2024年02月05日

老子 18

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老子・柔弱勝剛強

柔弱は剛強に勝つ。

世間では強いものが弱いものに勝つと考えているが、

実はその反対で、弱いものが強いものに打ち勝つのだ、

というのだ。


<管 見>

例えば、世の中に水ほど柔らかく弱いものない。

その水は巨船を浮かべ、鉄を腐食し、滴り落ちて石をも

穿つ。

名刀といえども、鉄を切りえても水を切ることは出来

ない。

英雄・豪傑は如何なる相手であっても怯むことはないが、

か弱い婦人にいとも簡単に操られる。

激しい理論が優しい言葉に打ち破られることもある。


また振り返って見れば、かの連合赤軍による軽井沢の

人質事件や数多くの(銀行・誘拐など)人質事件などの

冷酷で卑劣な犯人たちへの投降呼びかけの際に、剛強な父親

ではなくて柔弱な母親の声と姿を以て当たらせるのも、

その類いであろう。



イソップ物語の北風と旅人≠熨Rりである。


また、建築物における柔構造(⇔剛構造)を考えてみると、

「柔構造」:高層ビルにおいては地震や強風といった

様々な圧力に対して十分な強度を確保する必要があり、

それを解決する方策として柔構造が提唱された。

そこで、先人の智恵として(地震の多い日本に1,300年以上の

歴史をもつ)五重塔の構造から構想を得たものともいわれている。

「剛構造」:中低層の建造物によく用いられる。

柱や梁などの材は太くし、また、部材と

部材の接合は剛接合して、確りと固定する

とで強さを確保する構造。

夫々の特徴と問題点については、複雑多岐にわたり

専門的になるので、別の機会に譲る。


その他、

*心身が柔弱人と剛強人間。

 柔弱な人の暮らしは(自信が無いから)慎重故に

 長生きするが、剛強な人は無理をするから短命。

*雑草とコンクリート

 剛強なコンクリートの隙間から雑草が生き生き

 として、生を謳歌している柔弱な雑草。

*ウクライナとロシア

 柔弱なウクライナと各国の支援に比して、武力を

 以て 我意をはり侵略する剛強なロシア。

*人間(哺乳類)と恐竜

 柔弱な人間(哺乳類)が生き残こり、剛強であった

 恐竜が滅びた。

……。

〈用語注〉:


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2024年01月01日

老子 17

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老子・自知者明

人を知る者智なり。

自ら知る者は明なり。

人を知ることは智者〈※〉に過ぎない。

だが、自分自身を知ることを最上の明〈※〉とすべきである。


<管 見>

西洋の哲学者も「汝みずからを知れ」と教えている。

(Webのコトバンクによれば)、……ソクラテスは,人間の知恵が神に比すれば取るに足らぬものであるとする立場から,何よりもまず自己の無知を知る厳格な哲学的反省が肝要であるとして,この格言を自己の哲学的活動の出発点においた (『ソクラテスの弁明』

デルフォイの神殿()にあるアポロンの神託所に、「汝自身を知れ」という言葉が刻まれている。

これはソクラテスが大切にしていた言葉で、「無知の知」と同じ意味を持つものである。

*単なる「無知」とは、知らない=未熟=愚か、いう固定観念〈※〉と、知らない=未熟=愚か、であると思われたくない、という見栄とを併せ持つこと(無知であることを隠したい気持ち〉

*「無知の知」とは、自分が無知な状態であることを自覚するということである。

ソクラテスの発言の意図は、無知であることを自覚することが、真理を知るためのスタートラインである、ということだ。

彼は「何が一番大事な事なのか、何が真理なのか、ということについては、私も、彼らも、ともに分かっていない

でも、彼らは、分かったつもりでいる。

然し私は、分かっていない、という事を自覚している」と言っている。

つまり、「私は、自分の“無知”を知っている、という点では彼らよりも知恵者〈※〉である」というのだ

ここで大切なことは、ソクラテスの自「無知の知」の中には、先ず自分が無知であることを認め、他者に聞くことが〈より賢い人になる〉ための第一歩だという意味が込められていることだ。


前5世紀の後半、アテネで活動していたソクラテスは、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の真理に至ったとされている。

(※ソクラテス自身が相手に考え方を押し付けるのではなく、相手との問答によって相手が自ずから気付くように導いた。つまり、助産婦が赤ん坊の誕生を手助けるようなことから産婆術とも言い、これがソクラテスの大きな特徴であるといわれる)


愚生の独断と偏見だが、

*他人を理解する事は、知恵の働きでよい。

*自身を理解する事は、智慧の働きが必要だ。

*他人に勝つには、普通の力でよい。

*自分自身に打ち勝つには、真の強さが必要だ。

*満足する事を知っている人間が、真に豊かな人間だ。

*努力を続ける人間は、それだけで既に目的を果たしている。

*自分本来のあり方を忘れないのが、長続きをするコツである。

*死にとらわれず、「道」に沿ってありのままの自分を受け入れる事が本当の長生きである。


「知恵」とは、「物事の道理・方法・意味を判断して適切に処理していく知的な心の働き」「有益なアイデア・ひらめきを生み出す心の働き」を意味する。

「智慧」とは、「物事の真理を明らかにして、苦悩を消滅させる悟りを開く心の働き」を意味する。


〈用語注〉:

デルフォイのアポロンの神殿:ギリシャ中部

智者〈知者〉:知恵の優れた人。道理を弁えた人。

明:物事の道理を見通す力。眼識。眼力。(例:先見の明)

固定観念:心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。

知恵者:物事を考え、正しく判断し、適切に処理する能力がすぐれている人。知恵がよく働く人

明知の人:自分の欠点を見抜いて指導を受け入れる人。


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2023年11月06日

老子 15

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老子・大制無割

大制は()くことなし。

木材を切り刻んで器ができる。

器は人に用いられる。

使われる器には、支配者がいることになる。

反対に、切り出されたままで何物にも用いられない木材は、人の支配を受けない、だから、最上のものということになる。

同様に、大きな作品、最上の美術品というものは、決して割いたり切り刻んだりして手を加えてできるものではない。

人間も最上であれば、利口ぶった知識で小細工したりしない。


<管 見>

老子第二十八章の中の言葉である、

樸散ずれば則ち器となる、聖人はこれを用いて則ち官の長となす…

冒頭から記せば、

男性的な美点(力強さ)を知って女性的な立場(優しさ)を保つ様にすれば、全てを受け入れる谷間(谷間)になれる。

全てを受け入れる谷間になれば、真実の徳から離れる事なく赤ん坊の様な安らぎを得られるだろう。


秩序の整った善性を知って混沌とした悪性をも包容すれば、万物の模範となれる。

万物の模範となれば、真実の徳に反することなく善も悪も超えた境地に至る事が出来るだろう。

輝かしい栄光を知ってドン底の屈辱を忘れずにいれば、全てが集まる谷川になれる。

全てが集まる谷間(谷間)になれば、真実の徳で心が満ち溢れて切り出したばかりの丸太の様な純朴さに帰る事が出来るだろう。

その丸太を細かく切り分ければ、様々な用途に用いる事が出来る。

「道」を知った聖人はその様な人材を上手く使って人々の上に立たせる。

だがそれら人の上に立つ人々のさらに上に立つ様な人となると、丸太の様な純朴さを保ったままの人が良いのだ。

これが、老子の理想とする指導者像である。

「指導者はとにかく君子であれ」と説いた孔子と違い、老子は善悪栄辱といった価値観を超えて適材を適所に用いる事のできる指導者を理想としたのだ。


人材の持ち味をいかすのが人事であって、無能だからと言って切り捨る事をしてはならない。

そもそも人材の用い方は、相性であって有能・無能ではないのだと思う。

前にも「建築師」(ロングフェロー)

