2021年05月24日

老子 7

22 老子〜7_20210224 (2).jpg


       希
       言
       自
       然
希言は自然なり。

<注>
「希」   :音声の最も幽かな声(音)。
「希言」:無声。
音声が出るのは、
何かが何かに衝突したり、また、何かが何かと摩擦するときにのみ起こる、という。
「希言」(無声)こそが自然のありようだ、と老子は述べているのだ。
これはまた、無理をしてはならない、という戒めだとも言明している。

<管 見>
つまり、「無理押し」(強引)をすれば、複数のモノ(コト)がそれを基に一方乃至複数のモノ(コト)が、連鎖的に作動してそれらが交わる時に、音(声)が発生するのだ。
さらに、必要以上の力が作用して交わる時には、それに比例して激しい(増幅した)音声が生ずるのである。

これを老子は「無理」と表現。
「無為自然」は、老子の基本姿勢なのだ。(既述)

そう言えば、特に気にかかることがある。
それは、この世に必要以上のことが、益々著しくなっていることが多いことだ。
例えば、
*人工照明
*人工音(奇声・擬音)
*道(心)を忘れた勝負(勝ち負けの拘り・他を無視した無礼な言動・・・)
等々、である。

個々については、述べれば際限がないので省く。

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2021年05月17日

老子 ➅

21 老子〜6_20210223 (2).jpg


          
       者
       不
       行
跨ぐ者は行かず。

大股で歩く者は、決して遠くまで歩き続けることは出来ない。
何故なら、無理をしているからである。

<管 見>
この語句の前には、「跂者不立」[跂(つまだ)つ者は立たず]と、述べている。
つまり、背伸びをしてつま先だてば、重心が上がり接地面積が狭くなるから、当然不安定な状態となる。
その結果、しっかり立つ事も,また同じ状態を維持することも出来ない、という訳になる。

そして、歩幅を広くしてで歩けば、疲れてしまって歩き続ける事が出来ないのも,また然りである。

上記に記した「無理をする」のは、能力が無いのに他者より優位に立とうとする短慮が為せるのだろう。

ところで、「跂者」(きしゃ)も「跨者」(こしゃ)も、陸(ろく)・水平ではなく、傾斜・偏見・歪の類である。
* 自らや佞人の言動を全く正しいなどと吹聴するものは、明智の持ち主とは言えまい。
* 自らや佞人を限りなく是とする者は、独善的・自己陶酔型の偏った「心満意足」しか得られまい。
* 自惚れが強いものは、阿諛追従の輩以外(声なき声)からは褒め称えられる事はあるまい。
* 慢心の強いものは、それ以上成長する事はあり得まい。

老子の無為自然の勧めは、「自然に生きよ」という勧めに他ならない。
自分を大きく見せかけようとして、背伸びをしたり、人よりも少しでも早く目的地へ到達しようとして大股で歩いたりすれば、それは長続きせず、必ずいつかは、息切れがして、躓いたり、倒れたりしてしまうだろう。

序でに記せば、それらを断れない、これは無理だ、出来ないと言えないのは、何故なのか。
そこにあるのは、
   *人との競争に負けたくない、
 *立身出世の道から外れたくない、
 *駄目な奴だと思われたくない、
 等々、(見える形だけに心を砕くといった)自身を偏愛した欲望と見栄以外の何ものでもない。

これらは総て自分で自分の首をしめる行為に他ならない。
 *無理をしない、
 *背伸びをしない、
ということは、自分に相応しい努力をしながら、分を弁える(知足)という事に他ならない。
そうすれば、本当に楽に暮らせるよ。

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2021年05月10日

十八史略 @

S十八史略 @_20210219 (4).jpg

            指
        鹿
        爲
        馬
鹿を指して馬と為す。

鹿を指して、馬だという。
人を威圧して馬鹿にする、また人を愚弄することの意。

これは、秦の丞相・趙高の強弁だという。

<注> 趙高:宦官。始皇帝の死後権力を握り、遺言を書き換えるなど横暴ぶりを発揮した。

      

趙高は、秦の二代皇帝に末子の胡亥を強引に即位させて実権を握ると胡亥を傀儡化し、自らは裏で形ばかりの皇帝を操る黒幕となった


そして、自らの権力ぶりを誇示するために皇帝の胡亥に「鹿」を献上して、

「これは、馬です」と言った。

皇帝は、不審に思い臣下たちを見たが、殆どの臣下は趙高を恐れて黙っているか、「馬」と答えた、というのだ。

<管 見>

愚生の経験からすると、全員が趙高に対して幇間のような者ばかりではなかった、と思う。

少なくとも、一人くらいは剛直・頑固者がいただろう。

何故なら、何時の世にも世間から変わり者、と言われる愚直を良しとする奴がいるのだ。

だから、そのような想定から、次記のようではなかったか?

