2022年12月05日

春秋左氏伝 9

102春秋左氏伝H.jpg

髪短而心甚長

髪短かけれども心甚だ長し。

年老いて髪は短くなっても、その智計は甚だ深い。


<管 見>

(八十路となったとは言えども、馬齢を重ねただけ

の愚老の場合のように、髪は短いどころかつるっ禿

になっているのにも拘わらず、元々智計の基と

なる智恵・知力・才智などに欠けるうえに、最近頓

に頭の働きが衰え鈍くなっている者もいるが…)


扨て、人が成長するにつれて習得する知識には、

(独断だが)

@  暗黙知:その人しか通用しない知識や技術。

 (頭脳より身体に滲み込んだ、所謂、熟練)

言葉や映像など伝達手段では、他の人たちに

伝達することが困難なもの。

A  形式知:他の人たち(第三者であっても)習得

 が比較的容易な知識や技術。

言葉や映像など伝達手段によって、他の人たち

に伝達することが容易なもの。

の二つに分けられる。

これを理解するのに良い例は?

例えば、

*家庭料理(便利な機器を使わないでの手作り料理)

〜前記の@

 仮にレシピがあっても、本物の味は一朝一夕では

 決して習得することは無理。

*冷凍食品など(スーパーなどでの)やパックされて

 いるもの〜前記のA

 電子レンジなどを使えば、愚老のような者でも食

 することができる。

 但し、舌でしみじみ味わう手作り(材料の組み合わせ

 +作り手の手加減による=見えない人情が加わった

 作り手による微妙な味わい)…、云々は言えない。


ところで、突然だけれど、過ぎ日のある新聞の記事が

浮かんできた。

それというのは、今年(2,022)の春に亡くなった

元前橋地検検事正で、現役時代は

*リクルート事件

*共和事件

*ゼネコン汚職

…、政界が絡む大型事件で大物政治家を取り調べ、

自供に導き逮捕したことで知られる熊崎勝彦さ

んのことである。

記者の「取り調べの極意は?」の問いに、

「人にはみんな持ち味がある。それを生かして、

全身全霊で相対するそれしかない」と答えた。

ノウハウ(専門的な技術・知識)やマニュアル

(取り扱い説明書・手引き書)を信じない人だった、と

関係者は一様に語っていた。

つまり、これもまた前記@の暗黙知の範疇であろう。


世は益々「効率主義」を掲げ、そして求めている。

それは、学校教育・一般社会(企業など各界)挙って

然りなのである。

*過程における弛まぬ努力の重要性

*結果を急いで求める風潮への戒め

*失敗・無駄の重要性


世は浮かれている。

原点への回帰≠望みたい。


〈用語注〉:

智計:知恵をめぐらしたはかりごと。知謀。


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2022年11月28日

春秋左氏伝 8

101春秋左氏伝G.jpg

敬無災

敬すれば災いなし。

敬いの心を持つことが、あらゆる災害から免れる方法

である、と説く。


<管 見>

敬いの心とは、日頃から学に努めて謙譲の精神を養い、

いざという時にはその心を行動にて示す、

ということなのだ。

この場合の学びの師となるのは、

*古典などの書(尚友)

*各種学校での、人間性豊かな真の師からの単なる

言葉だけではでない(知情意)教え。

*身近な人たちとの雑談。

常に学ぶ姿勢を忘れなければ、相手の何気ない言葉

の端々にも、忠言・薬石の言…がある。

それには、オノレを低い位置に保つことが不可欠であろう。


争わず、体をかわして相手に譲るのも、最小限の災厄で

済ませる方法ではなかろうか。

人生の味わいを楽しむには、精神のあり方⇒手段⇒実行

の次第であるのかもしれない。


そして、オノレの人生が充実したものに一歩でも近づけ

れば、それだけで幸せというものだろう。



〈用語注〉:



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2022年11月21日

春秋左氏伝 7

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視躁而足高

視ること(そう)にして足高し。

モノを観察するのに軽率な態度をもってし、また、歩く場合に驕り高ぶって足を高く上げる。そういう者は必ず失敗する。


<管 見>

「躁」の文字は、足+喿()の形声文字で、喿(ソウ)は騒がしいの意。従って、足をバタバタさせて落ち着かない意味を表す。

字義としては、はやい()・うごく・落ち着きがない・騒がしい・悪賢い・手荒い…など。


人の生き方を分類するのに、色々な視点・方法があり、それは多岐にわたる。

例えば、<子曰く、(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり>(論語)

(師の教え⇒朝に「道()」を学べば、夕べに死んでも、満足だ)という名言がる。

「道」もまた、人によって夫々異なる。

自分に適う「道」を目的とすれば、それを探し続けるためにあらゆる手段を試みることが、それが人生そのものなのだろう。

言い換えれば、学ぶことに努めるその過程が人生なのだ。


人に限らず、この世の生物は(自らの意志で)生まれる環境を選ぶことができない。

だから、与えられた環境の中で自らの力で模索して見つけ、得るべき努力するしかない。

努力をし続けるも、放棄するも…、また、選択する種別もそれはその人の勝手次第である。

ただ、善悪の因縁に応じた吉凶禍福を我が身で受けることになるだけのことである。

つまり、因果応報である。


「蒔いた種は刈らねばならない」の出典は、聖書だという。

その「蒔いた種」の意を、自らきっかけを作って招いた悪い事態のこと、と解釈する向きが多い。

即ち、仏語の「自業自得」の類語だとすることである。

[自業(自分が為した悪事)は、自得(己自身で受けること)せねばならない]