この世には無用のものや卑しいものはひとつもない

 すべてのものは適所におかれたならば最上のものとなり

 ほとんど無用のごとく見えるものでも

 他のものに力を与える

 ……

で、ただ淡々と空中を舞っている塵や埃にも素晴らしい役割があることを我々は知った。


(ぼく)(あらき※)が分けられると、様々な器が出来る。

同様に、人も生まれて成長すると、様々な人材となる。

例えば、「才能」と「仁徳」の夫々二つのタイプを考えてみると、


道と一体となっている聖人はこれを用いて、官の長とする。

だから、各部門の夫々のリーダーは兎も角、それを統べるトップが善い仕事をするということは、小賢しい人為などで(ぼく)(あらき)を細く・細工しない(手を加えない)ことをいうとなのである。


つまり、

各部門のリーダ ⇒ 各専門の知識・技術を以て指導・管理する。

トップ     ⇒ *上記の人たち全てを受け入れた上で、「徳」(人格)を以て臨む(ぼく)(あらき)のような質朴な要素を失わず、素を確りと保った人が望ましい。

          *実務者・管理者などを含め、組織全体で仕事への意欲・達成感…を共有できる人。

          *失敗は己のもの・成功は己以外のものと理解・判断・実行できる人。

          *己の人生を、組織としての仕事に懸けることができる人。

          (※さらに言い換えれば、善悪・強弱・高低・上下・美醜・遅速・苦楽・自他・攻守・硬軟・正邪・因果・前後・離合・集散・勝敗・吉凶・黒白・栄辱・終始・収支・大小・諾否・生死・親疎・増減・多寡・保革・老若男女・富者貧者…といった両極端だけでなくその間も含めて併せ持ちながらも、それを超越した視点・考え方・判断・実行の出来る存在である人)


〈用語注〉:

(ぼく)(あらき) @あらき(荒木)。切り出したままの木材。きじ。 Aありのまま。飾り気がない。

官:政務・事務を担当する職務(官職・役目)




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2023年10月02日

老子 14

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老子・多則惑

多ければ則ち惑う。

所有物を沢山持つということは、大変な楽しみのようであるが、実はどれを用いるべきかに惑うことになる。


<管 見>

持ち札が少なければ、少ない知識をフル活動してあれこれ工夫をする。

だが多いと、つい深く考えることとか智恵を絞るということを怠りがちになる。

つまり、

多くの情報・学問(知識)⇒多くの選択肢・豊富な判断材料迷い⇒優柔不断

その上、真の価値を掴むことが出来ず、有難味が実感出来ない。

財産・地位・肩書・名声・友人知人…なども然りである。


例えば料理を考えてみると、多くの材料を前にした場合果たして和食・韓国或いは中華料理…その他多くの料理が可能だが、それ故的を絞るのに苦労するのではなかろうか。

では仮に的を絞らずに、その多くの材料でいわゆる「ごった煮」を調理したら、複合的な味が生まれるかもしれないが、個々の材料本来の味は損なわれてしまうことは必至である。

いうところの虻蜂取らず≠ノなる。


*会話

 話し手・聞き手

*教育(指導)

 教員(講師)・生徒(学生・聴講生)⇒公立〜私立・塾・趣味…

等々、互いの人間関係上於いてもいえるのではないだろうか。


私たちは、ともすれば「人より多くの知識や財産」だとか「人よりも高い地位や名声」を良しとする傾向があるけれど、何れも最低限必要なもので良しとする潔さが必要だと思う。


年齢を経るに従い、身に付いた有形のものを如何にしたらあげる・捨てる¥o来るかを考えることだろう。

つまり、どうしたら身軽になるかを工夫し実行していくかである。

幸せとは、有形(形而下)ではなく、無形(形而上)のものにあるからだ。


〈用語注〉:


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2023年09月04日

老子 13

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老子・小則得

少なければ則ち()

所有物の少ない人は、モノを得るという楽しみをもつ。

モノを多くもっていると、新しいモノを得ても、かくべつ得たという喜びが湧かない。


<管 見>

日頃モノに不足している人は、むしろモノを得るという楽しみをもつ。

逆に、モノを多くもっていると、際限なく欲しがる割に得た時には格別な感慨が湧かない。

また、事前のときめくき程の期待も、得た後の醍醐味を味わうことも少ないであろう。


これは「モノ」に限らず、「知識・技術」・・「地位・肩書」・「知人・友人」などに置き換えても然りであり、ある意味においては「道」についても言えるのではなかろうか。

老子が説く道には、「天の道」と「人の道」がある。

「天の道」とは、人知の及ばない無為自然の道であり、

「人の道」とは、天の道(上記)とはほど遠く、永遠不変の道ではない。

換言すれば「人の道」とは、小賢しく道徳とか常識云々と謂い繕うが、それは所詮人が人の為につくった規範(手本・基準)ものでしかない、ということだ。

そうした人為の自己規範に縛られて、自身で苦しんでいるのが人間であり、人間社会なのだ。


人間社会でいうところの規範は、絶対的なものだろうか。

答えは自ずと「否」である。

例言すれば、複数間から生ずる習慣や考え方…生活全体をみると、

*国や民族による相違。

*人間関係(親子・兄妹・友人・知人)による相違。

*世代間による相違

など、それらの差からの断絶・不毛の諍い…は、煎じつめれば育った環境や教育の差に過ぎない。

これらは、夫々の間の価値観の差は「人の道」の規範では如何ともし難い。

何故なら、「人の道」とは人為だかである。

自分の考え方を至上と思わば、断絶や衝突が起きるのは必至だろう。


では、どんな生き方をすれば善いのか?

それは老子の説く「無為自然の生き方」である。

言い換えれば、人為の道に固執しないことだ。

己の考えや行動に執着せず、常に謙虚さを怠らず、自然(天・~)に照らして繰り返し反省・鑑みることが肝要なのだ。


人生を楽しく過ごすには、己の存在は元々「無」であることを知ることにある。

だが、スタートから時を経ると好むと好まざるとに拘らず、色々なモノ・コトを抱え込み、それから生ずる欲望や俗念などの垢が身に付き、本来目指すべき「道」の軌道から大きく外れ、ズレてしまうのは人としての性ともいえる。

だから、時としてスタートに立ち戻り、自分を「無」とすることをする必要なのだ。


有を突きつめていくと、その先は未知とか無限の世界になる。

その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」だ。


もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はない。

無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから生まれている。

この有無が渾然とした世界が、玄妙な道に入る関門である「玄関」だ。


〈用語注〉:

無名は天地の始め:万物の生々(※)を説いたもの(老子)