@「馬です」と言った者。

➁「・・・」ただ黙っている者。

B「鹿です」と答えた者。

これら三者の答弁に分かれたのが、真相であろう。


@は、趙高に媚び諂う輩。

➁は、洞ヶ峠・日和見を決め込む輩。

Bは、事実をありのままに述べ、反骨精神を示した人。

Bの人たち(一人若しくは少数)は、即、殺害された。


その後も、事あるごとに賢者たちは次々と処刑された。

結果、始皇帝健在時には、豊富であった有能な人材も枯渇することになった.


趙高は恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに民から恨みを買うことになったのだ。


やがて、秦帝国は崩壊への道を辿ることになる。

本当は、「民」(弱者)ほどいざという時には強くて恐ろしい者はないのだ、ということを知るべきだ。


然し、それを知った時には、時すでに遅しなのである。

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2021年05月03日

洪自誠(菜根譚) ➁

R洪自誠(菜根譚) ➁_20210219 (2).jpg

              病
          以
        保   可 

        身     

病は以て身を保つべし。

病気というものがあるがために、人々はとかく等閑(なおざり)がちな保健衛生に注意を向け、
心身の健康を保つことに留意するのだ、というのである。
要するに、物事は捉え方次第で大きく変わる、ということだ。

<管 見>
そういえば、確かに「過去」は変えることは、何人にも出来ない。
然し、その「過去」(結果)の捉え方次第で、「現在」「未来」への姿勢を変えることは可能だ。
つまり、捉え方次第で結果に大きな差が生ずる、という訳になる。
例えば、「逆境」に立たされた時、
@この「苦境」を自分への人生の課題だ、と捉えて努め励む者。
➁この「難局」には耐えられないと諦めて、背を向けて匙を投げだしてしまう者。
@の場合は、無限の可能性を秘めている。
➁の場合は、可能性は皆無であり、その結果同じことを繰り返すだけで、何も残らない。
その差は、天命によって生を受けた者として、
*全う⇒完全燃焼⇒満ちた人生
*放棄⇒不完全燃焼⇒虚しい人生
となる。

また、病気をするとそれを機に我が身を大切にする心が芽生える。

したがって、どんな心配事もそれは喜びの因になるとも解釈できるだろう。

また、そのように理解するべきだ、というのだ。

人は、「順境」だと喜び,「逆境」だと悲しむ、というのが一般である。


然し、「禍福は糾える縄の如し」である。

従って、順境の場合は、有頂天になって手放しで喜ぶのではなく,次に備える心構えが肝心である。

また、逆境の場合には、「一陽来復」を訓言とし、諦めずに頑張ることが大切なのだ。


真人と言われる人は、喜びだとか悲しみだとかの区別を忘れている、いわれる。

つまり、微生物の世界も宇宙の世界も、陰・陽、正・負、調和・不調和などは僅かな現象なのだ、という。

だが人は、

「苦」の場合は、大きく・長くなど「負」を実際よりも重く。

「楽」の場合は、小さく・短くなど「正」を実際よりも軽く。

と、受け止めがちである。

だが、それは心身の健康状態とも相俟って、決して一様ではない。


それに、禍福は特別な人だけに訪れるものではない。

万人の人生に等しくやってくる「ごく当たり前のこと」という風に捉えるのが賢明なのだ。


さらに短見の歩を進めれば、

災厄は、人類の傲慢さに対する天命なのだ。

今、直面している難問題を克服しても、決して終わりは無いだろう。

何故なら、人の「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という性がある限り永遠に続くからである。

それは、苦労して積み上げた石積みをいとも簡単に崩されるに等しく、反省と果たすべき努めを、際限なく繰り返し求めるものと、解すべきである。


ならば、継続した生のためには、「一病息災」をキーワードとして暮らすことだ。


人は、誰しも僅かの安らぎのために、日々の大半を費やすのを当然として生活している。

畢竟、少しの楽しみのために、多くの努めを惜しまないのが人生の嗜みだ、と思う。


苦い体験を経て経験と昇華した時、改めて「苦しみこそ人生の糧」だとしみじみ味わうことだろう。



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2021年04月26日

洪自誠(菜根譚) ➀

Q洪自誠(菜根譚)➀_20210211 (2).jpg

                水
         境  
         無   
         聲
水流れて境(きょう)に声無く、喧(けん)に処して寂を見るの趣を得ん。
<注> 境:四境=四方の国境=周辺