だが、真の意味は「豊かな収穫を得たいならば良い種をまきなさい」ということらしい。

従って、聖書の説くのは、どこまでも説教的な生き方をせよ、なのだ。

詰まる所、善悪は兎も角 「蒔いた種は刈らねばならない」のだから、どうせ蒔くなら良い種を蒔こうではないか、との訓えだ。

さらに勝手な解釈を加えるなら、将来実り豊かな収穫を(幸せ)望むなら、その過程では苦労しても良種(善行)に努めよ、しかも、その過程を楽しみながらなのだろう。

これは、無宗教の愚生でも納得できる。


この世にあっては(誕生を含めて)、幾らジタバタ藻掻いても己の力ではどうにもならないことが厳然としてある、のである。

ならば、他と比較して不満・不平を抱きながら日々を過ごすより、自身の努力で(内面の)向上に努めるならば、やがてはそれが楽しくなり生き甲斐を感じるようになる。


「蒔かぬ種は生えぬ」ともいう慣用語()がある。

これもまた、道理である。

種を蒔かなければ花も実もなるはずなどなく、収穫は望めない。

原因がなければ結果は生じない。

言い換えれば、働かなければ利益も得られるはずがない。

言だけでなく、正しい精神(こころ)を基にした行動を継続しなければ、なにも現状は変わらぬばかりか、悪化の一途を辿るしかないのである。

「打たぬ鐘は鳴らぬ」・「春植えざれば秋実らず」・「物が無ければ影ささず」


これらも、お題目だけで実行する・実行しない、も夫々自由である。


過日、TVで横浜中華街の過去〜現在が放映されていた。

何気なく見ていたら、「落地生(らくちせい)(こん)」という文字が映し出され、深く印象に残った。

後日、意味を調べてみると、植物の種子が地に落ちて、やがて根を張り、花が咲き、葉が繁り、また落葉となって土に還ること、らしい。

即ち、それを生国(中国・台湾)から遠く離れた地・異国(日本)を本拠地として逞しく生きる華僑の人々に準えたものだということだったのだ。

あの日中戦争(日本による一方的な侵略)にも限らず、華僑の人たちの中には戦争勃発〜戦争中〜戦後〜現在に至るまで、「隣人愛」をごく当たり前のように実行していた人たちが多くいたのだ。

それは、時(状況)によって目線を上下せず、常に同じ視点(立場・観点)で接することができるのは、取りも直せず孟子の言う「大人は赤子の心を失わず」(懐の大きい・徳の高い国・人は赤子のような純真な心を失ない)の仁徳・人徳という伝統(性善説)のなせる業なのであろう。


〈用語注〉:

仁徳:他人に対する思いやりの心。

人徳:生まれながら備わっている、或いは学習・努力などで培ったもので、周りから自然と慕われたり尊敬されたりするような気質。品性。



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2022年11月14日

春秋左氏伝 6

99春秋左氏伝 ➅.jpg

象有齒以焚其身

象は歯有りて其の身を焚く。


<管 見>

象は牙という宝を持っているために、其の身を()き殺される。

人も財貨を多く持つと、そのために禍いを招くことが多い。(子産の言葉)

例えば、荘子の

「山木は自ら(あだ)す」:山の木々は自分自ら禍いを招いている。

有用だから伐られて、その生を失うのだ。

人もまた、才能を誇示しないことによって、命を全うできる。

即ち、不用の大用である。 


生きる智恵としては、仮に才能に恵まれていたとしても名利を目指すのではなく、出来る限り己の存在を消すことに努めることに努めるべきだろう。

それが、人生の奥義というものだ。


方丈記のゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…の如くであり、この世のあらゆるモノ・コトには限りがある。

人性を旅にたとえての自然体での生き方に「行雲流水」という四字熟語がある。

つまり、真の人生を謳歌するならば、ナニモノ・ナニゴトにも束縛されずに自由に生き、味わい深い人の道を楽しむことに専念すべきだろう。

             

〈用語注〉:

大用:大きな作用。大事な働き。大きな効用・効果。

行雲流水:雲や水が自然に身を任せ移り行く様に、自然の成り行きに任せて行動すること。




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2022年11月07日

春秋左氏伝 5

98春秋左氏伝 D.jpg

有基無壊

基あれば(やぶ)るることなし。

すべて基礎が確りしていれば、失敗することは無い、というのである。


<管 見>

基礎がいい加減では、何事も成し遂げることはできない。


建築を例に取り上げてみると、

先ず、建物を支える地盤が確りしていなければならない。

若し、建築物に対して地耐力が不足ならば、杭・土壌改良などの手段を講じなければならない。

そこで、工程を簡単に記せば、

@仮設工事

➁山留・土工事

B杭・地業工事

C躯体工事(地下・地上)

 ※各種の構造部材(木造・鉄骨造・鉄筋コンクリート造…)によるもので、建築物の構造体(躯体)をつくる工事をいい、(杭・地業⇒)基礎工事を土台として、下から上に向かって進めていく。

D仕上げ工事(内外装)

…などとなるが、その間には電気・給排水などの設備工事が伴うことは言わずもがなである。


また、上記の施工の外に、

*土地関係

*設計関係

*管理関係

*メンテナンス関係

…などがあり、それら各々の基本的要素も見逃せない。


さて、今回の至言に話を戻すと、

愚生の独断かもしれないけれど、単なる「基礎」と捉える場合の外に「前工事」・「下地」・「躯体(構造〜骨組み)」…などの意も欠かせない、と思うのである。

何れも大意(大義)は同じくするものであるが、大要は事前のことに心配りせよ・準備・見えないところにこそ心構えを怠るな!「転ばぬ先の杖」・「雨降らずして地固うする」である。

*「前工事」:後()の工事が容易(効率よく)に出来ることに心を配り、今の仕事を行う。

*「下地」:仕上げの良し悪しは、下地の良し悪しにあり。

*「躯体(構造〜骨組み)」:内外装の維持管理・改装は容易だが、躯体(構造)は人体でいえば骨格であり容易(極めて困難)には取り替えられない。

これらは何時もの決まり文句のようであるが、失敗・トラブル・人的災害等を引き起こさないためにも重要なことなのである。


言葉が過ぎる感が否めないけれど、敢えて記せば、

モノ・コトには、夫々何のために存在するのか、という「基本的な本質・目的」がある。

そのことを確り守ることが大切なのだ。


例えば、建物というものは本来「雨露を凌ぐ」・「自然(天為・人為・)による災害から身を護る」・「動植物・病虫害・放射能などからの隔離」…が目的なのだ。

だから、「良く・安く・早く・情報」よりも「安全」が第一なのだ。

建築基準法の第一条の目的には、

この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。≠ニある。

ところが、(愚生の周りに関する限りでは)殆どの建築関係者はこれを見過ごし、または意をはき違えたり自分の都合の良い風に解釈しているのが通例のようになっている。

これさえ守った企画・構造計画・計算・設計・施工・管理…さえしていれば良しとしているのだ。

中には「奇を衒って」、わざと奇形な地盤にデフォルメ(意識的に歪形化)した建築物をコンペテーションに出品するなど、注目を浴びることを誇りとして差別化を図る者がいる。

