2021年11月01日

孔子(論語・學而) A

45孔子 A_20210710 (6).jpg

       貧
       而
       樂

貧しくして楽しむ。

貧乏であろうとも、卑屈になることはない。



<管 見>

他者のための人生ではないのだ。

周囲に惑わされることなく、確りとした目的をもって一途に歩むならば、それが己の人生を充ちたものとするのだ、と思う。


己を信じて一生懸命に努めれば、自ずと道が開かれてその先に人生の真の味が生まれ、次第にその味が心の襞に深く沁みてゆくだろう。

すると、やがて努力が心の中で熟成され、楽しさと化して心の底から湧きだしてくるのだ。

敗戦(昭和二十年)前後の頃を想えば、「モノの豊かさ」は別世界である。

然し、「モノの豊かさ」に反比例した「ココロの貧しさ」は、その代償なのだろうか。

だとすれば、人の性はなんとも悲しく、浮世の性は定めなきことの証しなのだろうか。


初期段階では、文字通りの「衣食足りて、礼節を知る」も、やがて経済が安定して成熟期に達すると当たり前の風潮が蔓延し、現状のような「衣食足りて、尚、礼節を知らず」となるのであろう。


蛇足ながらさらに加筆するならば、

名利を得れば得るほど、それに比例して懸念(心配事)が増し、

保有せざる者は、憂い少なくして日々を後生楽に暮らせる、のではないだろうか。



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2021年10月25日

孔子(論語・學而) @ 

44孔子 @_20210710 (4).jpg

      憚     過
         勿
      改     則

過ちては則ち改むるに憚かること勿かれ。

過ちを犯したと気づいたら、自分の立場・面目とか他人の目など気にせず、躊躇わず、即改めるべきだ、ということ。


この箴言(上記の言葉)は、「優れた人物の本来あるべき姿」について説いたもので、

➀ 如何なる場合でも、毅然とした心体であること

➁ 学問に励み、常に柔軟な心身を保つこと

B 何人・何事にも誠実であること

C 友だちとすべき者のこと

の項目に続いて、挙げられている。

  

<管 見>

「失敗は成功の母」とか「失敗は成功のもと」という格言がある。

失策・落ち度・躓きは、誰にでもある。


ところが、その後に現れる岐路の選択次第で、大きな差が生じるのである。

失敗した後の行為(心・意思を基とした行い)を二つのタイプで考えてみると、

*利己的な者

 ・体面(面目)に捉われ、取り繕うことに終始。

 ・弁解(言い訳)

・責任転嫁。

 ・喉元過ぎれば熱さを忘れる=B

 ・虚飾。

 ・詭弁を弄する。

 ・開き直る。

 例:轢き逃げ・トカゲの尻尾切り・頬被り・謝罪しいない女性アナウンサー……

*利他的な者

 ・外連味が無い(繕わない)

・自認。

・脚下照顧。

・他を慮る。

 ・体験⇒経験⇒財産。

 ・人生の糧として、今後に活用する。

 例:謝罪しいない女性アナウンサーに成り代わって、謝罪する男性アナウンサー……


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2021年10月18日

大雅(詩経) @

43大雅(詩経) @_20210606 (20).jpg

         詢   先
       芻   有  
         于   民
       蕘   言

他人の忠告は、虚心に傾聴せよ、ということだ。

※「芻蕘」(すうじょう):草刈る人と樵、つまり、この場合は賤しい身分の者たち。


これは、『詩経』の中の「大雅」(周王朝の儀式の歌)で、この句を含めた全般の意を記せば、

私と君は職務は違っているが、共に同僚ではないか。そのような間柄の私との話し合いなのに、君はただ煩わしそうな素振りをするばかり。この重大な問題を軽く笑ってあしらうつもりか


<管 見>

血縁関係とか心友・親友のような、ごく近しい関係は別として、

例えば、

*己よりも目下・若年

*それほど親しくない相手

などであっても、

少しでも頷くことがあるなら、真心から諫める言葉だと解釈して、素直な心で耳を傾けて一心(集中して)に聞け、ということだ。


けれど、話し合いとは単独では成立しない。

少なくとも「話し手」と「聞き手」という最小限の相手が無くては成り立たない。

また、「話し手」としての立場と「聞き手」としての立場では、思いや考えが色々な意味でそれぞれ異なる。

何れの場合でも大切なことは、

*相手の立場になって「話す」・「聞()く」こと。

*間柄の親疎や風采(姿・形・肩書・能力・など)によって、無意識のうちに使い分けをしていないか?

 ・親(既知)・スペック(風采〜自己宣伝・風説の場合が多い)が低い〜傾聴に欠ける

 ・疎(未知)・スペック(風采〜自己宣伝・風説の場合が多い)が高い〜傾聴する

 などの偏見を分別・内省。


事と次第によって、人は多面的に対応する。

自分が「話し手」の場合があるだろうし、「聞き手」の場合もある。

何れにしても、気持ちの持ち方次第でその果に大きな差が生ずる。

どのみち話し合いをするなら、確り(集中して)「話す」・「聞()く」ことは得ることはあっても、失うことは無い。


それが、日々の暮らしを意義深い生活にするのだ。

そして、それらがいつの間にか累積して、結果として充ちた生涯となるのだろう。





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2021年10月11日

陸游 @

42陸游 @20210606 (18).jpg

(至論本求編簡上)、
       里     忠
       閭  在  言
       間     乃

 至論 本 求む 編簡の上、

(至論:至極もっともな、道理にかなった論・素晴らしい論。

編簡:竹簡・木簡を綴ったものを策・冊と言い、これが書籍の起源。即ち、知識人.


