、

御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。

それでも遅いので、ついには自分の足で走った。晏嬰の邸に

着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。近臣が、

「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし夫子

(晏嬰のこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを

責めた。

いま、誰が寡人(わたし)を責めようか」と言い泣き続けた。

*晏嬰は、景公だけでなく、霊公、荘公や他国の人たち

 に諫言 した、といわれる。

 つまり、それが受け入れられたということは、背が低く

風采は上がらなかったらしいけど、人物としては誰からも

認められていたのだろう。


結局は、目先の利に目を奪われることなく、己の人生を

堅実にそしてろく()に歩み続けることが肝要なのだ。


〈用語注〉:

(たが)わず:裏切らない。

晏嬰(あんえい):生?〜没敬王20(BC500)、春秋時代の斉の政治家。

    諡は平仲,通称は晏子。斉の霊,荘,景公の

    3代に仕えて節倹力行,政治にあたり,

     国民の信望が厚く管仲()と並ぶ斉の名宰相。

     記憶力にすぐれた読書家で合理主義的傾向が強かった。

     『晏子春秋』は彼の著といわれるが一部は後世の編纂

     である、ともいわれる。

管仲:没襄王7(BC645),春秋時代の斉の政治家,思想家。

   「管鮑の交わり」で有名。

(ろく):物事のようすや性質が、正しい、まともである、

  完全である、十分であること。

  建築用語⇒陸屋根(水平な屋根)・陸墨(水平な墨

  =水平な基準となる線)

  不陸(ふろく)〜水平でないこと。

脚下照顧(きゃっかしょうこ):自分の足元をよ〜く見よという意の禅語。

他に向かって御託を並べるより、

まず自己を省みよという戒めの語。

転じて、他者に理屈を捏ねるよりも、

まず自分のことをよく反省すべきこと。

また、足元に気をつけよの意で、

身近なことに気をつけるべきことをいう。


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2022年12月19日

春秋左氏伝 11

104春秋左氏伝J.jpg

春秋左氏伝・學殖也。

学は殖なり。

学問とは、草木を移植し繁殖させるようなものである。

学問は次第にその人を豊かにし、多才にするものだ、

という。


<管 見>

「殖」は、@しげる・そだつ・そだてる…

Aふえる・ふやす・たくわえる…

Bうえるなどだが、この場合は、Aの意が

相応しいであろう。

つまり、「学殖」とは「学んで集める・積み重ねる

・蓄える」であり、その為には先ずは自ら努力

して実行を繰り返すことによる土台・基礎となるものが

必須なのだ。

その結果として「蓄えられた知識」によって人間性の

豊かさにも通じるようになる、のだという。


だから春秋左氏伝では「学は殖なり」と言明し、続けて

「不学将落」()と断言している。


努力=苦しみ()と成果=楽しみ()とは因果関係に

ある、と思う。

ある目的のために努力を尽くし励めば、相応の結果や

成果を得ることは確かである。

若し、成果が得られないとすれば、それはまだ努力が

足らないのだ。

但し、成果とか評価などは期待せず、一歩いや半歩でも

前進していることが自覚出来れば、良しと

してそれを糧・励みに継続すれば、やがてそのことが

楽しさになる。

「苦中作楽」という言葉がある。愚生の体験⇒経験から

すれば(本来の意とはことなるが)、与えられた仕事を夢中

で熟している内に、(性分だと解釈しているのだけれど)基本的な

ことが身に付くとあれこれ自身で工夫をしたくなるのを抑えきれ

なくなってしまうのである。


また、「守破離(しゅはり)()という言葉がある。

これもまた性分だろうが、我の強さからか?何時までも

基本通りでは納まらなくなり、我流の芽が生じて独自の道

を歩み始めることになる。

始めの試行錯誤の段階では、失敗の連続で苦しいばかり

だが、やがて徐々に形を成してくるに従い楽しさが増してくる。


確りと努力()をすれば、必ず成果()が顕れる。

それは不思議でもなんでもなく、道理()なのだ。


〈用語注〉:

不学将落:学ばざれば将に落ちたり(学ばなければ

木の葉や花が枯れ落ちるように、人間性が衰える一方で、

非才に陥る)

苦中作楽:苦しい中で楽しみを作り出すこと。

上記の類語として、

苦中有楽:どんな苦にも楽がある。苦の中にこそ楽を

     観つめよ。

苦中有楽苦即楽:苦しみの中に楽しみがあり、

        極めれば苦しみは、即楽しみとなる。

守破離:第1段階の「守」では、師の教えを型どおりに身につけます。

    型を完全にマスターできたら

   「破」に移り、師の教えに自分独自のものを加えていきます。

    最後の「離」で師を離れて独立すること。


道理:物事のそうあるべきこと・当然のすじみち

   ・正しい論理。


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2022年12月12日

春秋左氏伝 10

103春秋左氏伝I.jpg

國將亡必多制

国の将に亡びとするや必ず制多し。

亡びかけた国というものは、常に法令が多くなる。

また、「繁文は亡国の兆し」ともいうらしい。


<管 見>

『老子』には「天下に忌憚多くして、民(いよ)(いよ)貧し。

民、利器多くして国家滋滋(ますます)昏し」(既記)

という至言同様、これもまた過ぎたるは猶及ば

ざるが如し=E薬も過ぎれば毒となる≠ニいう

ことだろう。


愚生の子育て(…というほどのものでも無いが)

対する持論としてきたのが、温室栽培(ある期

間は必要だが…)よりも厳しい環境の露地栽培が

肝要≠ニいうことである。

これはまた親の気持ちより子供の気持ちを優先に

ともいうことにも通じもので、親の望みが強すぎて

あれこれと弄り過ぎてしまうこと・期待し過ぎてしまうことを

戒める意味で、愚生はこのことだけは己に言い聞かせて、

実践してきたつもりである。

この考えの本は、

子供を成長させてくれるのは親では無く、

世の中の出逢いによって多くの人たち(幼友達をはじめ、

成長に伴い沢山の人たちによる影響)である、

という確信からである。


敢えて言い換えれば、助長≠慎むということ

でもある。

またまた、筆が走り過ぎる(言葉が過ぎる)と言われる

だろうけど、愚生の衰えた脳を活性させるつもりで

助長≠ノついて記すことにする。

助長≠ニは、古代中国、戦国時代(BC403BC221)

『孟子』の中にある、苗の成長を早めようと引っ張った

宋の人(愚人の代名詞)の話からできた故事成語である。

〜宋の国の人で畑の苗が成長しないのを心配してこれを

上に引っ張る者がいた。

その経緯は、

<疲れて家に帰り、家の人にこう言った、

「いやぁ今日は疲れたなぁ〜、いやぁ実はな、

苗がなかなか伸びないので、この手で引っ張って成

長を助けてやったんだ」

その人の子供が走って苗を見に行くと、苗は枯れて

しまっていた>

つまり、自分では良かれと思って余計な世話を焼くと、

かえって駄目にしてしまう場合多いことだ、

というわけである。

この話しに、我が意を得たりの思いがしたのを覚えて

いる。


その後、親の立場になっても仕事一筋の日々に明け暮れ

していた。

そんな愚生に、自身の自己弁護だの無責任な言い逃れだ…

などと、親戚・知人などから言われたものだ。

そればかりか、(詳細は省くけれど)子供の進学関係での

三者面談でも、持論を主張する愚生と教師とで、ちょとした

やり取りがあった。

最後に、教師の言を払拭するように、愚生は言い切った。

「落ちたら浪人などせず就職すべきであり、向学の志次第

で勉学の道はいくらでもある」と。

帰宅してから、「稼ぎが不安定で、申し訳ない」と、

長男に頭を下げて謝った。

これは、五十年程前のことだが、昨日のことのように

記憶が蘇ってくる。


顧みれば、周囲からの(自己弁護だ)の誹りも、最近では

齢のせいか「むべなるかな」とも感じてはいる。

嘗ては、当時を飾らぬ気持ちで表現すれば、

Simple is Best(単純・素朴がなにより)と嘯き、多少

というよりもかなりな部分高楊枝的なやせ我慢だった

が、現在では素直に認めざるを得ない。


ところで、(私事は別として)