そして、それをまた優れた才能として認め、称賛する輩さえいるのである。

それは、単なる造形の域を出ない、何ものでもない。


建築に限らず、我々は基礎(基本)に立ち返り、そのものの原点というべき使命・目的を大事にしようではないか。

本来は、脚光を浴びるような職域ではなく、コツコツと地味なモノ作りであって完成も然る事ながら過程を大切に努めて、秘かに喜びを噛みしめるものなのだ。

その喜びこそ、ナニモノにもまさる報酬なのだから…。


〈用語注〉:

造形:本来、造形とは、形を造ること、すなわち英語でいうmodeling(模型製作・立体感表現)やmolding(型入れ・鋳造・塑像)を意味する。


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2022年10月31日

春秋左氏伝 4

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譲禮之主也

譲は礼の主たり。

人に譲るということは、礼の第一義である、というのである。


<管 見>

漢和辞典によれば、

「譲」は、言と襄(音符)の形声文字で、

 (じょう)は、衣服に呪いの品を沢山詰め込んで、邪気を払うの意味。

 言は、言葉。

 従って、言葉で悪い点をせめるの意味となる。

 また、沢山の品を詰め込むことを許すことから、ゆずるの意味をも表す。

 字義としては、

@ゆずる(与える)

 ➁責める(なじる・ののしる)

 B  拝礼の形式(手を平らに挙げて人をおしすすめる意を表す礼)

ここの場合は、Bであろう。

「禮」は、礻()(いん)((れい))の形声文字で、

 音符の(れい)は、甘酒の意味。※(ほう)とは別。

 甘酒を神に奉げて幸福の到来を祈る儀式の意味を表す。

 また他の字典によれば、

 「禮」は、会意形声文字で、心に敬い行儀の則るを守る道にて、人の()み行うべきもの。

 この道は神を祭る時、特に大事なる故に示と(れい)を合わす。※(ほう)とは別。


この「譲」と「禮」から愚生の主観を記せば、

*人間の欲望は、夫々に濃淡・強弱・多寡などと異なるけれど、皆無では無い。

*人寰()に於いては、個人間の才能の優劣・名利の高低…など差があるけれど、それはあくまでも人間社会内でのことである。

*宗教・治国・主義主張…など、全てに於いて一つに万人が心服することは、あり得ない。

このように多少の差はあっても、畢竟団栗の背比べといえるだろう。


そんな人間社会にあって、誰もが頭を垂れて赤子の如くに無垢な心で順う存在が、天()なのだ。

つまり、大自然に対する如く理屈なく畏敬の念を懐き、抗えない神聖的存在なのである。

それが、古代中国から人寰を統治することの存在として(形の変遷があろうとも)続いてきたのだ。

それでも天()をも恐れぬ愚行を、現在においても繰り返しているのが人間社会なのである。

それは取りも直さず、果てしなき人間の欲望の所為である。


今回の至言は、困った(苦しい)時の神頼みや人頼み…で無く、己自身の生き方のためにも天()に対することは勿論、人間同士個々の間においても日頃からの「譲」⇒「禮」を欠いてはならない、箴言として受け止めるべきだろう。


〈用語注〉:

人寰(じんかん):世の中。世間。人間界。



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2022年10月24日

春秋左氏伝 3

96春秋左氏伝 B.jpg

杖莫如信

()るは信に()くは()し。

寄りたよるには、信義の人に寄ることがいちばんよろしい、というのである。


<管 見>

「寄」は、宀と寄(音符)の形声文字で、寄(音符)は身体を曲げて立つ人の意。

つまり、釣り合いが保てずに片方によることで、屋根の下に身を寄せるの意味を表す、と漢和辞典にあり、語の用途によりその意は<与える・預ける・たのむ・よる・期待・集まる・加える・より(発疹や腫物が固まる)・寄席・積もり重なる…>など多義にわたる。


この場合は、心をよせる・たよる・すがる…であろう。


然し、どんなに能力や財力があっても、約束を違えたり(反故に…)・嘘をつくなど、道義的な努めを怠るような者には縋るようなことをしてはならないと戒めているのだ、とも受け取れる。

そこで大切なコトは、頼みとする人を正しく選択する力が必要となる。

つまり、普段から学習により人を見極める能力を養い、素直な心を保つように努めるべきだろう。


その上で、先ず頼ろうとする人の、

*見識()・胆力()…の度合いを計る。

*オノレの考えと比較してみる。

*基本的に諫言を好むタイプか、或いは甘言を用いて世を渡っているタイプかを見極める。

…などを試みることで、本質を見定めることが肝要である。


これはまた、個々の人たちに留まらず国家間など、小・中・大の団体でも然りであろう。


〈用語注〉:

見識:物事を正しく見通し、本質を見分ける判断力。

胆力:動じない心。




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2022年10月17日

春秋左氏伝 2

95春秋左氏伝 ➁.jpg

成允成功

(まこと)を成して功を成す。

(まこと)、即ち誠実を成し遂げて、はじめて本当の成功ができるものである、というのだ。


<管 見>

漢和辞典によれば、

А

「允」は、(にんにょう)(人体)と柔らくくねった形の会意文字で、和やかな姿をした人を示す、という。

(いん)(調和をとる)(きん)(和やかに調和がとれる)などと同系のことば、だという。

従って、意としては、

@  まこと・調和がとれて誠実なさま・おだやか。

A  ゆるす・角を立てずに、相手の意見を聴き入れる。

など、となるのだろう。


ところで、

「組織」という言葉がある。

辞典によれば、

@  組み立てること。また、組み立てられたもの…。

A  (organization)

一定の目標があり、成員の地位と役割それに応じた責任が決められている集合体。

また、それを組み立てること。

広義には、一定の機能を持ちつつ、全体として結合を保っているもの。

B  生物体を構成する単位で…。

C  織物の経糸と緯糸を組み合わせること…。

など、とある。

そこで、上記AとBを併せて考えてみると、

人間(じんかん)(人の住む世界)には、目的達成のために色々な集団があるけれども、果たして正確に定義とされる「組織」といえるものがどれほどあるのだろうか?