 忠言 乃ち在り 里閭の間。

(忠言:忠告・真心から諫める言葉。

里閭:村里のこと。即ち、庶民。


<管 見>

理に適った理論やそれに基づく判断、そして実行は、インテリぶった知識人よりも、むしろ日々一般の生活をしている民衆の中に求められるものだ、ということ。

何故なら、例えば、政治は上流の一部の特権階級のものではなく、国全体の大半を占める、ピラミッドの底辺に位置し最も低い生活を強いられている大衆のためにされなければ、本来の意を為さないからだ。


八十四歳の時に故郷に引退していた陸游(りくゆう)は、農家のお爺さんと語り合う内に自らを反省させられ、「愧()じを識()るし」た、という律詩(漢詩形の一つで、八句から成る)を作った。

その第二連にあたる部分である。注:八句から連なる律詩の中の、第二句目。


陸游は、病の身を故郷で養生していた時に、日々農民や樵たちと交わって暮らしていた。

そのような生活の中で、つくづく感じたり反省の気持ちが湧いてきた、という。

それは、これまで国政に関して優れた考えや意見というものを、書物の中ばかりに求めていた。

だが、何気ない村人との飾らぬ素朴な会話に、その誠実な意見を聞いてその中にこそ政治の心髄があることを気付かされたのだろう。


「あの傲慢な夷狄(野蛮人の意。この場合、金(女真族1,115年に建てた王朝)のことが心配で、なんとかこのお国の為に尽くしたいと思う度に、泣けて仕方がありません」と、彼らは言う。

政府から何ら施しを貰ってもいないのに、国を思っての心情を吐露するのだ。

日頃上流階級からは、何かというと無知無能と蔑まれている農民たちだが、このように人としての高潔な見解・意中を懐いて暮らしていることを、中央にいたら知ることはなかったであろう。


「それに比べて、何もせずに年金を頂戴している今の自分が恥ずかしい」と、陸游は省慮するのである。

それは、村里での村人たちが鏡となり、鑑となって大いに学んだ、という気持ちからであろう。

政治家として、中央にいただけでは目覚めることはなかったろう、の思いが禁じ得なかった。


これを各界を操る人たちに照らして批判するのは容易なことだが、それをする気にはなれない。

何故なら、自省しない心に妙薬を投与しても、拒絶反応を示すことが明白だからだ。




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2021年10月04日

曹松 @

41曹松 @_20210606 (16).jpg

            一
      萬     將    
      骨     功
      枯     成

一将成りて万骨枯る。

露頭岩や氷山の頂点を支えているのは、見えない・隠れた大部分であることは自明の理である。



それと同様に、顕在する一人の成功者の陰には、多くの犠牲者や身を捨てて献身する者の存在が、潜在している事を表現している句なのである。


<管 見>

618年、李淵が隋を滅ぼして建国した唐王朝も、857年から始まった黄巣の軍による10年にわたる反乱だったが、879年に将軍高駢(こうべん)は淮南でこれを討ち破った。

この功績によって、高駢は封賞を受けた。

曹松は、このことを踏まえてこの詩にしたのだ、といわれる。


さらに、冒頭の句の他の部分を記せば、

沢國江山入戦図、生民何計楽樵蘇。

慿君莫話封侯事、<一将功成万骨枯>

沢国の江山戦図に入る、生民何の計あってか樵蘇を楽しまん。

(水郷である淮南地方の山川はすべて戦場と化し、人民は最早日常の生活を楽しむ術を失ってしまった、つまり、戦いとは、多くの民の犠牲が伴うのだ)

君に願う 語る莫れ封侯のことを、・・・。

(お願いだから、誰それが王侯に封ぜられたなどという話はしないで貰いたい。ひとりの将軍の戦功は、無数の兵卒の死の上に成り立っているのだから)


だからせめて代表者に望むことは、あなたの名利の陰には無位・無冠・無名の身でありながら、それでも為すことを使命として努めている多くの人々を踏み台として成り立っているのだ≠ニいうことを決して忘れてはならない、いうことだ。


尤も、このようなことを願っても、上からしか物事を眺めてこなかった彼らの心には、遥かな彼方から聞こえる遠吠えの効果さえないことだろう。


そう思うと、これ以上記す気が失せてしまった。




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2021年09月27日

唐 太宗 A

40唐 太宗_➁20210606 (14).jpg

            疾
         知   
      勁     風
      草

さらに、板蕩識誠臣。と続く。

疾風に勁草を知り、板蕩に誠臣を識る。


<注>勁草:強い草。転じて、節操の固いたとえ。   板蕩:乱世。 (出典:詩経)

激しい風に周囲の草が倒れ伏した時になって、強い草のあるのを知る。

乱世になって、節操を守る臣下のいるのを知る。


<管 見>

厳しい風雪に殆どの草が薙ぎ倒されている中に、凛として耐える草の姿には決して生来の強さだけでなく、守るべきものを必死になって努めている精神をもが感じられ、普段は気付かなかった草だけれど、改めてその貴重な存在を知らされた。


同様に、平和な時には目立たないけれど、世が乱れた時には、

*形勢の優勢な方に鞍替えをしたり、

*さも以前からであるが如きの忠義面をして、加担したり、

*筒井順慶のように日和見的な、洞ヶ峠を決め込んだり、

する中で、普段は媚び諂いなどしない地味な鋼のようだが、終始一貫して忠誠を守る頼もしき義士の存在を、その時になって知ることになるのだ。


これは、史上稀にみる明君として名高い、唐の二代皇帝太宗の詩の前半である。

また、太宗と臣下との問答集で有名な「貞観政要」は帝王学の教範として世に知られ、今以て、(広義の意での)学びの教本の最高ランクに値し、愚生も若い頃から現在も尚、鑑と仰ぎみる書である。


今回、「至言」として取り上げたのは、臣下である䔥瑀(しょうう)に与えたものである。

隋に仕えていた䔥瑀を、隋の滅亡後に太宗は見込んで招いた有能な人材で、宰相など要職を歴任し、諸制度を創立に尽くし大いに功績を上げた、功臣なのだ。

然し、何といっても頑固一徹な性格なため、周りから好かれていなかった。


一般的には、

➀ 孤立している䔥瑀

➁ 多勢な先君(唐の創立時)からの臣下

を比較したならば、@を説諭することの方だ、と考えるのが通例だろう。

ところが、そのような言動をしないのが、太宗の偉大なのである。


太宗は、敢えて我が国で例えれば、人口に膾炙する「大岡裁き」のような捌きを行ったのである。

*前半の「疾風〜」では、前記@の䔥瑀の気骨を讃えると共に、Aの臣下たちをそれとなく説き聞かせながら牽制している。

それに対して、

*後半の「勇夫安識義、智者必懐仁」(勇夫安んぞ義を知らんや、智者は必ず仁を懐く)では、

厳格な責め過ぎを心せよ≠ニ、これまた、(@の)䔥瑀に対して諭しながら間接的に抑制することで、一方の(➁の)臣下の言い分も立てて面目が保てる配慮もしている。


名臣・諫臣で知られる魏(同じく太宗に仕えた)は、この詩を聴いて、

「䔥瑀(しょうう)は法を守ろうとして周囲と対立し、その節を曲げまいと孤立している。然し、太宗はそれを忠義として、また勁草に譬えて庇っておられる。このような明君との運命(出逢い・巡り合わせ)がなければ、䔥瑀は危険な目に遭っていたに違いない」