万物の生々:すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていくこと。物が次々と生まれ育つこと。

玄:黒・奥深くて暗い・奥深い道理。


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2023年08月07日

老子 12

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老子・曲則全

曲がれば則ち(まった)し。

曲がっている木は実用にならない。

然し、その為に伐採を免れ、かえって樹木としての生命を全うできる。


<管 見>

人もまた、あまり役に立つと使われ過ぎて、自分(人間としての)の真の発達を遂げ得ないものだ。

直線的な生き方よりも 曲線的な生き方を良しとし 、(一番よりも二番以降)後からついていく生き方好む。

そのほうが危険が避けられより安全に生きることができる、と説く。


決して、逃避主義ということではなく弱者が自らの弱点を理解して、粘り強く時には起死回生を図ろうとする方策である。


屈しているからこそ、伸のびることができる。

窪んでいるからこそ 水を満みたすことができる。

とも 「老子」は語っている。

この世のあらゆる事象は、「陰」と「陽」の相反する二つの性質を持ち、両者の調和によって世界が保たれている

即ち、「陰陽思想」である。

ざっと挙げてみても、

【陰】女、夜、裏、地、柔、弱、退、逆、静、暗、凹

【陽】男、昼、表、天、剛、強、進、順、動、明、凸

などである。

さらに意志・行動について言えば、

「得たいいなら、まずは与えよ!」

「前へ出たいなら、先ずは後ろへ退け!」

「伸びたいなら、先ずはは縮めよ!」

物事の一面のみに拘らず、相反する二面性を受け入れてその両面を大切に、バランスの取れた生き方をする。

これは「状況に応じて柔軟に対処せよ」という教えともとれる。


職場で降格を希望することは、恥でもなんでもなく、自衛の策なのだ。

何故ならば、上り詰めれば他の(下の)考えや見方を受け入れられなくなる。

継続して成長し続けるには、流れる水のように自ずから変化をし続けることが肝要なのだ。

それが結果的には、自らの命を全うすることになる。


人生に勝ち負けはない。

個々の人生は夫々だからだ。

人には、それぞれ生まれつきの能力と運命いうものがある。

得手不得手がある。

批判を気にせず、平然と生きていくことだ。


個性の無い、真っ直ぐな道はさびしい。

そして退屈である。

曲がりくねった道は、問題が多く大変だけれど、紆余曲折は楽しく味わい深い。

だからこそ自然・聖人はたった一つの「道」を守り、世の模範となって人が仰ぐのだ。


自らを前に出ないからこそ誰もが気づき、自らを肯定しないからこそ誰もが認める。

自らを自慢しないからこそ誰もが称え、長く「道」を保てるのだ。

人と争ってまで何かを求めようとしないので、決して誰にも敗れる事が無い。


〈用語注〉:


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2023年07月03日

老子 11 

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爲而不恃

為して(たの)まず。

自分が如何に大きな、立派な仕事をしたとしても、これを自然(天・神)のなせるわざとして、己の力によると恃み誇ることをしない。

これこそが真の徳である、という。


<管 見>

上記より続く…

…何故ならば、自然(天・神)でさえ為して恃まず≠ネのだから、それらに生かされている人間は勿論のことである。

つまり人間が、

*何かする場合(為す前)には、その結果を当てにしない。

また、

*また、何かを行った場合(為した後)にも、その成果を期待して頼りとしない。

とするのは極当たり前のことなのだ。

例えば、親が子どもを育てるのは、その見返りを期待して育てるのではない。

為して恃まず*ウ私の気持ちで育てるのが親の愛というものである。

また親などの血縁関係でなくとも、孟子でいう性善説(井戸の側で遊ぶ子供…)を思えば誰でも思い当たり首肯するのではないだろうか。

また、結果ばかりを気にしていると、真摯な気持ちは失われ行動にも掣肘(傍からの干渉による不自由さ)などの弊害を受け、目的を失うことになるし、不首尾を招くことになる。


老子は、自己満足(物事に勝手に名前をつけて悦に入る者)や、付和雷同(人の言うことを鵜呑みにする者)のような生き方をするのではなく、外形(物事の名前)に左右されず、根源的なものをよく見極めた生き方…ということを教えてくれているのだ。


故常無欲以観其妙

「妙」(奥深い・価値・有益・真髄)

常に無欲な心をもってすれば、万物に潜む深遠な姿を見る事ができる。

だが、

常有欲以観其徼

(きょう)(些細な目に見える現象面・事の結末)

欲にとらわれていると目に見える現象面しか見えない。


常に無欲の者は⇒あげる・捨てる()をして、己の中味に空間をつくるように努める。

そのような者は無欲ゆえに、道の「(みょう)」(微妙な本質・人智では計り知れない働き)を観ることができる。(空をつくれば、そこから新しい芽生えが生ずる)

然し逆に

常に貯めよう抱きかかえようとする有欲の者は、有欲ゆえに、その「(きょう)」(派生物・些末)しか観ることができない、いわれる。(新しい芽生えが生ずる空間が無い)

妙と徼は同じものから出てくるが、名を異にしている。


老子によれば、「道」とは「からっぽで何もない、姿も形もないもの」だという。

然も、幾ら使っても一杯にはならず、底が分からないほど深いものなのだ、という。

だからこそ、万物を生み出すことができる…。

即ち、常に満杯の状態では新しい何かを生み出すことは出来ない。

ともすれば、自分を“満たす”ことばかりに躍起になりがちだが、本当は空になることこそが理想の生き方なのだ。

満ちたままの状態に固執せず、“空”になる勇気を持つことがある意味では最も理想的な生き方と言えるのだろう。

道がこの世の万物を生み出し、徳がそれらを養う、そしてそれらが夫々の役割を果たすことによって、この世は成り立っているのだ、と説く。


恩恵を施しても見返りは求めず、長となっても支配し、偉ぶったりしない。


これら道の働きは玄徳(奥深い、隠れた徳〜道に沿ったすぐれた心身)、即ち、自然に備わった不可思議な能力なのだ。

ありのまま⇒徳⇒道


東京本社に勤務していた頃の愚生の思い出だが…、成績向上を図るためか若い社員の競争意識を煽り立てるのに、夫々を各県に振り分け責任を持たせるという、所謂、県担制を採用したのだ。

愚生の当時の業務は、本来技術職であったがセールスエンジニアという側面も担っていて、茨城県が担当だった。

その時の目的は、茨城県全域の農協の各担当者を各地域毎に集まってもらっての説明会であった。

競争意識過剰からくる緊張感と、失敗は出来ぬの思い込みが激しかったせいか、出張前から資料と講演の十分な準備を行い、念には念を入れて臨んだ。

結果はあまり芳しくないどころか惨憺たるものだった。


その後、本来の設計業務が立て込みそれに忙殺され、準備など満足にせずにその場に臨んだ。

全くの丸腰だった。

すると、出張先は勿論のこと帰社後の上司を交えての報告会で、自らも驚くほど心身が滑らかに働き、大いに効果を挙げてうるさ型の上司から褒められたのだ。

当時、原因が不明のままにしてゲンを担ぐような思いで、毎回大まかな段取りだけで臨んだ。

やはり、その方がうまく運んだ。

今、振り返って考えてみると、結果ばかりを気にしての己だったのだ。

心身とも「欲望」の塊そのものだった。

常に「有欲」が先行し、心を満杯にすることに邁進していた。


当時の愚生は、エリート意識が強く前述の教訓とは全く逆の、

*何かする場合(為す前)には、その結果(良い成果や評価)を当てにしていた。

また、

*何かを行った場合(為した後)にも、その成果(良い成果や評価)を期待して頼りとしていた。

のだった。

満杯の自分にさらに詰め込み作業をすることで、それらを以て恰も自家薬籠中の物()として他の人たちを説得しようとした、浅はかな行為だった。

つまり、為して(たの)まず≠ナはなく、「夜郎自大」・「井の中の蛙」・「夏虫氷疑」・「針の穴から天を覗く」など、全く身のほどを知らず≠フ心身をして対処していたのだ。

これでは、ニュートラル(中庸・自然体で気持ちに余裕のある状態)とはほど遠く、ありのままの状態でコト・モノに対応するのではなく、有名無実なものから取り入れた借り物の知識・技術を振り回していたにすぎないから、結果は当然(前述の)(きょう)」(派生物・些末)でしかなかったのだ。

〈用語注〉:

自家薬籠中の物:いつも薬箱に入っていて、いつでも使える常備薬という意から、必要に応じて使うことのできる、身につけた知識や技術のこと。また、手なずけてあって、自分の言うことを忠実に聞く手下や部下のこと。


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2023年06月05日

老子 10 

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上善若水

上善は水の(ごと)し。

最上の善は水のようなものである。

続いて、

水は()く万物を()して(しか)(あらそ)わず

(しゅうじん)(にく)む所に()