試みに、上記B「組織」の意に愚生の経験を当て嵌め乍ら記してみると、

殆どは形だけのものである。

例えば、

 *他者への迷惑も顧みず、名利を追い求める。

*応分の義務・責任は形だけで、他者に転嫁して

 憚らない。

*結果が、良であればオノレのものとし、

 悪であれば我関せずの体を装う。

*オノレにとって、必要な時だけ他者を利用して

 不要になれば切り捨てる。

などである。


さて、前にも記した技より進めリ(荘子)で、(文恵君の問いに答えた包丁の言葉)、所謂、知識・技術の前に(或いは、超えたところ・もの)に大切なこと・ものがある。

それが、道である、という。

即ち、本質を見極めての誠実な心身で対処する、上記Aの「允」である。


〈用語注〉:



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2022年10月10日

春秋左氏伝 1

94書経 K.jpg

侈惡之大也

()は悪の大なるものなり。

贅沢になることは、悪の最大のものである。

これに対して(けん)(とく)()は、人間の徳の最も恭しいものだ、というのである。


<管 見>

「是以聖人被褐懐玉《これを以って聖人、(かつ)(こうむ)り、(ぎょく)(いだ)く》」(老子)という至言がある。

聖人は着ている衣類は粗末でも、(ふところ)には玉を持っている。

つまり、見かけはみすぼらしくても、内面()にはすぐれた品位を備えているということで、所謂、襤褸(ぼろ)を着ても心は錦(見かけは兎も角、内実は豊かですぐれた徳を備えている)ということだ。


加えてそれに止まらず、(誇らず謙虚さを失わないばかりか)常に省みて(けん)(とく)に欠ける事が無いか?に努めることが肝要なのだろう。


マハトマ・ガンジーは、

「多くの食料が、裕福な人々によって浪費されている。

食料を切実に必要としているのは、貧しい人や苦しんでいる人たちだ。

なのに、一部の人々の贅沢が、彼らから食料を奪ってしまう。

だから裕福な人は粗食を心がけるべきだ。

それは体調を損なうどころか、むしろ健やかな体を手に入れることにもなるのだから」と、一部の財物に富める人間の私利私欲を戒めている。

さらに、

「暮らしの中に、ある程度の快適さは必要である。

しかし、一定レベルを超えると、それは役立つどころか心の足かせ()となってしまう。

あれもこれもと際限なく欲しいものが増え、その欲求を満たさずにはいられなくなる。

快適さとは、心にとって惑わし()であり落とし穴なのだ」と、人間の果てしなき欲望に苦言を呈している。


一般的に、人の性(生まれつきの性質・性格・運命・宿命)には、

利点・長所もある一方、欠点・短所もまた存在する。

そこで、今回の至言に副う意味で、人の持つ弱点という観点から考えてみると、

*便利さは麻薬のようなもの。

*文明は人間を堕落させる。

*利器は使う人の心次第で罪が生ずる。

など、というようなことが挙げられる。


「水は低きに流れ、人は易きに流れる」という言葉があるけれども、(水は兎も角)常に努力に欠ける惰性的な生活に甘んじていると、それが当たり前だという習性が身に付いてしまう。

やはり、常に高みを目指して努めてこその人生だろうし、それを当たり前とすることこそ人としての使命であり、必要にして欠くべからざることなのだろう。

但し、上記の「高み」とは記すまでも無いが、決して名利などではないことは言わずもがなである。


〈用語注〉:

褐:粗末な着物のこと。

玉:優れた徳。

倹徳:身を慎ましくすること。

心:人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。

心の足かせ:心の自由を奪い、束縛してしまう要素(基本的な内容・条件)

惑わし:判断や考えなどを混乱させる。だます。あざむく。




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2022年10月03日

書経 11

93書経 J.jpg

斅學半

斅うるは學の半ばたり。

教えるということは、半ばは自分が学ぶということである。

教育に携わる者は、教えることによって自らの未知に気付き、さらに学ばねばならない、というのだ。


<管 見>

物事は、提供するだけでなく、享受すること(入出力)を以て効果が向上する、という。

つまり、今回の至言である「斅學半」に関して記せば、「斅・學」は交わるの意を含んでおり、一方的でなく互いに内容を確かめ合い切磋琢磨することで互いの中で物事の理解を深める、ということになるのであろう。

これは単に教育界だけに留まらず、如何なる世界にも共通することである。

そこで、これらから想起することを思いつくままに列記してみる。

@ よく知られる至言に、

(子曰)三人行、必有我師焉。(論語)〜三人行くときは、必ず我が師あり。

*我以外皆我師。(吉川英治)〜我以外皆師(われ以外はみな師なり)

*生涯一書生。(禅語)〜生涯一書生(一生涯学習する人生)

などがあるけれども、そこには謙虚に生きる精神が歴然としてあることに、頑愚といわれる愚生を以てしても素直に納得することができる。


➁ 二十歳前の頃、学識・人間性ともに豊かな方たちから、

「間口を広めた勉強をしなさい!」と頻りに言われた。

それに対して、その都度決まり文句のように、

「一つの専門分野さえ未熟なのに、そんな余裕がありません」と、答えて従わなかった。

後年、これは大変な誤りだったことを深く思い知らされた。

というのは、間口を広めた勉強法の方が結果として、近道だったのだ。

後に愚生が思い知らされたのは、その道に専念していると、関連する事柄について学ぶ必要性が出てくるときが来る、ということである。


@  「専門馬鹿」という言葉がある。

辞書によれば、限られた分野の事柄には精通しているが、それ以外の知識や社会的常識が欠けていること。また、その人、とある。

これでは、地域や組織などを含めた社会生活には馴染まないであろうことは、自明の理である。


スタートでは努力をし続けるも、ある目的に達すると初心をいつの間にか忘れてしまい、諫言を避けて甘言のみの生活に浸ってしまうのが恐ろしいのである。

それにより慢心に至り、謙虚さを失うことで上り坂の途中である身なのに、頂点に立った気になってしまうことだ。

これでは、向上は疎か現状維持すらままならず、所謂、「裸の王様」化してしまうのである。


A  大局的と近視眼的について

*「鹿を追う者は山を見ず」(細部に拘り、全体を見失う)

*「鹿を逐う者は兎を顧みず」(大雑把な捉え方をし、細部を見落とす)

どちらも偏ってはならない、ことが肝要なのだ。

つまり、全体と細部を万遍なく目配り・気配りし、把握することに努めよ、ということか。


〈用語注〉:




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2022年09月26日

書経 10

92書経 Ijpg.jpg

無侮老成人。

老成人を侮る無れ。

多くの人生経験をつんだ老人を侮ってはならない。

(盤庚の言葉)