と、感想をもらしている。


この魏徴の言葉を補足すれば、太宗の機知に富んだ裁量がなければ、@・A両者の対立は解けないばかりか、剰え、後に中央〜北東アジア(日本まで)席巻した世界的大帝国の唐王朝にも負の影響を与えてしまい、その栄光の実現が成らなかったかもしれない?と思うのだが、如何だろうか。


「千丈の堤も蟻穴より崩るる」の故事成語ではないが、些細なことにも配慮を欠かさない心掛けが肝要であることを、今回も(太宗の)「至言」で学ぶことができた。有り難いことである。



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2021年09月20日

王安石 A

39王安石 A_20210606 (12).jpg

       重     一
       百     言
       金     爲

政治家にとって、「言行の一致」が何より大切だ、ということ。

秦は、中国最初の統一王朝だった。

その礎を築いたのが、商鞅(BC390BC338)であった。

彼は、法家思想を基に国政改革を、断固として推し進めた。


この「至言」は、それから約1,400年後、新法による改革で知られる北宋の王安石が、商鞅の故事に託して自らの信念を述べた言である。


<管 見>

<>王安石による新法:民の税を軽減することを主とした、均輸法・青描法・募役法など。


今回の「至言」を含めてその前後を記すと、

自古駆民在信誠、一言爲重百金。

 今人未可非商鞅、商鞅能令政必行。

(古より民を駆るは信誠に在り、一言重しと為して百金軽んず。今人未だ商鞅を非とする可からず、商鞅は能く政をして必ず行われしむ。)


つまり、昔から民衆を納得させる道は、「信頼」の一語に尽きるのだ。

そのためには、為政者の一言を守るためには百金をも惜しまないということだ。

<>短見ながら注釈すれば、人は見える・見えないで判断する習性があることから、

  話し言葉:話すそばから消えてしまう〜聞く方は確信がもてない。

  財貨・金品:価値が目に見える〜示されれば、信用する。

政治家は、口外した僅かな言葉を果たすためには、多くの財貨も出し惜しみをしない。


だから、世の中の人たちが商鞅のことを非難するのは間違っている、となる。

その証拠に、商鞅は政令を確実に成し遂げ、「言行の一致」を確りと示したではないか。

商鞅の法に対する思いは、当時彼が秦の君主に言ったとされ、今も故事成語として残る、

「疑行は名はなく、疑亊は功なし」(何事も自信を持って断行すべきだ、躊躇していたのでは成功しない)で明らかであり、その後の変法改革の言行には些かの揺るぎもなかった。

この比類なき功績も、当時の独裁者であった君主や追従して甘い汁に与ろうとする諂い者たちの反感を招き、没落の一途を辿り殺害(車裂きの刑)された。

<>疑行・疑亊:疑ったり・躊躇いながらの行動。


信念のもとに尽瘁して果てた商鞅の世時から、時代は降ること1,400年余後の北宋時代は、新法党と旧法党との間での主権争いが繰り返された時代であった。

1,070年王安石が主席宰相になった頃は、財政が疲弊していた。

新法を以て改革を目指す王安石の政策を、理解し協力・擁護してくれた神宗のもとで、圧政に苦しむ民衆のために大いに手腕を発揮して活躍した。


だが、明君神宗も旧法党らの中傷でやむなくそれを認め、安石は左遷される時もあったのだ。

中傷の因は、彼らの持つ既得権(例えば、不当な税収など)が削られて農民たちが優遇されることへの不満・怨みであった。

その後も司馬光ら旧法党らの反発の中、左遷・復帰を繰り返すが、結局、公私に亘って不運が重なり、辞任して自らの領地を寺に寄進して隠遁生活に入り生涯を終える。


不運で終えた商鞅の生涯と、それを辿るような己の人生を、王安石は重ね合わせたのであろう。


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2021年09月13日

子罕_(春秋左氏伝)

38子罕(春秋左氏伝) ➀_20210606 (10).jpg

             貧         我
             爲         以
             寶         不


上記の前後を記せば、

子罕曰く、「我は、貪らずを以て宝となし、

(なんじ)は、玉を以て宝となす」。


<管 見>

上記、春秋左氏伝の「至言」(春秋・戦国時代―宋の子罕)に、愚生の短見を以て加筆し、さらに平易な表現を用いて以下に記してみたい。


ある者が、

「これは大変な宝です」と言って、宝玉を献上してきた。

所謂、賄賂の類いであろう。

それに対して、子罕は、

「私の宝とするのは、貪欲に宝玉を自分のものとしない精神こそ真の価値あるものとして大切しているのだ」

と言い、さらに相手に沿えた言葉は、

「君の宝とするのは、名利(世間的な名声と現世的な利益)ではないか」と、なるのであろう。


ただ、子罕は相手を咎めているのではなく、

「私が、その宝玉を受け取らないこと。

 君は、その宝玉を受け取りたいこと。

お互いに、それぞれが夫々を大切なものだと思っている。

そこで、夫々がその精神と行為を失うことになってしまったら、二人とも夫々の大切な宝を失ってしまう。

そこで提案だけど、お互いに自分の宝とするものを大切にしようではないか」


ところが、そのように子罕から諭されても、相手は怯まずあくまでも執拗に言うのだった。

「私のような者が、このような宝玉を持っていると賊に狙われて、命までも落としかねません。

どうか、助けると思って受け取って下さい」

そこまで言うのなら、人助けの意味から無視することも出来ない、と思った子罕は受け取った。


だが、ここからが子罕たる所以を発揮するのである。

受け取ったその宝玉を、さらに念を入れて磨かせると売りに出したのだ。

そして、その売上金をそっくり相手に渡した、というのである。

(短見:それならば、序でに子罕に依頼して信用のおける護衛者を紹介してもらい、そのお金で護衛者を雇って守ってもらうなどして、安全を確保して帰宅することができるだろう)