(ゆえ)に道に(ちか)


<管 見>

最上の善は、水のようなものだ、と説く。

その理由は、三つあるという。

水は万物に利沢を与えている。

 天地に水なくしては存在するものは無い。

 それ程大きな存在でありながら、他と争わない。

人間は得てして(とかく)一歩でも高みを望むが、水はその逆により低い所を目指す。

B低きに身を置くから大()へと繋がるのだ。

初めの一滴はやがて谷川となり大川に、その大川の流れはさらに海という大きな存在になる。

 若し、最初から高みにいれば、低きに至るのみである。

 何故なら、満つれば()(満月は次第に欠けるように、人間も栄華の絶頂に達すると、やがて衰運に至るのみである。盛者必衰) 


また、水は方円の器に随う$は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきる。

しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残さない。

優れた人は何時、 何処、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引かない。

怒る時は徹底して怒る、悲しむ時は徹底して悲しむ、仕事の時は徹底して仕事に没頭、趣味に興ずる時にはこれまた徹底する。

―滋賀県 ・西江寺住職の稲葉隆道さんの法話―によれば、

……その水も綺麗な真水がいいと思っていました。言い換えると、白分がきれいでないと他の汚れは洗えないと思っていました。

 しかし、経験された方もあるかも知れませんが、洪水で泥水が家宅に浸水し、家具が泥だらけになったとき、泥で汚れた家具をきれいな水で洗ったら、しみが残ります。泥で汚れたものは、一度、泥水で洗ってからきれいな水で洗わなければならないのです。 

……平成25年に滋賀のわが市も洪水の被害に遭い、重機を使う復興は早く終えましたが、戸々の後片付けに大変な時間がかかりました。

人間関係もやはりそのようです。自分が「規則を厳守し、曲がったことが嫌い」という生き方の人は褒められこそすれ、少しも悪いことではないのですが、やりたくてもできない人の性格の弱さ、経済力の無さが理解できず、助けることが出来ないのです。きれいな水の人なのです。

自分が汚れなければ、他の汚れを洗うこともできない」と思えるようになって初めて、清濁合わせ飲める度量ができるのだと思います。


即ち、水は清濁を問わずに用い方で如何様にも(災害をもたらすこともまた人の役に立つこともある)様変わりするけれども、それを決して水自らが理屈で教えるのではなく、人間それぞれの体験⇒経験で取得することを望んでいるともいえる。


〈用語注〉:


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2023年05月01日

老子 9 

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天長地久

天は長く、地は久し。

天地が永遠に変わらないように、物事がいつまでも続くこと。


<管 見>

愚生の管見などより、保立道久氏(東京大学史料研究所名誉教授・歴史学者)の解説を、以下に引用させていただくこととする。

冒頭の「天長地久」という言葉は、きわめて有名なもので、普通、天地の安定を謳歌する、おめでたい文句であるとされている。

明治時代には天皇誕生日を「天長節」といったが、本来、天長節というのは、絶世の美人とされる中国の楊貴妃の

夫の玄宗皇帝が自分の誕生日を祝日としたのが最初である……。

日本でも光仁天皇が七七五年(宝亀六)十月十三日の誕生日に天長節の儀を行なった。

しかし、日本では誕生日を祝うという慣習自体が根付かず、……。

<この間、略す>

 『老子』五章には「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」()という強烈な思想があることは少し前に紹介した通りで、天地は人間とは関わりなく存在して人間を吹き飛ばすものでもあったのである。

老子は、そういう天地と歴史の現実をふまえた上で、人間は天地と同じように、「自らを生ぜざる」という覚悟をもたねばならないというのである。

これは自己意識の過剰を放棄するということであろう。


 この章の解釈で、一番問題にされてきたのは、それに続く「是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ」という部分である。

これは、普通、「聖人はわが身を人の後ろにおきながら、それでいて自ずから人に推されて先立つ」などと訳されるが、これでは、意識して人の後ろについて、推薦されるのを期待するということになりかねない。

これでは「老子のずるい処世法」「計算された功利主義」ということになりかねない。

以上を前提にすれば、

……老子は、禅の言葉でいう自己の放下を支持しているのである。それが人の後ろであれ通常をはずれた位置であれ、それは二次的な問題だというのであって、これは「曲なれば則ち全し(負けるが勝ち)」の思想と同じことである。

これを「人に推されて先立つ」ことを期待できるなどというニュアンスで読んでしまうのは、前半の「天長地久」の意味が読めていなかったことを示している。


これらを賢しらの誹りを無視して、愚生なりきに平易にして述べれば、天は永遠であり、地も永遠である≠ニいうことなのではないか?

天地がその様に永久であるのは、自ら永久であろうとする意志が無いからだ

だから「道」を知った聖人はわが身を後回しにしながら周囲に推されてその身は人の前に立ち、わが身を謙虚にして人の外側に置きながら、周囲に推されてその身は人の中心にある。

これはその人が無私無欲(原因)であることのからの結果ではないだろうか。

無私無欲であるからこそ、自分の意(意見・考え・望み)を貫いていけるのだろう。


情けは人のためならず=E己の欲せざる所、人に施す勿れ≠ナ、自分の得することばかりを優先していると、後ろを振り向いたときには従う者は誰もいなかったという結果になるだろう。

結局、その先には淋しい孤独な人生があるだけなのだ。


〈用語注〉:(主として管見)

「天地は仁ならず」・「聖人は仁ならず」:自然というのは「仁」(人為的な優しさや愛情)

                    を持ち合わせてはいない。

野獣の世界では、弱肉強食であり弱者が可哀想だからといって、助けていたら強者が飢え死にしてしまう。

そういう目先の「仁」(儒教における人間関係の基本・他人に対する親愛の情、優しさ)を持ち合わせていなくても、

調和が保たれるようにできているのが自然だ。

例えば、人間を含むすべての動物の食べ物は、植物が光合成によってつくる有機物(生命体)が源になっている。

そして、植物を食べる草食動物は⇒肉食動物に食べられ、その遺骸は⇒バクテリアによって分解される。

というように、互いに「食べる・食べられる」関係にある食物連鎖中、自然や神は一連の中に於いて

その都度弱者を助けるだろうか?

また人間社会においても、公平にみて善人だと思われる

人達が独裁者たちによって虐げられている不公平な現状もまた然りである。

これらを目の当たりにして、神仏に思わず疑問を抱いた心の働きを思わば理解できるだろう。


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2023年04月03日

老子 8 

116老子 G.jpg

多言數窮

多言なれば数数(しばしば)(きゅう)す。

饒舌(じょうぜつ)は、しばしばゆきづまるものだ。

「虚心で無言を守るに()くはなし(及ぶものはない

・匹敵するものはない)」。

言い換えれば、「言葉が多いとしばしば行き詰まる。

虚心坦懐なのが一番よい」得てして、

「口数が多いと、かえって言葉に行き詰まることが多い」というのだ。


<管 見>

過ぎたるは及ばざるが如し

であって、極端に度が過ぎたり、

程度に達しないのは、どちらも正しいとはいえない。

 論語の説く天人合一真理「中庸の道」。

つまり、「どちらにも偏らず常に不変のこと」が実は大切なことなのだ。

過不足がなく、調和がとれていることが、

平凡のようでこれがまたなかなか難しいのであって、

ふとした軽率な言葉は、しばしば誰かを追い詰めることに繋がる。

だから、先入観を抱かず心をからっぽにして偏重しないように心がけるに越したことはない。


天は、人の自立を促すことはあっても、

無条件に人を助けてくれることはない。

人は葦の如く弱者であっても、考える葦≠セから

お互いが英知を出し合いし、協力・助け合いを以てすれば大概なコトは可能とすることができる。

”天は自ら助くる者を助く”を為して、

その後に”人事を尽くして天命を待つ”のが望ましい。


つまり、天の力添え(神頼み)や天命を待つしかない、

という時でもその前には為すべきことに対して、

人は全力で先ず努めなければならない。

自然界の調和が保たれるように出来ているのが自然である。

その教えにある通り、人間社会においても自然界の原理原則に基づいて、

虚心坦懐()に、真摯に、謙虚に、誠実に行うことが肝要なのだ。


話す・聴く、という会話は、言葉(書き言葉・話し言葉)や態度(表現方法)