社会制度は、その時代を反映するものであり、特に国

(権力)など公的機関が発する制度・締め付け…により

個人の自由が束縛された過去の事例をみれば、明らかである。

例えば、戦争に勝つという目的のために(国という名目

のもとに)一部の権力者が優先され、多くの国民に犠牲が

強いられたこともあった。

また、振り返ってみれば、生きていくことが精いっぱい

の敗戦後の惨めな生活(1,945〜1,960年前後)。

そこには、旺盛な向学心が木っ端微塵に砕かれて、

当然の風潮が厳然としてあった。

広く思量すれば世の中の大勢・権力を優先だったし、

また、狭く思考すれば家族の生活が優先で、

子供の自由など顧みることも無かった。

それが世間の当然の世相でもあったから、個々の

親たちの所為では無かったのだろう。


我が人生は常に底辺にあった。

でも、常に自力で凌いできた。

だから、負け惜しみといわれるだろうが、現在幸せ

をしみじみ感じていられるのは、これまでモットーと

してきた、名利を望まない心掛けのお蔭だと思う。


A child grows up without a father

(父親がいなくても子は育つ)は、我が信条である。

これもまた、愚生の独断と偏見かもしれないけど…。


〈用語注〉:

制:法令・制度。

繁文:しつこい文飾。

   規則などが多くて面倒なこと。

忌憚:遠慮すること。

   忌み憚ること。


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2022年12月05日

春秋左氏伝 9

102春秋左氏伝H.jpg

髪短而心甚長

髪短かけれども心甚だ長し。

年老いて髪は短くなっても、その智計は甚だ深い。


<管 見>

(八十路となったとは言えども、馬齢を重ねただけ

の愚老の場合のように、髪は短いどころかつるっ禿

になっているのにも拘わらず、元々智計の基と

なる智恵・知力・才智などに欠けるうえに、最近頓

に頭の働きが衰え鈍くなっている者もいるが…)


扨て、人が成長するにつれて習得する知識には、

(独断だが)

@  暗黙知:その人しか通用しない知識や技術。

 (頭脳より身体に滲み込んだ、所謂、熟練)

言葉や映像など伝達手段では、他の人たちに

伝達することが困難なもの。

A  形式知:他の人たち(第三者であっても)習得

 が比較的容易な知識や技術。

言葉や映像など伝達手段によって、他の人たち

に伝達することが容易なもの。

の二つに分けられる。

これを理解するのに良い例は?

例えば、

*家庭料理(便利な機器を使わないでの手作り料理)