人には、夫々の生き方がある。

各自の生き方は、その人の自己責任に委ねるしかないのだ、と思う。


子罕の相手の立場でなって考えてみれば、たとえ子罕のような人に対してであってでも、慣用語の「朱に交われば赤くなる」のようになってはいけない。

己の生き方が正しいと自信があるならば、安易に感化されずにそれを確り守るべきだろう。

また逆に子罕の立場では、己の考えの方が絶対に正しい、と思っても自分の意見を無理に押しつけることをしてはなるまい。


特に優位な立場にある人は、大いに知恵と工夫を働かせて、今回の子罕ようにどちらも両立できる方法を捻りだすことに努めるべきだ、ということだ。


この世は恒常ではなく有為転変が必至である。

ならば、咄嗟の場面であっても、子罕のような振る舞いが自然体で実行できるためには、常々の学習に怠りがないことが大切だということを今回の「至言」で改めて学ばせてもらった。





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2021年09月06日

近思録 @

37近思録 @_20210606 (8).jpg

       老    不

       而    學

       哀    便


学ばざれば便(すなわ)ち老いを衰(おとろ)う。


「学問」をしていないと、年を取って早く衰えてしまう。

「学」には終焉がないから、「学」に忠実な人には老衰はない。


<管 見>

「文武両道」という言葉がある。

即ち、文は学芸を、武は武道を指す。

ここでいうのは、学芸一般についてのことだろう。


「学」に終わりがない、とは?

現在の我々が学ぶ基を「古典」と捉えれば、その意が解けるような気がする。

洋の東西を問わず「古典」の素晴らしさは、何千年ともいわれる時代の変遷に揉まれながらも、その生命の光を失うどころかこの先も決して色褪せることはない、であろうからだ。


特に、中国古典は「焚書坑儒」などにみられるような、権力者の専横や逆境にも屈せず著した「史記」(司馬遷)・「春秋左氏伝」(左丘明)など、また幾星霜の風雨に曝されても淘汰されずに柔軟に適応してきた、その他多くの不朽の名著は先哲の命そのものだ、ともいえるだろう。


それが故に、これ等の「古典」に触れ学ぶことで、愚生でさえもそのエッセンスを取り込む努力を欠かさなければ、僅かな能力であっても心身の健康に良い影響を受けることが十分可能なのだ。

それは決して他からの入れ知恵や思い込みなどではなく、愚生の老いた心身からでさえ滲み出るような感動を覚えることからの実感なのである。


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2021年08月23日

孟子 @

35孟子 @_20210606 (4).jpg

         不   父
         責 閨@子
         善   之

この後に、

責善則離。責善則離。離則不祥莫大焉。

と続く。



父子の閧ヘ、善を責めず。善を責むれば、すなわち離る。離るれば、不祥莫大なり。


「父は子に対して、厳しく道義を求めると、子が父から離れる。

父子の間が疎くなり、次第に溝が深まり、そこから災難・不幸が生ずる」


と言い切るような会話形式で、孟子は述べている。


<管 見>

知人に、普段は気丈でユーモアのある明るい人がいる。

その人に、突然、まだ若かった子供を亡くすという出来事が起こった。

その様子を、

「相当ショックだったのだろう、人が変わってしまったようだった」と、人伝に聞いた。


若い頃からよく「親より先に死ぬほど、親不孝はない」という言葉を耳にしたが、然もありなんと遠い地にいるその人の心を思いやり、かける言葉を躊躇うばかりで、ただ見守るだけだった。

父子が生存している場合でも、互いに離間するということはそれに匹敵することだろう。


だから、我が子には「善」(正・巧・立派……)を求めるのは好ましくない、というのだ。

何故なのか?さらに一歩踏み込んで、愚生なりに考えてみたい。

それは、学校などのような師弟間としての姿勢・立場・距離感が取れ難いからだろう。

つまり、ルールというか不文律(互いの内心に自ずと芽生える暗黙の了解)が成立していないと、

  親は、師の気持ちのつもりで教えるが、完全に親子(血縁)の気持ちを断ち切れない。

それが障害となり、私心(親という立場から抜け出せない心)が働いてしまう場合がある。

  子供は、<経験不足から>親に甘える気持ちから脱しきれない。

従って、自立心を育てるようとしての深い親心を理解することは到底無理なのだろう。

だから、思いのままにならないことから、それに反発することになるのだ。

要するに、血縁関係が極めて近いが故に障りが生じてしまうのだ。


では何を以て、父子間の心理(心の差)をそのように判ずるのか?

それを考えるのに、父子(親子)間よりも少し隙間を置いた立場の場合で推定(或いは、過去の思い出を…)してみることにすれば、理解できるのではないだろうか。

例えば、祖父母と孫の間ではどうだろう(どうだったろうか)

つまり、創作寓話「ヤマアラシジレンマ現象」(ド・哲学者_ショーペン・ハウエル著)を当て嵌めてみれば、解り易い。


誰しもそうだろうと思うけど、柔らかく・丸くて・温かい蒸かし饅頭のような人たちの思い出といえば、両親よりも祖父母とのことが心の底から自然に湧いてくるのではないだろうか。

それは、例えば春・草餅の時期になると土手の餅草を摘んだり、縁側での語らいの思い出などが、折に触れて(季節や祭事などと共に)鮮やかに蘇るのだ。

そして、そのシチュエーション(状況・場面・風景などと共に会話・匂い・色…)までも昨日のように思い出されてくる。

それは多分、不即不離(近すぎず離れすぎず)の、ほど良い距離を保っての関係のお蔭だと思う。

然し、次のようにも考えられる。

  育成するべき気持ちの強さと責任をとなると、比較すれば父母の方が断然強い。

  祖父母は、良いとこ取りの感は否めないだろう。

  年齢的にみて角が取れて暮らしにも余裕が生まれて、(表現はイマイチだけれど)孫をペットのような感覚を以て触れていたのかもしれない。

  一方、孫の方も祖父母の言動が、糊のきいたパリパリのモノでは無く何度も洗った肌触りの良い綿布のような感覚が、たまらなく好もしかったのだ、と思う。



続きについては、次回の「孟子 A」において記すことにする。


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2021年08月09日

宋名臣言行録」(歐陽脩 @)