を道具(シンボル)として用いてお互いのコミュニケーション

(意味内容の伝達)を図るさまである。

これによって、社会生活(共同生活)成り立つものだ。

然し、「能弁」だから効果をより上げるものでも無いし、

「訥弁」だから意思の疎通が図れないものでもないのは、

自明の理である。


〈用語注〉:

虚心坦懐:心に蟠りもなく、さっぱりして平らな心。また、そうした心で物事に臨むさま。


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2023年03月06日

礼記 9

115礼記 H.jpg

報本反始

(もと)に報い始めに()える。

㋑万物の存在は、天に基づく。

㋺人は、祖先に基づく。

その根本の恩に感謝し、その功を讃えるべきだ、ということである。

<管 見>

漢和大字典によれば、

「天」は、

➀会意文字で、一と大の合字。「大」は人の貌。人の頭上に一の符号を加えてテンの義とする。

人と二の合字。「二」上の古文という。中国古代の民は、「天」を至高のものとし、之を造化の神、上帝と考え、之より真理・正義・運命等の義とする。

梵語の「提婆(どうば)」は、「天」のこと。

「神」(~)は、

形声文字で、ネ()+申(音符)

申は、いなびかりの象形で、天の神の意味。

示を付し、一般に、「かみ」のいみを表す。

「仏」()は、

 形声文字で、人+(ふつ)(音符)

 漢和大字典では、よく見えないの意を含む、(ぶつ)(はっきりしない)(こつ)(ぼんやりする)・没(て見えない)と同系の言葉。

 梵語のBuddha(ブッダ)に当てたのは、音訳であって原義とは関係が無い。


このように、文字から勝手な解釈をすれば、

「天」・「神」は、天地を創造し、その間の万物を創造するばかりでなく、化育をも為される存在であり、

そこには「人」の入り込むなんてことは、全く論外なのである。

ところが、

「仏」()は、人偏があり人の性質や状態などを示すもので、それらの意味と字形の分類のための部首であるからして、人が関係するものだと断定としても構わないであろう、と思われる。


これらを、冒頭の「本に報い始めに反()える」に当て嵌めれば

 ㋑は、「天」・「神」(~)は、万物を超えた存在で、「授」(与え教える・伝える)

 ㋺は、祖先⇒人は、㋑から「受」(受け取る〜受領・受け入れる〜甘受・蒙る)

となり、何れにしても「その根本の恩に感謝し、その功を讃えるべきだ」となる。



〈用語注〉:

造化:天地を創造し、その間に存在する万物を創造・化育(生み育てる)すること。

また、それをなす者。


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2023年02月27日

礼記 8

114礼記 G.jpg

天道至教」  

天道は至教なり。

天の道の運行は、人間にとって最も大切な教えである。


<管 見>

人は、自然の摂理(天道=神)の中で生かされているのだ、という。

従って、愚見などの口の挟む余地なしである。


〈用語注〉:

天道:日本国語大辞典によれば、

➀天地自然の道理。天の道。天理。

➁主宰する神。天帝。上帝。また、その神の意思。天地間の万般を決定し、さからうことのできない絶対的な意思。

B (一般に「てんとう」) 太陽。日輪。てんとうさま。

C 天体の運行する道。天。空。天空。

D 天上界。

E 仏語。六道・五道の一つ。欲界六天と色界・無色界の総称。天上界。天界。

F (てんとう) 「てんとうぶね(天当船)」の略。

摂理:自然界を支配する法則。


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2023年02月20日

礼記 7

113礼記 F.jpg

至敬無文  

至敬に文無し。

敬いの極点に達したとき、そこにはもはや(あや)や飾りは無い、という。


<管 見>

尊敬の念が最高に至ったときには、その心以外何も不要である。

また、仮に飾り立てても、

@道理に合わない

Aそうする理由がない

B意味がない、つまらない

など、かえって「敬いの心」を汚したり、薄めたりの作用が働くばかりである、というのだろう。

つまり、

*蛇足

*功を弄して拙を為す

*過ぎたるは猶及ばざるが如し

*無用の長物

であって、「敬は礼の本なり」なのだ。


〈用語注〉:

():語源は、縦糸と横糸を組み合わせで、織物や模様の意。

そこから派生して、

*心の綾(心の動きの機微)

*言葉の綾(微妙で上手い言い回し)

*目にも綾な(織りなされた美しい情景)

等という。


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2023年02月13日

礼記 6

112礼記 ➅.jpg

量入爲出  

入るを量りて以て出ずるを為す。

収入の多少を加減してから支出をする。

それが財政学の根本である、と説いているのだ。


<管 見>

が、然し………?

「量入爲出」の類語に「量入制出」(入るを量りて以て出ずるを制する)があり、

その対義として、

「量出爲入」⇒「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)があるのではないか?


経済組織の二元論『市場経済』と『財政』

➀『市場経済』とは、企業であれば企業の売上、家計であれば賃金収入、というように、収入がまず決まり、その収入に基いて支出を決める。

従って、「量入制出」(入るを量って出ずるを制する)に基いて運営される。

というのは、企業の売上は生産物市場、賃金収入は労働市場というように、市場によって収入が決まるからだという。

一方、

➁『財政』とは、国家の経済を指し、政治過程で決定されるものである。

そのため必要な支出を決めてから、それを賄う収入を決めることになる、政治過程で収入を決めるには、必要な支出が決まらない限り、収入(税金など)の決めようがないからだ。

従って、財政は「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)で運営されることになる。

先ず、国民の要望をはじめに考えてそのための財源を、みんなで負担し合うというもの。

人間社会を、互恵・共有・共生を基とし、(社会のニーズを充足するための存在であるから)先ず財政民主主義の原則のもとでこれらのニーズを確定する必要があるのだろう。

例えば、(この際、防衛論はさて置き)

先ず、「現在の防衛力を強化する」を国是とした時、防衛費の増額を図る場合にその財源を、税制・公債(国債)・他の予算削減……、という風に支出を前提として収入を図る、所謂、「量出制入」(出ずるを量って入るを制する)ことになるのだろう。


扨て、これからの記述は、経済に関して門外漢の愚生による独断と偏見だけど、

㋑『家政』の根本は量入為出(量入制出)。

㋺『財政』の根本は量出為入(量出制入)。

だというけど、結論は同じだと思うのである。

何故ならば、『家政』であれ『財政』であれ、収入と支出のバランスを考慮しないで運営すれば、やがては破綻を招くのは必至だからだ。


さらに極論を言えば、健康の維持は「食事」と「排泄」のバランスが不可欠なのだ。



〈用語注〉:


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2023年02月06日

礼記 D

111礼記 D.jpg

禮不踰節 

礼は節を()えず。

礼儀は節度を越えてはいけない、というのだ。

鄭重がよいといっても、度を超えた丁寧さとか必要以上の謙遜は、むしろ諂いに近くなり、場合によっては失礼にさえなる、と論じている。


<管 見>

アメリカの独立宣言(の序文に)「すべての人間は、生まれながらにして平等である」、とある。

だが、(短見ながら)生まれながらにして≠ニいうのは、既に天が与えたもののように受け取るのは、短絡的だと思う。

何故なら、ただ惰性的に生きるだけだったら、差は無くならない。

現実の世を見ても、老若男女・心身障害者・名利や姿形の違いなどによって、(賢愚、貧富、身分の高低など)差は実在している。


福沢諭吉も(学問ノススメ)で

「世には差が歴然としてあるけれど、その不平等差を埋めるため、また生じさせない為に、学問をして己を磨くべきだ」、と説いている。

個々の差を無くして平等を得るには、己の努力次第だ、という訳なのであろう。


そのようにして得た平等な世にあっても、礼儀は人間関係を良好に保つためには必要不可欠であるけど、過度になるとかえって礼を失することになってしまう。

適度が大切、という訳だ。

即ち、偏ることの無い(中庸)ことが重要ということになる。


ところで、「稀少なるが故の価値」という話題に転じて考えてみると、

例えば、カレンダーを見ても昔と比較して祝祭日・休日が随分増えている。

愚生の青少年時代は、週一の休みは日曜日だけで、学校の長い休みの記憶は夏休みだ。


ところが、今は休日だらけの様相を呈し、レジャー(余暇)は増大する一方である。

「衣食住」は満ち足り、心身を酷使することなく余裕ある生活が容易になった。

要するに、生活全体にメリハリの無い、だらけた(締まりの無い)ものになった、といえるだろう。

節制を無視した生き方は、人間の欲望を増長させ、まったりとした渋茶よりも濃い美酒を追い求め、刺激に刺激を重ねるといった負のスパイラルに陥るのだ。

さらに困ったことには、その状態になっていること自体を気づかないことなのだ。

例えば、偶の休みだからこそ、待ち遠しく感じるのは言い換えればその間を楽しんでいるともいえるのではなかろうか。

苦のお蔭、当たり前の有り難さ≠ネのではあるまいか?

僅かな楽しみのために、多くの苦労・辛抱をしてこそ人間らしい節度ある生活といえる。


また話が転じるが、厚生労働省のホームページなどに依れば、

*身体と心の健康を維持するには

  健康=身体的だけではなく、総合的なものである、という。そして、日常生活や習慣を重視したものが重要であり、運動や食 事、喫煙、飲酒などの生活習慣行動、感情のコントロールなどの問題に対して有効なセルフケア(自己管理)が必要。

*身体と心の健康を保つ生活習慣

適度な運動を習慣化することが、健康な身体と心を維持する上で不可欠。

*適度な運動をして汗をかくことで、肉体に良い影響を与えるだけでなく、ストレスを軽減させる。

即ち、意識して(日々の地道な努力)身体を動かすようにすること。

*バランスのとれた食事

 心身の健康を育むためには、バランスのとれた食事・食べ方が欠かせない。

食生活の乱れは生活習慣病にも繋がるため、欠食や間食は避け、やけ食いにも注意して栄養バランスのとれた食事を3食しっかりとること。

アルコールも我慢するとストレスに繋がるので、節度ある飲み方が肝要。

*休養をとる

   身体と心の健康を維持には、しっかり睡眠をとって疲労回復を図ること。

また、休養とは無為に過ごすのではなく、自省など自分を見つめたり、趣味やスポーツなどで過ごしたりすることで、心身を整える。

などと呼び掛けている。

これらもいうならば、過度な事を避け適度な生活習慣を薦めているのだ。


〈用語注〉:



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2023年01月30日

礼記 C

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樂不可極 

楽しみは極むべからず。

楽しみは、その果てまで尽くすべきではない。

何故なら、快楽を求める心は限りないものであり、その後には倦怠と絶望が待っている、という。


<管 見>

我が生家は、代々漁業を生業としていて、父親は高齢になっても海にでていた。

多分、根っからの海好きの所為もあったのであろうけど、母親が望む平凡でも安定した月給取りという職業をいくら頼んでも聴き入れず、選ばなかった。

つまり、己の意志(望み)を抑えて家族のために宮仕えするよりも、自分らしい生き方(自己優先)を選択して憚らなかったのだ。

仕事場は荒海の日本海だから、漁の期間は三月の末頃から十一月頃の約七か月が精々だった。

その間の稼ぎによって、漁具(舟・網などの購入や修繕)を始めとして、一年間の生計費を賄うのだ。

尤も、僅かな田畑はあったけれど、それも小作農地を含めてだから実収は高がしれたものだし、それに何といっても大人数だから、収穫の量よりも消費の量の方が多く、食費が家計の支出中に占める割合を指す、所謂、エンゲル係数が高く生活水準が低いという典型的な貧乏所帯だった。


漁の種類は、刺し網・地引網・(機械船での)疑似餌を使っての曳き釣り漁(トローリング)・延縄漁・竹籠(の中にニシンなどを入れた)を連ねたバイ貝漁などであった。

自然を相手に、受け継がれてきた技・自らの体験⇒経験による技と工夫での勝負だから、工場勤めのように定まった給料が毎月入ってくるわけでは無く、確実性に乏しい生活だった。

かてて加えて雑炊や 茶碗十三 鍋一つ≠フ大人数の家族状態だった。

でも、父親のために言い添えておくと、後年(愚生が郷を離れてから知った)、旧軍人に対する恩給制度が復活して余裕のある老後だったらしい。


そこで当時の我が家と一般会社員宅と比較してみると、

➀一般会社員宅の場合

 A)現役時代中の公私の環境

 ㋑一人(複数の場合もあるが)の定期的収入である給料で、一家が安定した生活が送れる。

 ㋺また、年に二度は賞与(ボーナス)が支給される。

 ㋩残業すれば、手当が出る。

 ㊁定年(当時は五十五歳)がくればかなりの退職金が入るし、希望すれば関連会社へ就職することが可能である。

 ㋭日曜・祭日・盆、年末年始には休日がある。

 ㋬休日出勤した場合には代休がとれる。

 ㋣上記とは別に、当然のように(権利として)年次休暇が二十日間ある。

 ㋠給与・賞与以外の福利厚生(家族に対しても)が確保されている。

など、使用者側による(労働者が)一方的な不利益にならないように、労働基準法などの法律による就業規則があって確り守られている。

 B)退職後の環境

  公的には殆ど縛られることなく、私的(自由)時間が大半を占める。

  一見すると、気楽で幸せそうに感じられたが、果たして?

➁我が家(漁業)

 A)(愚生の知る祖父・父の)現役時代の公私の環境

 殆ど、自業自得果であり「蒔かぬ種は生えぬ」・「打たぬ鐘は鳴らぬ」の因果応報を直接我が身・己が家族にはね返ってくる環境だった。

 B)老後の環境

 健康である限り、生涯現役である。


今、➀と➁を比較してみる時、

)に関しては、➀の方が経済的には断然恵まれていたし、➁の立場からみたら羨ましかった。

だが、

)に関しては、の方が傍目には自由気儘な生活を楽しんでいるように見えたけど、果たして実状はどうだったのだろうか?

の立場の者としては推論になってしまうけれども、実状は全員とは言えぬまでも、大半の人は暇を持て余してしまい「時」という貴重な宝を無駄に浪費していたのではないのだろうか?