<管 見>

この場合の「老成人」は、単に高齢者を指すのではない、と愚生考える。

それは、(短見ではあるが)

@  五感(目・耳・鼻・舌・身―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によるモノ・コトを、十分に咀嚼して味わうこと、それが体験である。

➁上記@の体験に、己の意()を以て其の時に感じた・学んだモノ・コト(自分の見解)を加えておくこと、それが経験である。

*上記Aを多く保持している人を、「老成人」というのであろう。

また、「老成人」とは狭義の意ではなく、

*先人や先人たちの残してくれた諸々のことを含めた、広義として捉えるべきだと思う。


さて、今回の至言であるが、

「農は国家の基本」という考え方は、日本だけに限らず、古今東西世界の如何なる国においても然りであることには異論はないだろう。

例えば、

*ピタゴラスの定理とナイル川の氾濫

*禹(夏王朝の始祖)の治水

*武田信玄、加藤清正、豊臣秀吉らの治水

*天下統一後の豊臣秀吉による検地

*本県でいえば、

長野堰(ながのぜき)(高崎市本郷町で取水⇒住吉町⇒堰代町⇒高崎城の堀割⇒東町で佐野分水が分岐⇒南の佐野地域⇒江木町の城東小学校南側の地点で地獄堰・上中居堰・矢中堰・倉賀野堰の4水路に分流)は、群馬県高崎市中部に農業用水を供給する用水路である。

  928年(延長6年)に長野康業が長野堰の開発に着手。 時代が下って1551年(天文20年)長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正は長野堰を整備した、といわれる。

・標高1370mの稲含山を水源とする甘楽町小幡を流れる()川堰(がわぜき)は、織田信長の次男、織田信雄が元和元年(1615年)に上州小幡の家督を相続後の築造だといわれる。

武家屋敷や町民の生活用水や非常用水、下流の水田の灌漑用水として利用されてきた。

・天狗岩用水は、前橋市を流れる用水で、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、総社藩主となった秋元(あきもと)長朝(ながとも)が築いたもので、400年以上も現役であり続ける貴重な用水である。


など、何れも農()のための農地(田畑・山林等)の重要性を語るものであろう。


古代中国では、

「本」は、食糧を生み出す農業とその生産手段としての土地を尊重するといった、農本思想と呼ばれている。(一部、生活必需品を生産する最低限の手工業も含む)

特にこれらの中国思想は、中国と周辺諸国において政治思想の中核をなしていた。

この思想は、経済・社会政策の一つの基盤となった。

それに対して、

「末」は、贅沢奢侈な商品を製造・販売する商工業者を指す。


実際に中国の歴史を見ると他国に征服された場合を除けば、多くの王朝が創建から日が経つにつれて、農民の流民化の進行に伴い社会秩序は混乱して王朝が崩壊し、新しい王朝が新秩序を形成するという過程を繰り返している。


つまり、これらの記述を簡潔に纏めれば、

生活の三要素は衣・食・住であるが、若し一つだけに絞るとしたら(敗戦後の生活を経験した愚生の場合に限るけれど)、食だと断言したい。

そこで、次のような図式が成立するのではなかろうか。

食⇒農⇒大自然という環境の中での生産⇒暗黙知(経験知+身体知)⇒老成人


余談になるが、盤庚は各地の諸侯を集め、彼らに対して、国の統治について語るシーンがある。

この中で、盤庚は以下のように説いた。

「地方政治がうまくいっていない理由は、私に徳がないからではない。

お前たちの愚かさが問題だということは、火を見るよりも明らかである。」

この中での言葉火を見るよりも明らか(明白で疑う余地がない)が、我々が現在、諺として用いている語源だと言われる。


〈用語注〉:

盤庚:殷の第19代の王。兄陽甲を継ぎ即位したが当時殷の内部は政治が乱れ,国勢が衰退していた。

盤庚は国力を再興するため,奄(山東曲阜県)から殷(河南安陽市)に遷都し,王朝創設者湯王の徳を遵守したので,諸侯は再び殷に服したという。


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2022年09月19日

書経 9

91書経 H.jpg

(伊尹曰、)

咸有一徳。

(みな)一徳あり。

人は、純一無垢の徳をもたなければならない。

(伊尹の言葉)


<管 見>

古代、殷の湯王はこの純一の徳を備えていたために、

天下をとったのだ、といわれる。


湯王と伊尹は、(みな)、純一な徳を身につけていたので、

*天の心に適い、天命を受けることができた。

*無理なく、中国全域の衆民()から慕われることが

できた。

*夏王朝の衰退は、酒池肉林の悪行など…桀は徳を

修めず、民を苦しめた結果である。

 (後に殷王朝末期の殷の紂王もまた同じで、禅譲により

即位した堯・舜の聖王と言われたのに対比され、世襲に

より即位した桀と紂は後々まで悪王の代表とされることになる)

*夏の歴史を革めると同時に、殷の歴史の始まりでもあった。


これは、天の気まぐれとか青天の霹靂的なものでもなく、殷の純一な徳のものによるのだ。

また、殷の首脳が庶民に無理に押し付けたのではなくて、民が純一な徳のものに従ったのである。

上に立つ者の精神が純一な徳であるならば、その言行は(みな)吉事であろうし、徳が不純であるならばその言行は民を不幸にする。


近年、頓に災いが多く感じられる。

災厄には天災と人災があるが、それは天が時として人為を咎めて為せることだろう。

つまり、災厄の基を為すのはじんとく(人徳・仁徳・仁篤)にあるのではなかろうか?