33歐陽脩-➀_20210401 (14).jpg

       既
       去
       民
       思

既に去りて、民思う。

役人がその地での任(任務・役目)を終えてそこから去る。

すると、残された庶民は、はじめてその人の恩義(報いるべき義理ある想い)を覚えるのだろう。

つまり、人というのは在る(居る)時は、感じないけれども去る・失うなどの事態にならないと、その重要さとか有難味がなかなか解らないのだ。


というふうに考えてみれば、人に対する価値判断というものは、去って後に民から慕われるような人こそ、本当の正しい役人なのだ、ということだ。


これは、その他の各界においても同様であろう。


人が生きていくための必要なモノ・コトには色々ある。

その中にあって、厚生(衛生・健康)面も欠かすことのできない専門領域あることは間違いない。


そこで、医師を例として取り上げで考えてみれば、

@  Aという、裕福な医者がいた。

* 彼が往診する際の様子は、お供の下僕も馬もとても立派だ、という。

  * 一同の立ち振る舞いも礼儀正しい。

  * 医書を詳細に調べて、病の症候を述べる弁舌は熱心で敬愛すべきものだ、という。

 だが、病の子供が処方された薬を服用しても一向に効き目が無い、というのだ。

一方、

➁ Bという、とても貧しい医者がいる。

  * 彼が往診する際の様子は、お供する下僕もいないし、当然馬だって持っていない。

  * 立ち振る舞いは、粗野である。

  * 事情によっては料金を貰わないから医書は無いし、会話は寡黙で不十分である。

然し、如何なる患者であろうと、脈など直に手で触れて納得するまで決して手間を省かない。


その結果、A医師が諦めて見放した子供を、B医師は見事に直した、というのだ。

即ち、AのB医師が良い医者だ、ということになる。


これは、古い時代の役人や医者に限ったことではなく、今時の各方面・各位にも該当する話しではないだろうか?

この「至言」の出典である、歐陽文忠公が数郡を治めた時、治めた業績をあらわに(喧伝)せず、名声や誉れを求めず、ゆったりと簡便な政治を行い、民の生活をかき乱さない事を旨とした、というのだ。


そこで民衆はこの郡の利便にひかれて、この地に至り、既に去った民も、この地を思ったのである。


元来、民衆を治めるのに、官吏候補の履歴とか能力が優秀か否かが問題なのではないのだ。

つまり、能書き云々などよりも実施した政策がどうかが問題なのだ。


例えば、飼っている馬や犬に立派な装いをさせ、芸を仕込んで周囲に見せびらかして得意満面の輩がいる。

だが、そんなことなどしないで、飼い主共々自然のままに穏やかに暮らしている犬馬もいる。


この世では、各々がそれぞれ仮の姿を借りて生かされている、といわれる。

であれば、たかが人間の微小な力を以て、自然に逆らった小細をしない方が自然に適っているのではなかろうか?

授かった生を全うすること、或いはその手助けをすることに専念することの方に、「道」の意義があるのだ。


だから、そこに暮らしている民(生物)が有益であると評価するなら、即ちそれが良い官吏(生物)の行いなのである。



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2021年08月05日

頑輝 A

32-B頑輝 A_20210711 (2).jpg

      不
      屈
I have only protected one thing.
It is indomitable.

「My・Way」(Lyrics by Paul Anka.有馬三恵子_訳詞・バーブ佐竹_歌

  前回のブログで記した「My・Way」を掲載する。


「今思えば遥かな道程(みちのり)

 ただここまでがむしゃらに生きてきた

悔いがないとは言えないけれど

俺は、俺なりに生きてきた

およそ人並の苦しみは嘗()めたし

この世間の裏側ものぞいてきた

何に巻き込まれようといつまでも

 俺は俺なりに生きてきた


 信じるところを一筋に今日まで

 この道貫いた、それだけが誇りさ

 俺は歌って生きてゆく


 人を愛した、別れも知っている

 また、負け犬の辛さも噛みしめた

 お世辞まっぴらで、損もするけど

 俺は俺なりに生きてきた


 信じるところを一筋に今日まで

 この道貫いたそれだけが誇りさ

 俺は歌って生きてゆく」


<管 見>

この詞を、渋みと深みをたっぷり含んだ、バーブ佐竹の声で聴いたなら、何時の間にやら涙が頬を濡らして滴り落ちるのにも気づかず聞き惚れることだろう。

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2021年08月02日

洪自誠 C


32洪自誠-C_20210401 (10).jpg

        便  省  人
     一  超  一  生
     分  脱  分  減

人生減省一分、便超脱一分。
人生、一分を減省せば、便(すなわ)ち一分を超脱す。

人間あるところで(例:名誉・利益……)一部を減らしたり省くなどをすると、その他のところで一部を超脱しえて益が生まれる。
諸般に通じる道理だ、という。
また、別の書によれば、
* 人生で減らすことを考えて実行すれば、それに比例して俗世間から抜け出ることができる。
* 知恵を減らせば、本性(人間本来の本質・心構え、人間らしさ)を全うできる。
<愚生注>知恵:この場合は、(老子)知恵出でて大僞あり(大昔の自然の平和な生活から時を経て、法律・諸規則が生まれた  
        のは、人の小賢しい知恵が発達したせいであり、それに伴って、嘘・騙しも生じた、とする説 )     
*減らすことを考えずに、増やすことばかり考えている者は、自縄自縛しているようなものだ。 
とある。
<管 見>
(短見ながら推測すれば)、洪自誠のいう「益」とは、僥倖・利得などではなく、
* その人にとって、精神的に充ちた人生のためになること。
* 陰乍ら、世(他者)に役立つこと。
を指し、公益・慈善を意とするものだろう。

言わば、皆が少しでも良いから自益を譲ることに努めれば、砂子長じて巌となる≠ナ公益が生まれる、ということだろう。

愚生の(三十歳〜現在までの)経緯を臆面もなく記せば、
* 思うことあり、二十九歳のとき人生の岐路に立ったが、上司による慰留や当面の職務のけり(決着)の目処が立たぬこともあ
  り、一年間の猶予の後に退職し、自営。
* 思うことあり、四十二歳頃、廃業。
* その後、転々とした放浪生活。
  ただ一貫して守ったのは、
  ・ 足跡を残さぬこと。
  ・ architectureの職種は固守する。
            この頃前後していたかと思うけど、「My・Way」(Lyrics by Paul Anka.有馬三恵子訳詞
     〜後日、この詞を思い出しながら掲載したい、と考えている)を自身の生き方と重ねて聞いていたことを思い出す。