勤務していた頃は、ただ馬車馬の如く脇目も振らず毎日勤めに明け暮れ、趣味に興ずることなどは殆どの人は無かったであろう。

だから、定年と同時に何もすべきことが無く、生活に空白が生じてしまい途惑ってしまうのだ。

その点、➁の場合は趣味と実益を兼ねていたように思える。


扨て、振り返って見る時、愚生の体にも「板子一枚下は地獄」、所謂、大自然相手の過酷で命がけの仕事という自己責任の世界である、という血が流れているように思える。

何故なら、どのような組織に属しても、

*己が心から素直に従うのは、「地」(生物の住むところ)にあっての「天」(地・人を超えた存在)のみであるとの信念に反する場合。

*自身の生き方(名利を追わず、己の仕事に徹す)と異なる場合。

*立場を笠に着ての邪道・無理強いと判断した場合。

*口先三寸で世渡りをし、然も、人の足を引っ張る輩に接した場合。

などの時は、如何なる相手であっても屈することなく自分というものを貫いてきた、からである。


「漁師は生涯竹一竿」という、漁夫はただ一本の釣り竿で暮しをたてている、という意味だ。

それは一見まことに貧しく品性に欠けるようにみえるが、実際は肉体を主にして、然も心豊かで自由な境涯を楽しみ味わっているのである。

つまり、➁の場合は粗衣粗食の貧乏暇なしの暮らしであるけれど、それが却って心身の健康を培っているのではなかろうか。

八十路の現在、負け惜しみでは無くて心から思い、深謝している。


〈用語注〉:


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2023年01月23日

礼記 B

109礼記 B.jpg

志不可滿  

志は満たしむべからず。

全てのことについて、完全に満足のいくまで求めるという考えは捨てなければならない、というのである

欲望に限りは無く、そして一旦のめり込めば自ら退くことが出来ず、前に前にと進む一方で際限がないものだから、限度を弁えることが出来ない者は、最初からなまじ手を出さないことだ、という。

その典型的なものが、男の「飲み、打つ、買う」の道楽だろう。


<管 見>

「ヤマアラシのジレンマ」で知られるドイツの哲学者ショーペン・ハウエルの至言に、

「富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる」、というのがある。

当に、その形容は言い得て妙である。


『四書』の一つに「中庸」がある。

第一章に、「天の命之を性と謂い、性に(したが)う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂う」という言葉がある。

その意は、天が授けたものを人の性というのだ。

短見ながら、「天」とは、天・地・人(万物の)の最高に位置する絶対的な存在、と解釈する。

➀「人の性」とは、天から生まれる時に授かった自然な性質(天性・人性)であろう。

A  「人の道」とは、上記➀の自然(人情)に従うことである。

B  上記Aを修めることを「教え」(教育)という。

また、別な言い方をすれば、「天」には考えがあるのだ、という。

その考えとは、

㋑ある「目的」を持っている。

㋺そして、上記➀から発する「命令」なのだ、という。

その「命令」とは、斯く在れと人間に与えられたものである。

それからは、上記➀〜Bと重複することになるが、

㊁その与えられたものとは、「人の性」。

㋭次に上記㊁、つまり「性に(したが)う」〜人情に従うことが「人の道」なのだ、という。


「天」は、万物に対して公平であり、決して偏ったり偏愛はなく、常に「陸」なのだ。

従って、「中庸」の説くところは、中和の徳で人間が持つ特有のものだから、「至誠」(誠実・真心)、と言っても差し支えないだろう。

だから、

*人は常に欲望を(ほしいまま)にせず、

*傲慢を慎み、

*一方に偏らず、

*知者は之に過ぎ(出過ぎ者・やらなくともよいことをやり過ぎる)

*愚者は及ばず(全てやり足りない)

等々に鑑みて、和して同ぜず(和すれども付和雷同にならず)に生を送ることが、肝要なのだろう。

人は、「天・地・人」にあっては、所詮「天・地」の中で生かされている存在なのだから、高い境地には到達できなくても、せめてそれらを目標として怠りなく努め・励むという日々の生き方をすることが大切なのだろう。


また、離欲・知足の精神に沿った生き方を忘れてはなるまい。


〈用語注〉:


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2023年01月16日

礼記 ➁

108礼記 ➁.jpg

安定辭

(ことば)を安定にせよ。

ことばづかいには、落ち着きがなければならない。

その落ち着きは心の平静からもたらされる。

心に動揺がなければ、ことばも自然に安定するものだ、と説いている。


<管 見>

人間には、(車の両輪のように)理性と感性(感情)ある。

➀理が過ぎると、常に冷静だが、人間味が無いと言われる。

➁情が過ぎると、情け深く情に脆い一方、感情的だとか好き嫌いが激しい等と言われる。


この世に在る限り、種々の影響化の下で生活していかなければならない。

その各種の影響を受け止め、思考し、対応するという言動を行っている中で、人によって理性と感性(感情)が夫々の形となって外に発信されて顕れ出る。

人は夫々だが、仮に上記➀と➁を考える時、「車の両輪」に譬えたけれども別な表現をすれば、

*「理性」を車の操作(操る者の意志)〜能動・自律。

 目的を果たすための統御を司る役目・働き(指揮系統)

*「感性」を車の駆動(目的に沿った働き)〜受動・他律。

 操作を受けて、目的果たすために実働するもの(ハンドル・アクセル・ブレーキなど車体の各部品・機能)


指揮系統である頭脳(理性)が十分に理解し、納得していても、精神(感情)が高ぶり理性では制御できないケース。

また、その逆に理性が勝り感情を制御できているケース

どちらも、固定化される或いは固定化されたものでは無く、ケースバイケースであろう。

仕事などでは「理性」を通して物事を処理するのが望ましいのだろうけども、それでも人との関わり合いがあるからには「感情(情動・情け)」を無視することは出来ない。

例えば、書店で本や筆記用具などを大量に購入しても、店員の対応が無表情な時がある。

そうかと思えば、同じ書店で僅かな買い物をしても笑顔で応対されると、得をした気分になる。


「ヒト」では無く、「モノ(道具など)」や「ペット」との付き合いでさえ、自然と愛着が湧いてきて思わず感謝の言葉を話しかけている時がある。

剰え、物の売買という業務は品物の売買であるけれど、「ヒト」が介在して成立するものなのだ。

やはり、そこには「精神(心・感情)」のやり取りが不可欠なのだ、と思う。


つまり、「理性」一辺倒では事程左様に味気なさが暫くは尾を引いてしまう。

「理性」で捌くのが本筋の場合でも、その何割かは「感情(情動・情け)」をもって接することが必要であろう。


仕事では、モノを主とするのが本筋かもしれないが、それだけでは血の通った人間味が失われてしまう場合もあるので、論理だけでは割り切れないものを「精神(心・感情)」を加えて補う。

「理性」と「精神(心・感情)」のバランスが重要な要素として欠かせない。

その人によって、それらの多寡・大小は異なるだろうけれども、誰もが持っている。


Webで「COOL HEAD(冷静な頭脳)」と「WARM HEART(温かい心)」という言葉を知った。

これもまた、車の両輪に譬えて大切だという。


ところで、

*「情緒」(あるモノに接した時に受けるしみじみとした味わい)

 例:晩秋の夕暮れ時など、静かな環境において、軒に落ちる雨垂れの音に耳を傾ける。

*「感動」(感銘を受けて、特にしみじみとして心を深く動かすこと)

 例:素晴らしい人の言動や詩歌・芸術品などに接したとき、無意識のうちに心に刻みこまれ、思わずなる茫然   自失の状態。

*「喜怒哀楽」(様々な人間としての感情)

 例:突如として身に起こる様々な喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情(心持ち・気分)

  などを心に受けた時、刻み込まれる感情は何人であろうとも、あることは間違いない。


愚生の場合(自問自答だけれども)、どちらかというと、感情の激しいほうだと思っている。

時に激した場合、偶々(たまたま)相手となるヒトは恐らく戸惑うことだろう。

そんな例は枚挙に暇がなく、当に「後悔先に立たず」の為体なのだ。

八十路になった愚老の現在は、容姿は何処から見ても枯れた状態だが、精神的には何ら成長せずに未熟のままなのである。

それが偽りのない現状なのだ。

我ながら、全く情けない。


そこで、後悔をなるべく少なくする為に日頃から努めていることを紹介すると、独言を呟く(ホームページでの書き込み)ことだ。

公開するからには、出たとこ勝負(ぶっつけ本番)という訳にはいかないから、下書きやら簡単ながら推敲を行う。

すると、それに没頭している内に、自然とストレスの解消を図っていることに気付くのである。

だけど、それは取りも直さず誤魔化し人生でしかないのである。


結局、肉体は枯れても精神は幼稚な木偶の坊のままに人生を終えるのだろう。


〈用語注〉:


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2023年01月09日

礼記 ➀

107礼記 ➀.jpg

毋不敬

敬せざること毋れ。

何事についても、注意して慎まなければならない。

人を欺かず、自らを欺かない。

それが敬である、と説いているのだ。


<管 見>

某―漢和辞典によれば、「禮」ネ()+乚()〜音符の形声文字で、豊(れい)は甘酒を表し、神に甘酒を捧げて幸福の到来を祈る儀式の意を指す、という。

➀人の履むべき則・心に敬意を抱き、それを行動として

 外にあらわすみち。

A作法・礼儀。

など、とある。

また、別の字典では、豊(れい)は甘酒ではないが、たかつき()に形よくお供え物持ったさまを表し、示(祭壇)+乚()〜音符の会意兼形声文字で、整えた祭礼を示す、とあるからほぼ上記と意味は同じとみてよいだろう。


さて、今回の至言をひと言でいえば、「礼」を行うには「敬」を怠ってはいけない、というのだ。

勿論、(履歴や年齢などの」上下関係の区別なく(親しき中にも礼儀あり・垣をせよ)である。

「敬」は、攴(ぼく)+苟(きょく)〜音符の形声文字で、髪を特別な形にして、身体を曲げて神に祈るさまにかたどる、とある。

また、別の字典では、攴(動物のR)+苟(引き締める)の会意文字で、はっと畏まって体を引き締めること、とある。

加えて、「苟」(きょく)は、羊の角+人+口からなる会意文字で、人が角に触れてはっと驚いて体を引き締めることを示す、のだとある。


そこで、愚生なりきに纏めれば、人として生きていく基本的に大切なこと(言動)は、ヒト・モノ・コトに対する時には、心中に緊張感をもって接すれば自ずと尊ぶべき礼儀作法に適った言動として表れる、というのだと思う。

「意到りて筆随う」(自分が書く気になれば、筆がひとりでに進むとの意)ではないが、

*「意気に感じる」(相手のひたむきな気持ちに感動し、

  自分も物事を行おうとする気持ちになる)

*「意気に燃える」(物事を積極的に行おうとする

  意欲を強く抱くこと)

*「意気が揚がる」(何かをやり遂げようとする積極的

  な気持ちが高まること)

(精神一到、何事か成らざらん」(精神を集中して取り

  組めば、  どんな難しいことでもできないことはないということ)

*「水到り、渠()成る」(学問を究めれば自然に徳が

  備わってくるということ。

  また、時期が来ればものごとは自然に成就するということ)

等々、結果として現れる言動などは、その能力の程度・日頃の努め方・心中のあり方次第が表面に無意識のうちに滲み出るように曝け出てしまうのだ。


ただ、始末に負えないのは、往往にして発している本人にはその自覚が無いことだ。

然も、人間社会の中における指導的立場の者に、少なからず存在するのは誠に残念なことだ。


日本における会社組織の大半は、ピラミッド型組織(ヒエラルキー型組織)であり,

多くの利点があるけれども、問題となるのは、その頂点に立つ者と側近たちの資質というか人間性なのだ。

具体的には、底辺(直接生産労働に携わる人たち)に対する姿勢のあり方である。


組織とは、One for all,all for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的ために)をモットーに、各自が各々の責務を応分にそして忠実に果たすことであり、

そこには上位の者が個人感情を介入させて下位の者に対応するなどは以ての外だ、といえるだろう。


〈用語注〉

礼記:

「五経」(五部の経書で、易経・書経・詩経・礼記・春秋)の一つ。

周末から漢代に至る古礼についての儒者の説を集録したもの。

礼に関する理論・実際を記録編集したもの。



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2023年01月02日

春秋左氏伝 13

106春秋左氏伝L.jpg

春秋左氏伝・不索何獲

(もと)えんば何をか()ん。

求めなければ、何物をも獲ることは出来ない。

聞くところによれば、『新約聖書』・マタイ伝にも、

「すべて求むる者は得、たずぬる者は見出し、

門をたたく者は開かるるなり」、とあるらしい。

後漢書にも、「人生在勤、不索何獲」とある。

人生勤むるに在り、(もと)()ば何をか()んや。


<管 見>

改めて記せば、「人生在勤、不索何獲」となる。

人生にあっては、与えられた環境の中で全力を以て

己の可能性に挑み続けて、その結果の良し悪し・

好むと好まざるとに拘らず、天与として素直に受容することだ。

一生懸命に勤勉さに努めなくして、何が己が人生か、だと思う。

それには、先ず求めること。それがなければ何が得られるというのか。

人は死ぬまで心身を鍛える為に、勉強をし続けるものである。

然し、目標がなければ何を得るかも定まらない。


何も得るつもりか(目的)がなければ努力しても身につく筈はないのだ。

目標があってその目的のための手段の一つとして、例えば勉学の意味があるのである。

生涯現役で仕事を続けるのも、その仕事に対する向上心と常に励みとなるものに気付き、そこから得るものがあるから継続するのだ。

また継続は、己次第なのであって他力ではないのだ。

不動の目標と努力の継続が相俟って、果が得られる。


物事には、原因があって結果がある。

だが、その因と果を関係づけるものに縁がある。

短見だが、

➀ 因⇒目標

A 縁⇒励み⇒意欲⇒継続した努力

@   果⇒達成

この@からBを繰り返すことにより、徐々に人間力の厚さが増していくのだろう。


本性(本来の素質など)だけでは、人生は成り立たない。

(自分が何をすべきか?)を常に追い求めることが、人生の緒に就くことである。

そして得た、B(仮に・例えば)平凡な幸福≠維持するためには、やはり、それなり

のA(継続した努力)を為し、時と場合によって責任をも果たさなければならないのだ。


〈用語注〉:

春秋左氏伝:春秋三伝の一つで,経書に数えられている。左丘明が孔子の『春秋』の正しい意味が失われることを恐れて,『左伝』をつくり,また『国語』を著わしたと伝えられているが実際は漢代(前漢末)の学者が『国語』その他の伝承史料により,『春秋』の編年に合せて編集したものと考えられる。

孔子:BC552〜BC551or―BC479)。古代の思想家。儒教の祖。

左丘明:孔子と同時代の人。孔子の弟子と伝えられる。

春秋時代:周が東西に分裂したBC771年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が三国に分裂したBC5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指す。

後漢書:後漢時代を記した紀伝体の歴史書。正史の一つ。120巻。

    後漢(25220)の歴史を叙述しようという試みは、後漢当時から行われていた。

そのうち本紀10巻、列伝80巻は范曄(はんよう))398445)の(せん)であり、志30巻は晋の司馬(しば)(ひょう)(≒240〜≒306)の『続漢書』の志であったものをとっている。

これ以前にも7〜8種類の《後漢書》があったといわれるが,それらはいずれも失われ,最後の范曄のものだけが残って正史とされる。

范曄(はんよう)398 - 445年)は、南朝宋の政治家・文学者・

       歴史家にして『後漢書』の作者。

紀伝体:本・世家・列などから成る歴史書の書体。

       (史記を始めとする)

本紀:紀伝体の歴史で、帝王1代の事跡を記したもの。

世家:諸侯に関する記述。

列伝:個々の人物、特に国に仕えた官僚の

     一生を記したもの。

志:天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。

表:各種の年表や月表。


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