*ウイルスの世界的な蔓延と疾苦。

*気象変動による諸災害。

*武力による威嚇・侵略など。

(トルストイの戦争と平和≠ヘ、名利などの欲望を求めることの愚かさを戒め、日常の平凡で素朴な生活にこそ、本来の幸福があることを伝えたかったのだ、とする小説だと思う。

なのに、同じ国を含めて複数の国の権力者は、愚かな行為を繰り返している。

だが、そうした言動で求めても当人はおろか関係者にとっても、決して良いことは無いのだ。

それに止まらず、罪なき多くの国や民など、傍にとっては迷惑千万なことなのである。)


〈用語注〉:

純一:混じりけの無いこと・純粋。また、そのようなさま。

衆民:多くの庶民。



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2022年09月12日

書経 8

90書経 G.jpg

(伊尹曰、)

弗爲胡成。

()()んば(なん)()らん。

為さなければ、何事も出来るものでは無い。

(伊尹の言葉)


<管 見>

前回に続いての至言である。

今回の至言〜<実行の大切さ>についてで、

つまり、為せば成る…であるが、今回の至言を

基としたと思われる金言が日本にもみられる。

それは、

*武田信玄の為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、

成らぬと捨つる人の儚さ≠ニいう人間の性

(実行を伴った意志の強弱)を如実に詠った歌であり、

そして、さらにこの言葉を模範として、

*上杉中興の祖と言われる鷹山が為せば成る、

為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなり

けり♂ニ臣に教訓として示し、自らも質素・

倹約を率先垂範して財政危機に陥っていた藩を経営

改革により立て直した、

ということである。


序でに記せば、

やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ

これは、嘗ての日米開戦時の旧海軍連合艦隊司令長官山本五十六の言葉だとされているが、それは同郷の越後とも関わり合いのある、上杉鷹山の家訓を範としているともいわれている。


[※上杉謙信の没後、上杉景勝の時代に天下分け目の合戦が関ヶ原で行われ、景勝は徳川家康に降伏すると、出羽国米沢30万石に減移封された。

時代は流れ、江戸の中期。出羽国米沢藩の第9代藩主、上杉治憲は領地返上寸前の米沢藩を立て直さねばならなかった。

この人こそ、江戸時代屈指の名君として名高く、現代においても日本だけに留まらず、米国のケネディ元大統領・他など最も尊敬する政治家としていた、とされる上杉鷹山である。]


つまり、今回の至言の言わんとしていることは、

前回の至言「弗慮胡獲」(おもんばか)()んば(なん)()ん。

(思慮を十分に練らなければ、決して収穫はある者ではない)ばかりではだめなのだ。

行動に移さなければそこから先へは一歩も進まず、現状維持は疎か(言うまでも無く)事態は悪化の一途を辿るのみなのである。

前記の優れた人たちをみれば納得するように、熟慮はすれども決心したら、断行あるのみなのだ。

それに、何れの人たちも率先垂範≠旨に心は微動だにせず山の如く不動なのだ。


〈用語注〉:



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2022年09月05日

書経 7

89書経 F.jpg

(伊尹曰、)

弗慮胡獲。

(太甲に教えた伊尹の言葉)

(おもんばか)()んば(なん)()ん。


思慮を十分に練らなければ、決して収穫はある者

ではない。

(これも、太甲に伊尹が訓えた言葉である。)

<管 見>

思慮深くなければ、どうして成果をあげることが

できるだろうか、いや、何ごとも成果をあげるこ

とはできない。

これは、

➀今回の至言〜<思慮の大切さ

➁次回の至言〜<実行の大切さ

(為さずんば胡ぞ成らん※「為せば成る…」

で知られる武田信玄・上杉鷹山らが因とした)

と一対となるものである。


さて、➁は次回に譲るとして、➀について少し述べて

みたい。

回顧すれば、今から五十年を超える前のことだった。

大阪支社から当地(群馬支社)の建築課に赴任してきた。

主な職務は工場建築の設計監理だったが、

それ以外の一般建築も勿論範囲の内だった。


その中で、当地ではじめて手掛けた住宅の設計監理で、

或る施工会社で学んだことがあった。

それは、打ち合わせのために何度か訪ねる内に、

何の変哲もない作業風景の中にモノ作りの基本的

且つ大切な要素を見逃していたことに気付かされたので

ある。

無意識で働く大工さんたちの、日日繰り返されている

作業場での無言の教えをであった。

そこで見得(見る⇒理解⇒認識⇒会得)したことを、

前記➀(今回)と➁(次回)の二回にわたって述べること

とする。


学んだ一つ目は、朝一番の熟練の大工さんの作業風景に

ついてである。

先ず手にするのは、刃物((のみ)・鉋など)と砥石であり、

そして徐に研ぐ姿であった。

そのさまは、無我の境というか真剣そのもので、

声をかけるのさえ躊躇わせる雰囲気があった。

その作業には、

  穴を穿つ・削る・切断するなどの道具と自らの

 呼吸を整えること。(身体的作業)

  これからの作業の手順などを熟慮すると共に、

 心を整えること。(精神滝作業)

という、少なくとも二つの意味があったのだ。


年齢や経験に関係なく、腕の未熟な職人ほど、

直ぐ材木の刻みにとりかかるのである。

当然、失敗の確率は高いから、棟梁も心得ていて

重要な作業には就けない。

当人は気が付かないから、不満を持つが反省がないから

進歩しない。


つまり、熟練の大工さんは至極当たり前の如く、

所作習慣は第二の天性(記述)・習慣は自然の如し

(習い性となる)は、地で行く(職人根性本来の姿)だった、のだ。

目的を達成させるためには、己自身の能力と対象とする

相手を把握(明白に知る)することである。

つまり、彼を知り己を知れば百戦殆うからず(孫子)

ある。

そこで序でに、慣用句を幾つか挙げて記せば、

段取り八分()仕事は二分()=E転ばぬ先の杖

・備えあれば憂いなし


ただ、今ではこのような下仕事風景は殆ど見られなく

なってしまった。

神社建築などを扱う宮大工等一部を除いて、

プレカット工法()一辺倒に近く、展示場などでの見学を

通して客の購買心を煽り、現場では施工の手間を省き短期間で仕上

げることで、各社が競っての儲け仕事・高利や打算の

功利主義なのだ。

手間を惜しんでは、決して良質のものが出来る訳があり

得ない、ことを断言しておきたい。


〈用語注〉:

(ふつ)():この場合は、打ち消しの助字「ず」で、

…しない・…でない。

(りょ)(おもんばーる):思いめぐらす・遠謀深慮・考え

・計画

()(なんぞ):この場合は助字で、「なんぞ」疑問・反語

・原因・理由〜どうしてか。

()る:手に入れる。

プレカット工法:事前に工場で機械的に加工しておき、

建築現場ではそれらを組み上げて建てていく方法で、

一種のプレハブやユニットハウスと同程度で効率主義の

産物である。



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2022年08月22日

書経 5

87書経 D.jpg

(ちゅうき曰、…))

改過不吝。


過ちを改めることに()、躊躇ってはならない、というの

だ。(ちゅうきの言葉…))