* 六十歳、近親者をはじめ全ての交際(含む、賀状)を絶った。
* 六十五歳、現役を退く。
* 改めて、学習生活に入る。
結果として、益(心友・安らぎ・生き甲斐)を得た。



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2021年07月26日

洪自誠(菜根譚) B

31洪自誠-B_20210401 (8).jpg

             好
       好  
          不  名
       利  
          殊

名を好むは、利を好むに殊(=異 こと)ならず。
<注> 殊=異⇒他と違う。

名誉を好む心は、利益を好む卑しい心と結局は同じことだ。

どちらも、好ましいものではない、ということである。


出典の「菜根譚」(後集―八十)に則ってもう少し詳しく記せば、

@   国を譲るといわれても「義」(道理)を重んずる人は断る者。

一方、

➁ 「利」に貪欲な人は、只で貰えるものならたとえ端金(小金)であっても受け取る者。

一見すると、@とAでは天地の程の差があるようだが、「欲望」という点では同じだ、という。

「菜根譚」によれば、

  天子は、国全体を統べる()ことで身を削る思いで日々を過ごす。

  乞食は、少しでも多くの喜捨を受けようとして懸命である。

二者を考えると、天地雲泥の差に思える。

だが、「欲望」を満たすという点では、同じだ、と説いているのだ。


<管 見>

愚生の思惑は、「菜根譚」(洪自誠)の趣意には沿わないけれど、

  名誉

  利益

  名利共

  技芸等の趣味

  他、諸々

などの「欲望」があっても(或いは、持っても)良いのではないか、と思うのだ。


この世にあっては、色々なタイプの人たちがいるのが人間社会なのだろう。

それぞれにあっては、相性というものが歴然と存在することは、自明の理である。

ならば、相性次第で夫々が自己責任のもとに夫々の「欲望」・「願望」などを為し、満たすならば、それはそれで良いのでなかろうか。


愚生など凡人は、無為・無味乾燥な生には、とても耐えられない。


愚生は、或る事を切っ掛けに三十歳の頃、名利にから離れた生き方を選んだ。

それでも、思わず遭遇した災厄から逃避せず努めれば、身に余るご褒美を頂戴することもある。

その時に頂いたものは、傍目には細やかであっても、愚生にとっては大きな「願望」を満たす結果となり、そのご褒美は有り難く頂戴した。

これからもそうありたい、と、今でも時に触れては懐かしく思い出し、当時のことをしみじみ味わい直している。


ただ、それを守ることが成文法()とまではいかなくとも、そこには最小限のルールというか不文律があり、それを犯してはならないであろう。

それは、上記の各種「欲望」を満たさんとして、

他者の心身に対して、

  傷つける。

  足を引っ張る。

  酷評する。

  悪用する。

など犠牲を強いてはならない、ということだ。


所謂、大きな戦いだけでなく些細な諍いであっても、そのような行為の果ては不毛な時だけでなく、負の遺産(迷惑)を遺すことになることであろう。


そして、全てに満足する人生は、先ず無いと観念することも必要だ。

どうせこの世は「泡沫夢幻」だというけど、努力もせずにそもそも無茶な「願望」を満たそうとしても、それは端(はな)から叶わぬ、それこそ夢幻なのだ。

だから、ほどほどの(粗茶でも、僅かな渋茶ほどの)味わいで満足するのが肝心だ、と思う。

        
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2021年07月19日

淮南子 D

30淮南子-D_20210401 (6).jpg

      遺     守
      萬  而  一
      方     隅

一隅を守りて、万方を遺(わす)る。

<注>万方: あらゆる方面。すべての方面・種々の方法・全ての手段。


<管 見>
一か所或いは一面・一方の隅だけに神経を集中していると、その他のことがお留守になってしまう。
つまり、一部のみに集中していると全体を把握することができず、失敗・危険等を招いたり、災厄などの場合には周章狼狽するばかりで、咄嗟の行動に支障をきたす結果となる、というのだ。
然も度し難いのは、その悪い影響・結果は、無関係な人たちをも巻き込むのである。

ソクラテスの言葉に「無知の知(自覚)(人間は、広く・複雑なこの世を知ることは容易ではないのに、全てを理解していると過信しがちだ)というのがある。
言い換えれば、「自分自身が無知な状態であることを自覚する」ということで、人としてその年齢に即したまともな言動を知り、身に付けることに努め、実行できるようになれ、というのだろう。

ところで、「無知は幸せ」という言葉は、よく世間で言われ耳にするけれど、
  「当人」自身は幸せなのかもしれない。
だけど、
  「当人」以外には大変な支障(迷惑)を及ぼしている。
なのに、「当人」には加害者意識というものが皆無なのだから、手に負えない。

また、「無知」というほどでもないが、身近な「小智()の者」を例に考えてみると、一般常識からすれば、「おらが村の雑草の蔓延った丘(おか)」が、気高い富士山だと思い込んでいるのに似て、その様は滑稽さ・阿呆らしさを通り越して哀れすら覚える。

とはいえ、周囲は「忠告が仇となる」ことを周知なので、誰も当たり障りなく接している。
そのことも知らずに、当人は皆と和合どこらかリードしているつもりなのだ。

だから、陰で顰蹙を買っても、平気で同じことを繰り返して憚らないのである。

類語に、「近視眼的(発想・考え・判断・・・)」・「木を見て森を見ず」という言葉がある。
ある微小な部分のみで考え・判断・実行すれば、結果は火を見るよりも明らかであろう。

愚生のつむりの髪は、かなり以前から床屋に行かず自分で剃るけど、それも十日に一度位だ。
なので、「おらが村の丘(おか)」を「他山の石」として、「心の乱れ髪」を剃ることに努めたい。


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2021年07月12日

淮南子 C

29淮南子ーC_20210712 (4).jpg
        
        不   知
        知   遠
        近   而
遠きを知って、近きを知らず。
遠方のことは解っていても、手近なことは解らない。
他人のことはよく見えるけど、自分自身のことは見えない。