〜前記の@

 仮にレシピがあっても、本物の味は一朝一夕では

 決して習得することは無理。

*冷凍食品など(スーパーなどでの)やパックされて

 いるもの〜前記のA

 電子レンジなどを使えば、愚老のような者でも食

 することができる。

 但し、舌でしみじみ味わう手作り(材料の組み合わせ

 +作り手の手加減による=見えない人情が加わった

 作り手による微妙な味わい)…、云々は言えない。


ところで、突然だけれど、過ぎ日のある新聞の記事が

浮かんできた。

それというのは、今年(2,022)の春に亡くなった

元前橋地検検事正で、現役時代は

*リクルート事件

*共和事件

*ゼネコン汚職

…、政界が絡む大型事件で大物政治家を取り調べ、

自供に導き逮捕したことで知られる熊崎勝彦さ

んのことである。

記者の「取り調べの極意は?」の問いに、

「人にはみんな持ち味がある。それを生かして、

全身全霊で相対するそれしかない」と答えた。

ノウハウ(専門的な技術・知識)やマニュアル

(取り扱い説明書・手引き書)を信じない人だった、と

関係者は一様に語っていた。

つまり、これもまた前記@の暗黙知の範疇であろう。


世は益々「効率主義」を掲げ、そして求めている。

それは、学校教育・一般社会(企業など各界)挙って

然りなのである。

*過程における弛まぬ努力の重要性

*結果を急いで求める風潮への戒め

*失敗・無駄の重要性


世は浮かれている。

原点への回帰≠望みたい。


〈用語注〉:

智計:知恵をめぐらしたはかりごと。知謀。


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2022年11月28日

春秋左氏伝 8

101春秋左氏伝G.jpg

敬無災

敬すれば災いなし。

敬いの心を持つことが、あらゆる災害から免れる方法

である、と説く。


<管 見>

敬いの心とは、日頃から学に努めて謙譲の精神を養い、

いざという時にはその心を行動にて示す、

ということなのだ。

この場合の学びの師となるのは、

*古典などの書(尚友)

*各種学校での、人間性豊かな真の師からの単なる

言葉だけではでない(知情意)教え。

*身近な人たちとの雑談。

常に学ぶ姿勢を忘れなければ、相手の何気ない言葉

の端々にも、忠言・薬石の言…がある。

それには、オノレを低い位置に保つことが不可欠であろう。


争わず、体をかわして相手に譲るのも、最小限の災厄で

済ませる方法ではなかろうか。

人生の味わいを楽しむには、精神のあり方⇒手段⇒実行

の次第であるのかもしれない。


そして、オノレの人生が充実したものに一歩でも近づけ

れば、それだけで幸せというものだろう。



〈用語注〉:



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2022年11月21日

春秋左氏伝 7

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視躁而足高

視ること(そう)にして足高し。

モノを観察するのに軽率な態度をもってし、また、歩く場合に驕り高ぶって足を高く上げる。そういう者は必ず失敗する。


<管 見>

「躁」の文字は、足+喿()の形声文字で、喿(ソウ)は騒がしいの意。従って、足をバタバタさせて落ち着かない意味を表す。

字義としては、はやい()・うごく・落ち着きがない・騒がしい・悪賢い・手荒い…など。


人の生き方を分類するのに、色々な視点・方法があり、それは多岐にわたる。

例えば、<子曰く、(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり>(論語)

(師の教え⇒朝に「道()」を学べば、夕べに死んでも、満足だ)という名言がる。

「道」もまた、人によって夫々異なる。

自分に適う「道」を目的とすれば、それを探し続けるためにあらゆる手段を試みることが、それが人生そのものなのだろう。

言い換えれば、学ぶことに努めるその過程が人生なのだ。


人に限らず、この世の生物は(自らの意志で)生まれる環境を選ぶことができない。

だから、与えられた環境の中で自らの力で模索して見つけ、得るべき努力するしかない。

努力をし続けるも、放棄するも…、また、選択する種別もそれはその人の勝手次第である。

ただ、善悪の因縁に応じた吉凶禍福を我が身で受けることになるだけのことである。

つまり、因果応報である。


「蒔いた種は刈らねばならない」の出典は、聖書だという。

その「蒔いた種」の意を、自らきっかけを作って招いた悪い事態のこと、と解釈する向きが多い。

即ち、仏語の「自業自得」の類語だとすることである。

[自業(自分が為した悪事)は、自得(己自身で受けること)せねばならない]