<管 見>

前回に関連して、同じ「書経」の「虺之誥ちゅうきのこう」である。

湯王の臣下で、仲虺が湯王に告げ、また広く民衆に告げた

言葉だという。

この中で、「有夏こんとくとして、民塗炭とたんつ」とある。

※(有の字は国名や部族名につける接頭辞)

夏の国の桀王の不徳・背徳や悪虐行為によって、民の受け

た異常な苦難を、ここでは一言で「民塗炭につ」と言った

のである。

言い換えれば、その王は不徳となり、民は泥にまみれ火の

中にいるような苦難を味わった、ということになる。

この言葉の中の「王」は、紛れもなく夏の桀王を指してお

り、湯王はこの進言に従って桀王を追放したのだ、といわれ

る。

今日、四字熟語で知られる【塗炭之苦】(塗炭の苦しみ)の語源とされ

ているものだ、と言われる。

敢えて重ねて記せば、塗炭≠フ「塗」とは泥水のこと

で、「炭」は炭火のこと、あたかも泥水や炭火の中におと

しいれられたような水火の苦しみという、意味になる。


それにしても、湯王のような臣下仰がれるような王(指導

)は、傾聴の精神に富んでいることに今さらながら

然もありなん≠ニ大いに得心せざるを得ないのである。

古今東西、実力がなくても、

*或る種の僥倖によって

*仕える者たちの頭には権力者の存在などなく、

・己の現在・老後の生計のため

・天職としての職に愛着を懐き、執着心があるため

・難解な問題を解決することで、達成感・喜びのため

等により一生懸命に励んだ結果、授かった天恵としか

えられない。

なのに、権力者や取り巻き連中は、己だけの能力で得た

かのような勘違いして憚らない輩が後を絶たないのは嘆かわし

限りである。


何時の世も、目的が達成した暁は己や甘言してくれる側近

(茶坊主たち)で分かち合い、未達の場合は日頃何かと諫言す

る者の所為・責任として(責任転嫁)追及し、何らかのペナルテーを

科すのだ。


湯王は紀元前18世紀だといわれるから、BC1,700

〜1,799年ということになる。

仮に、BC1,750年頃だとすれば、今から≒3,80

年前ということになる。

それほど前の至言が、現在に至るまで極一部の人にしか実

されていないのである。

何千年もの時代を経ても、これまで如何に目先の便利さの

を追い、人間の根本・基本的な人格の育成・履行は等閑に

されてきたかを物語るものであろう。


〈用語注〉:

りん:やぶさか(ケチなさま・物惜しみ・躊躇するさま・未

    練があるさま)


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2022年08月15日

書経 4

86書経 C.jpg

(湯王曰、……)

不食言

(湯王の言葉)

破約しない、嘘は言わない、ということを肝に銘じてい

た、というのだ。


<管 見>

※これは、2022-06-06に「大学・傳二章」23で記した、

「荀日新、日日新、叉日新ばんの器に彫り付けて、毎日の

自誡(自戒)の句とした、というあの湯王である。

二か月ほど前に掲載したので、記憶に新しいと思われる。


「酒池肉林」で知られるけつ王は、いんちゅう王とともに

と並び称され、古来、国を亡ぼした非道な暴君として知られてき

た。

この夏の桀王の虐政に反抗して、兵を挙げ、桀王の大軍を

めいじょう山に破り、桀王に代わって天子の位についたのが、

殷のとう王である。

(勿論、名補佐役の伊尹や賢臣ちゅうき(次回に記す)などの

人材に恵まれたことは、言うまでも無い)


湯王は、挙兵にあたり、領地のはくの群衆を前にして、

出陣の誓約を次のように宣布した。

「来たれ、なんじもろもろよ、ことごとくわが言を聞け、

われは敢えて乱をあぐるにあらず、夏の罪多くして、

天命これを討たしむなり」、と。

つまり、夏の桀王の悪虐を天命に従って討つのだと述べた

のである。

この湯王の誓詞は、いま「書経」の「とうぜい篇」として残

されているが、さらに桀王と戦って大勝し、はくに凱旋した

時、湯王は、再び諸侯に対し、「夏王、徳を滅ぼし、暴政をたくま

くし、なんじら万邦の 百姓に対し虐政を加えたり。

なんじら万邦の百姓、その凶害を蒙りて、荼毒とどくの苦しみに堪

ええず、無辜むこの苦しみを上下の神祇しんぎに告ぐ。

天道は常に善にさいわいし、淫にわざわいす。

天はわざわいを夏にくだし、 もってその罪をあきらかにせり」。

(書経、湯誥とうこう篇)

と、言葉激しく桀の罪をならし、天命が夏を去り、殷に下

たことの正当性を証明しようとした。

桀王の悪虐を非難した言葉は、このほか、古典に数多く見

られるが、同じ「書経」の「虺之誥ちゅうきのこう」は次回に譲ることとす

る。


それにしても、このような優れた湯王による殷王朝の時代

末期(紂王)には乱れに乱れて滅亡する。

これは、禅譲を旨とした三皇五帝は別として、世襲が当た

り前となった前代の夏王朝の末代(桀王)をはじめ後世に至る

まで、かくの如くの次第である。


いまさら述べるまでも無く、現在の各界においても然り

≠ニ言わざるを得ない状況である。

前轍は、時代・国・政界・財界・中小弱小零細の各企業・

商工業・自営業などの枠を超えては勿論のこと、各家庭内に

おいても良俗や長幼の序≠ェ無秩序の様相を呈している。


〈用語注〉:

殷の湯王:夏の桀王(酒池肉林…などの)は暴政を敷き、

     その治世はひどく乱れた。

殷の湯王(契から数えて13代目、天乙とも

いう)は天命を受けて悪政を正すとして、

伊尹いいん(宰相・湯王の補佐役)の助けを借りて蜂起、

夏軍を撃破し、夏を滅亡させた。

食言:一旦、言ったことを呑み込んで、何食わぬ顔をする

   こと。

はく:殷の都があったところ。

荼毒とどく:苦しめること・虐げること。苦しむこと・苦痛。

無辜むこ:罪がないこと。また、その者。

神祇じんぎ:天の神と地の神。

天道:天地の道理(筋道・正しい論理)

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2022年08月08日

書経 3

85書経 B.jpg

(皐陶曰、…)