<管 見>
見る・聞(聴)く、ということについて考えてみると、他人の出来事は冷静に見たり聞いたり出来るのに、自身のことになると沈着冷静にとはいかない。
特に、いざという時とか、咄嗟に判断して言動しなければならない時には、普段通りの自分らしさが果たしてどれ程取り出されるか、となると些か心細い限りである。


特に自分自身の全てを見るということは、先ず不可能であろう。

また、自身の話していることを冷静になって聞くということも、容易ではない。


即ち、見る・聴くができないのだから、他の感覚も然りだ。

特に省みる事の無い人は、自ら或いは身近なヒト・モノ・コトについての正確な実態を把握できていない。


それなのに、一番困るのは手前勝手な性分を直そうとしない。

それどころか、足元も見ずに流行もの・ブランドものなどを追い、その質より名で求めたりする。


また、佞人しか認めないのに、自身は有能だと何処までも誇って憚らないという、自己中心的な生き方を捨てきれないという厄介な輩もいる。


「自分の盆の窪は見えず」という言葉がある。

然し、エゴイストは「己の心身全体は見えず」或いは「自らのことは見て見ぬふり」なのだろう。


やはり、ただ馬齢を重ねるだけでは駄目だ、ということだろう。

人それぞれには、得手不得手はあろうし、能力にも各々の差は当然あるだろう。
でも、どんな時にも日頃努めを怠らなければ、一升瓶には一升しか入らないけれども、さてという時にはその一升瓶分の力が己の身や、人様のために働き、凌いでくれる筈である。

所詮、自身のことを正確に把握でないのであれば、中身を満たすことに日々精進するしかあるまい。

それを信じて、己の道を歩き究めようではないか。
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2021年07月05日

淮南子 B

28淮南子-B20210401 (2).jpg
        容   蜂
        鵲   房
        卵   不
蜂房(ほうぼう)は鵲卵(じゃくらん)を容(い)れず。
<注>
鵲(じゃくーかささぎ):烏に似ているが、尾が長く背と腹は白い。
           全長は46センチほどで、烏より小さい。

蜂の巣の小さな穴に大きな鵠(こうのとり)の卵を入れることはできないように、小器には大量のもの収容できない、ということである。


<管 見>

淮南子は、上記のような例を取り上げて器量について述べている。

でも器には、大小や異形のものなどさまざまな種類があるし、また如何(多様な)なるものにも対応するには、普段からどのような心構えで臨む必要なのだろうか?


そこで、今頭に浮かぶままに任せて、以下に記してみたい。

  どんな容器(器量)であっても、働きを七〜八分目にとどめることが肝要。

健康法として、食事でも「腹八分目」・「軽めの食は長寿の源」などと言われるのは、そうでないと、内臓(胃など)の働きが十分に機能しないことに加えて、肝心なものを疲れさせてしまうらしい。

同じく頭の働きも、詰め込み過ぎは逆効果になってしまう、と心得るべきだろう。

  「兎と亀」・「蟻とキリギリス」・「駑馬十駕」などに倣い、「千里の道も一歩より」を胸に日々努めることだ。

そして、辛抱して「一生懸命」に挑み努めれば、

  真の姿が見えてくる、すると、余計(無駄)なものに振り回されず、集中して持てる力を十分に発揮することができる。

  継続していれば、やがてその真髄に触れることで、だんだん面白くなってくる。

  その姿から心を慮る廉直な心の持ち主と、「相知心」が生じて支え合える

また、因と果を考えれば、

*「近道()」には、それに見合った少量の結果しか得られない。

*「遠回り()(手数をかけるほど)すれば、それ相当の結果が得られる。


巷間、後期高齢者などと言って、形ばかりの憐憫の情を寄せて由とする向きが多い。

だが、実年の本来の意は、肉体を指しているのではなく、精神にこそ意義があるのだ。


ことの序でに記せば、実の旧字「實」は、「屋内に宝がいきわたる」という会意文字なのだ。

これは、屋内⇒心(精神)に宝⇒人としての至重(尊く大切モノ)を有す、とも言い換えられるから、

満ち足りた精神の持ち主が齢を重ねても、更なる精進に努めている者を指すともいえるのである。


まだまだ、秘かにではあるけれども、挑み続けている気力に満ちている者がいるのだ。


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2021年06月28日

淮南子 A

27淮南子-➁_20210329 (2).jpg

      日
      慎
      一
      日
日に一日を愼む。

その日その日に謹慎(心に言葉の意を十分を塗り込めて、外に向けての言動を控えめにする)して、
今日は昨日より、明日は今日より、と謹慎を重ねる。
それが詮ずるところ、一生を通じての修養となるのである、というのだ。

<管 見>

本来コトを行うのは、誰かのためにとか何かを期待して為す、というのではないのだ。

自ら発した因の基に努め、是非は兎も角その果は己の責であるのだ。

従って、因果律は自律のもとに努めるのは、極、当たり前のことなのである。


古代において天子が政治を執り行うに、下に仕えし者は各々のあり方で諫言した、という。

*三公九卿(最高位の三人の官職とその下での実務者の九人)は、

諫争(争ってまで諫めた)して直に正し、

*博士(学問・技術専門の官職・称号)は詩(学・技の全般)を誦(読誦・暗誦)し、

*楽官(音楽を司る官職)は箴(戒めを)し、

*師官(技芸の官職)は誦し(詩歌などを唱える)

*庶人(一般大衆)は語を伝え(伝承)し、

*史官(歴史官)はその過失を書(書物を著す)し、

*家宰(家長に代わって取り仕切る者)は、道理に反する場合は膳(食事)を取り下げる、

などしてそれとなく諫めた。


それでも古代の聖王は足らぬとした。(さらに諫言を求めた)

堯・舜・成湯・文王・武王などは、僅かばかりの過失にさえも備えを怠ることはなかった、という。

そもそも聖人であれば、己以外の善ならどんなに小さくとも必ず讃え、自身に過失があれば如何に微小であっても必ず改めるものであろう、ともいうのだ。


堯・舜・禹・成湯・文・武の諸王は、皆な天下に裏表の無い人として君主の座に在った。

その在り方は、

*王者の禮たる食時の太鼓、食終の奏楽を欠かすことなく(天・神に対する礼?)

*食後には竃(かまど)を祭って恩恵に感謝し(天・神・大自然に対する礼?)