だが、真の意味は「豊かな収穫を得たいならば良い種をまきなさい」ということらしい。

従って、聖書の説くのは、どこまでも説教的な生き方をせよ、なのだ。

詰まる所、善悪は兎も角 「蒔いた種は刈らねばならない」のだから、どうせ蒔くなら良い種を蒔こうではないか、との訓えだ。

さらに勝手な解釈を加えるなら、将来実り豊かな収穫を(幸せ)望むなら、その過程では苦労しても良種(善行)に努めよ、しかも、その過程を楽しみながらなのだろう。

これは、無宗教の愚生でも納得できる。


この世にあっては(誕生を含めて)、幾らジタバタ藻掻いても己の力ではどうにもならないことが厳然としてある、のである。

ならば、他と比較して不満・不平を抱きながら日々を過ごすより、自身の努力で(内面の)向上に努めるならば、やがてはそれが楽しくなり生き甲斐を感じるようになる。


「蒔かぬ種は生えぬ」ともいう慣用語()がある。

これもまた、道理である。

種を蒔かなければ花も実もなるはずなどなく、収穫は望めない。

原因がなければ結果は生じない。

言い換えれば、働かなければ利益も得られるはずがない。

言だけでなく、正しい精神(こころ)を基にした行動を継続しなければ、なにも現状は変わらぬばかりか、悪化の一途を辿るしかないのである。

「打たぬ鐘は鳴らぬ」・「春植えざれば秋実らず」・「物が無ければ影ささず」


これらも、お題目だけで実行する・実行しない、も夫々自由である。


過日、TVで横浜中華街の過去〜現在が放映されていた。

何気なく見ていたら、「落地生(らくちせい)(こん)」という文字が映し出され、深く印象に残った。

後日、意味を調べてみると、植物の種子が地に落ちて、やがて根を張り、花が咲き、葉が繁り、また落葉となって土に還ること、らしい。

即ち、それを生国(中国・台湾)から遠く離れた地・異国(日本)を本拠地として逞しく生きる華僑の人々に準えたものだということだったのだ。

あの日中戦争(日本による一方的な侵略)にも限らず、華僑の人たちの中には戦争勃発〜戦争中〜戦後〜現在に至るまで、「隣人愛」をごく当たり前のように実行していた人たちが多くいたのだ。

それは、時(状況)によって目線を上下せず、常に同じ視点(立場・観点)で接することができるのは、取りも直せず孟子の言う「大人は赤子の心を失わず」(懐の大きい・徳の高い国・人は赤子のような純真な心を失ない)の仁徳・人徳という伝統(性善説)のなせる業なのであろう。


〈用語注〉:

仁徳:他人に対する思いやりの心。

人徳:生まれながら備わっている、或いは学習・努力などで培ったもので、周りから自然と慕われたり尊敬されたりするような気質。品性。



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2022年11月14日

春秋左氏伝 6

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象有齒以焚其身

象は歯有りて其の身を焚く。


<管 見>

象は牙という宝を持っているために、其の身を()き殺される。

人も財貨を多く持つと、そのために禍いを招くことが多い。(子産の言葉)

例えば、荘子の

「山木は自ら(あだ)す」:山の木々は自分自ら禍いを招いている。

有用だから伐られて、その生を失うのだ。

人もまた、才能を誇示しないことによって、命を全うできる。

即ち、不用の大用である。 


生きる智恵としては、仮に才能に恵まれていたとしても名利を目指すのではなく、出来る限り己の存在を消すことに努めることに努めるべきだろう。

それが、人生の奥義というものだ。


方丈記のゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…の如くであり、この世のあらゆるモノ・コトには限りがある。

人性を旅にたとえての自然体での生き方に「行雲流水」という四字熟語がある。

つまり、真の人生を謳歌するならば、ナニモノ・ナニゴトにも束縛されずに自由に生き、味わい深い人の道を楽しむことに専念すべきだろう。

             

〈用語注〉:

大用:大きな作用。大事な働き。大きな効用・効果。

行雲流水:雲や水が自然に身を任せ移り行く様に、自然の成り行きに任せて行動すること。




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