天工人其代之。

天工てんこう其れ之に代わる。


天子のなすべき仕事、それを人間が代わって行ってい

るのだ。

だから、人は夫々自分の仕事を天職と考えるべきであ

る、という。

<管 見>

「職業に貴賤は無し」(石田梅岩・都鄙問答)という言葉

がある。

また、ロングフェロー(米の詩人)に「建築師」という詩

がある。

それは、

― 世の中に、無用なおのや、卑しいものは一つもない。

  すべてのものは、適所におかれたならば、最上なもの

  となり、

  ほとんど無用に見えるものでも、他のものに力を与え

  るとともに、

  その支えとなる。


朝焼けや夕焼けの見事な景や、ソフトな感触を我々に与え

くれる木漏れ日など、自然による和みの風景、即ち、その恵

みは塵(飛び散るほどの小さな塵芥の類)の仕業だ、という。


― 世の中に、無用なものや、卑しいものは一つもない。

  塵や埃にも、役割がある。

  しかも、こんな素晴らしい役割が。

  美しい自然をあるがままに映し出すのは、塵や埃があ

  ってのこと。

  しかし、塵や埃は、ただ淡々と空中を舞っているだけ。


わたしはわたし、あなたはあなた。

  わたしはわたしの本分を尽くすのみ。

  一体、だれがわたしのように空中を舞ってくれます

  ? −


塵や埃の、そんな声が聞こえてきそうだ。

それを聴くことができ、そして素直に受け入れる人間に

りたい。

たとえ、木偶の坊といわれようとも。(短見)


今回は、これ以上の繰り言は言うまい。


〈用語注〉:

こうよう:古代中国の伝説上の人物。

司法をつかさどる官吏(司空・司寇)として力をふるった

いい、どのような事件に対しも公平な裁決につとめたとさ

れる。

その判決には、正しい者を判別して示すという霊獣である獬豸かいちを使

ったともいい、後の時代に司法官のかぶる帽子を獬豸かいちかんと称する

ことの由来にもなっている。


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2022年08月02日

お詫び

過日(二日ほど前に)投稿した、「書経2」の記事は操作違いにより、誤りがありました。
大変申し訳ありませんでした。
そのため、削除しました。
改めて、早急に投稿し直しますので、ご了承下さい。
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2022年07月25日

書経 1

83書経 @.jpg

寛而栗。

かんにしてりつ

寛大であるけれども、どこかピリッとしたところのある人

をつくるようにせよ、というのだ。


(舜が示した教育徳目)


<管 見>

これは、舜が臣下に(リーダーとしての)心得を求めた

こと(書経)の一節である。

直而温―ちょくにしておん(筋を通しながら思いやりがあるこ

)

寛而栗―かんにしてりつ(寛容でありながらその中に厳しさが

あること)

剛而無虐―ごうにしてそこなうことなく(強い意志力を持ちなが

ら強引に下のものに押しつけないこと)

簡而無傲―かんにしておごるなかれ(威厳があり、大らかであ

りながら下のものを見下さないこと)

など…。

重複するが、この他にも人の行うべき徳として、九徳(

)がある。

1.寛而栗(かんにしてりつ)〜寛大だがけじめがある。

2.柔而立(じゅうにしてりつ)〜柔和だが事が処理でき

る。

3.愿而恭(げんにしてきょう)〜まじめだが丁寧で親切で

ある。 

4.乱而敬(らんにしてけい)〜事を治める能力があるが慎

み深い。

5.擾而毅(じょうにしてき)〜おとなしいが芯が強い。

6.直而温(ちょくにしておん)〜正直、率直だが温和であ

る。

7.簡而廉(かんにしてれん)〜大まかだがしっかりしてい

る。

8.剛而塞(ごうにしてそく)〜剛健だが内面も充実してい

る。

9.彊而義(きょうにしてぎ)〜剛勇だが正義をもってい

る。


これらの徳目に己を改めて重ねてみると、あまりにもかけ

離れていることに気付かされる。

八十路の今、今さらながら我が人生を振り返ってみれば、

ある意味において納得するのである。

というのは、常に後塵を拝する(人の下風に立つ)のみの

人生であったことで、証明されるからだ。

つまり、リーダーたる資質・能力は皆無だったのだ。

赤心を以てよくよく振り返ってみれば、周囲の山々を

見上げるばかりの小道を辿るばかりの人生だ

ったが、そのお蔭でどうにか今日まで生きながらえること

出来たのだろう。


だから、身の丈に合った生活を送ってこられたのは、

*厄災を、最小限で過ごせた。

*離欲・低い位置こそ安定と知り得た。

*良き巡り合わせの上司・同僚・友人・知人。

などの恩恵に浴したのは、幸運の一語に尽きるだろう。

それが最も己に適した捉え方だと、心から感ずることがで

きる。


〈用語注〉:


栗:厳しさ・威厳。


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2022年07月18日

詩経 1

82中庸 D.jpg

老馬反爲駒、不顧其後。

老馬(かえ)って駒と為る、其の後を顧みず。

過去において働いた老馬を、恰も仔馬のように粗末に扱っ

ている。

自分もやがて老馬になって同じ運命を辿ることになるの

に、考えもしない。


<管 見>

今回の至言における「老馬」を愚生は自他の立場から考え

てみたい。

つまり、「老馬」自身の立場からみた場合、

と、

「老馬」を他者の立場からみた場合、

との二面からの考察である。

*「老馬」自身の立場からみた場合では、老馬は反つて

(歳とは逆に)若い駒気取りで、後々になって重荷を背負う

(楽あらば苦あり)を慮らずに、その時になれば背負つて苦しむ

のを毛筋ほども顧みずその場限りのときを過ごす、のである。

例えば、(イソップ寓話のアリとキリギリス)のように、目先のみに

目を奪われて、将来のことを考えない人を指すのであろう。

若さに任せて遊興に明け暮れる日々を考えてみれば、

何時までも朝日のままでいると思うが如くで、やがては夕日と

なる時の訪れを疑いもしない、のだ。

*「老馬」を他者の立場からみた場合では、現役の頃は

家族を含めた周囲のために身を()にして努めたのに、

これまでの役から辞した途端に厄介者扱いをする輩が、

結構存在するのである。

それは恰も、まだ役の立たない仔馬に対する言動よりも

酷い振舞いを平気でして憚らないのだ。

(喉元過ぐれば熱さを忘る・情けが仇・後足で砂…・軒を貸して

母屋を…・宋襄の仁と化す)


何れにしても、2022-07-04に掲載した「仁者人也」を

改めて首肯されることだろう。

 

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