*事を断ずるに祈ることなく(自己責任において物事を決定・裁断し、天・神に責任転嫁せず)

などを天・神から与えられた当然の職務としていたから、

それ故に、

鬼神は祟らず

*山川は禍を及ぼさず、

だったのであり、まさに高潔の極みと言える。


このような状況にあっても常に過ちが起こることをを恐れて、常日頃から己自身を反省することを怠るようなことはなかった。

このように聖人と言われる人を観てみれば、聖人の心というものはなんと小さなものであろうか。

(これは、侮りの言葉ではなく、心から崇め奉る言葉なのだ)


「詩経」に、

維れ此の文王、小心翼翼たり、昭(あきら)かに上帝に事(つか)へ、ここに多福を懐(いだ)く、と。

これはこのような聖人の姿を讃えたのであろう。

聖人は、決断を下して実行する時の言動は大胆だが、その前の段階では「小心翼翼」(臆病者)と言われるほど熟慮に熟慮を重ね、慎重に事を運ぶ過程を疎かにしないものなのだ。

つまり、「胆大心小(度胸は大きく、注意は細かく)」である。


後世、聖天子・聖王と言われた所以は、宜なるかなであろう。

だがこのように、範を示されて何千年も経ても、
*益の少ない労は、惜しみ。
*諫言より甘言を好み。
*姿・形といった、外見に拘り。
*周囲の迷惑を顧みず。
*自身のことを棚に揚げて、日々他人の噂話に明け暮れ。
*自律を基とした慎みを怠る許りか、剰え、法までも冒す。
……。
自粛生活やワクチン接種・予防の徹底次第でコロナウイルスは防御できても、
上記のような心の貧しさによる人災は、防ぐ方法は無く精神衛生に打撃的な支障を来すのである。
そして、それによる被害者は黙して語らずで、その訳は……。(知る人ぞ知る)


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2021年06月07日

荘子 ➅

荘子 ➅_20210302 (4).jpg

       臣
       有
       守
       也

臣、守り有り。

私には、どうしても動かすことのできない主義主張があります。


(おもり)を作る工人は、歳が八十になっても作品に寸分の間違いとか手抜かり無かった。

ある人が、その道を訊ねた。

すると、その工人は、

「私は、権(おもり)を作ること以外は、何事にも目を向けないでやってきた」

と言った、という。


<管 見>

権:音読ではケン()・ゴン()

「解字」によれば、形声文字で、(元々は)測ろうとするものの重さと同じ重力(重さの原因となる力・引力)で、引く分銅の意味。

子供の頃、棹ばかりや天秤で目方を測るときに、分銅を加減して測っているのを見たり、見様見真似で手伝いをしながら測ったこともあった。(あの頃は、勉強より仕事を手伝う方が褒められた)

また、転じて権力の意味を表す(こちらの方が主に用いられている)


工人:工作を職業とする人・職人


道 :漢和辞典によれば、道路・道理・条理・万物の根源・働き・手段・主義主張・教訓・制度などの字義の他に、「技芸(の道)」の義がある。

  従って、今回の場合に該当するのは、「技芸(の道)」だろう。


名工と言われる人がインタビューに答えてのコメントでは、これまで一度だって、満足したものは出来ない」とか、「一生修行です」というような言葉を見聞きする。

これは決して、単なる謙遜とか言葉の綾などではなく、本音だろうと思う。


やはり、モノづくりを天職とする場合、満足・慢心・妥協は最大の敵なのだ。

この意図するところは、単に技術・技能といった形而下(物質的・感覚的・具象的)よりも、形而上(精神的・理念・普遍・実証的・抽象的)といった点においての拘りだと思う。


言い換えれば、体に沁み込んだプロ根性というか職人魂が許さぬのだ、と受け取るのが至当だろう。


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2021年05月31日

荘子 D

荘子 D_20210302 (2).jpg

             以
          養  鳥
       養    
       鳥

鳥の養いを以て鳥を養う。
さもないと、鳥は心から喜ばない。

昔、魯国の郊外に海鳥が飛んで来た。
珍しい鳥が来たというので、魯侯はこの鳥に音楽を聞かせ、人間の食べるご馳走を与えた。
然し、鳥は少しも喜ばず、食さないまま三日にして死んでしまった。
<教訓>
志の高い士は、ただ高い位や高禄だけで迎え入れることのできるものではない。
<注>「魯国」:「周公旦」の子「伯禽」を始祖とし、春秋・戦国時代に存在。(BC1,055〜BC256)
        春秋時代(BC770〜≒BC450)末の「孔子」(BC551〜BC479)はこの国の人である。
        現在の山東省南部に位置した、という。
        孔子の死後、衰退が顕著となり、やがて楚国に併合されBC249に滅亡。
        序でに記せば、「荘子」はBC369〜BC286。
<管 見>
何故、海鳥が珍しいのか?
暫く(2〜3日)の間、思いが及ばなかった。
    
ある朝、天気予報を見ていた。
すると、やがて全国から関東甲信越地方の画面に変わった。
その時、長野・群馬・栃木・埼玉・山梨などの県が海に面していないことに気付いた。
    
つまり、上記に連鎖して「魯国」は、黄海に面している部分もあるが、当時の都であった「曲阜」は、
黄海から西へ入った内陸であったことに、ようやく思いが至ったのだ。

よくよく自らの愚かさを思い知り、恥じることに至った。

つまり、「荘子の名言」云々の前に、我が身を顧みない自身の傲岸さを、改めて思い知ることとなったのだ。


というのは、自身に湧いた疑問を何の思慮もなしに、自分以外の誰にでも当てはまることとして、当然のように(海を背に育った己のことを中心に)前提として扱ったことにその因がある。

生来の不遜な性が、僅かな綻びから露呈しまったのが真相なのである。

この世には、内陸で育ち終生その地で、幸せに暮らす人たちへの思いが至らなかった訳になる。


その人たちからすれば、「内陸特有の優れた諸々を何も知らない輩が……」、となるだろう。

浅はかな自分に、今さらながら呆れるばかりである。


だから、前記の疑問は今更の感が拭えないけど、

魯国の都・曲阜の位置を考えれば、海鳥が珍鳥なのは当然なのである。


そんな愚生に、「魯侯」に対する論評などは出来ない。


従って、今回の「魯侯」に対する<管見>は、差し控えることにしたい。

     

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