大河は、漫漫としながらも周辺は音がしない。
その訳は、大きくて流れが緩やかだから、という。

<管 見>
確かに、悠然としたさまは大河なるが故であろう。
だが大河たる所以は、ただ視覚から受ける感性だけではない、と思う。

その視覚からの雄大さに比して聴覚で感ずる音の量は比例せず、
黙するが如くであることが、悠然さを一層のものとしているのだ。
それらの感覚が融合して(作者〜洪自誠の)琴線に触れ、大河の味わいを覚えたのだろう。

そこには、ただ見える形が幅広く長さ大なるという、横方向の面的な、というだけではないのだ。
だから、この場合の素因には、縦方向(立体的)である水面から下(底までの深さ)にこそ、その趣意があるのだ。
また敢えて付すなら、形の長大さと幽かともいえる音の組み合わせが、絶妙の味わいを醸し出していたのだろう。

つまり、「見えにくい」・「聞こえにくい」からこそ、心に深く沁みるのだ。
そして、そこに大義があるのだ。

人も然りだろう。

昨今、これ見よがしの音・色で溢れかえっている。
目も耳も、鈍くなってきたのは、あながち加齢の所為だけではあるまい。

そう言えば誰かが言っていたけど、あの婆さんの口から出るのは「話し声」ではなく、「騒音・雑音(おと)なんだよ!」と・・・。
それを聞いたときには、思わず声を出して笑ってしまったけど、蓋し「名言」だと感心した。
懐かしい話しになってしまったけど、あれから何年経ったろうか。

自粛すべき時なのに、益々騒がしくなる一方の世間。
感覚機能である「五感」だけでなく、人間性の要素だと言われる「知情意」までもが、麻痺されてしまう。
これはもう人間社会ではない状態である、と言わざるを得ない有様だ。
嘆かわしい限りである。


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2021年04月19日

荘子 C

P荘子 C_20210208 (2).jpg

       愚
       故
       道
愚なるが故に道なり。
「愚」は、世間的には歓迎されない。
然し、その愚には人間の賢しらな知識が働いていない。
だから、それこそ本当の道に合するものだ。

<管 見>
「愚直」という言葉がある。
言い換えれば、「馬鹿正直・一途なこと」ともいえるだろう。

「愚直な人」は融通がきかない。
だから、規則・約束を破ったりされることを嫌う。

相手が目上だろうと目下だろうと、区別はしない。
つまり、相手によって対応を変えたりするようなことはせず、自我第一なのである。

要するに、柔軟な対応能力に乏しいともいえる。
損をすると頭で解っていても、どうしても精神が許さないから、我が道をいくのだ。

形だけの名利の者に限らず、佞弁で世間を渡っている輩は、「諫言」よりも「甘言」を好む。

なれど、「愚直者」には権力者の顔色を窺っての言動なんてことは、死んでもできないのである。


何時の世でも、「愚直者」は少数派である。

従って、世間的に喜ばれない。

然し、その愚には人間の賢しらな知識が一切働いていないのである。

だから、それこそ本当の道に合するものだ、と荘子は説く。


マイ・ウエイお世辞まっぴらで 損もするけど…(有馬三恵子・訳詞)と、かつてのバーブ佐竹は歌っていた。

まさに、「我が生き方・我がやり方・我が道」であり、俺にはそれしかないし、それしかできないのだ。


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2021年04月12日

荘子 B

O荘子 B_20210206 (2).jpg

      樂
      出
      虚
樂は虚に出ず。

音楽の音は、笛にしろ、鐘にしろ、全てその空虚の部分から起こっている。
人間も心を虚(空・殻〜内部が空っぽの状態)しくしていなければ、本物は生まれない、というのだ。

<管 見>
改めて、「寡欲」を守り、「虚心坦懐」に努めたい。
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2021年04月04日

孟子 14

67孟子 M_20210812M.jpg

        無
        知
     無   之
          
             

恥ずることなきを之れ恥ずれば、恥無し

無恥を恥じる心があれば、この人は恥ずべきことの無い人である。


<管 見>

 恥を知るとは、自らの誤った行いを恥ずかしがる心があることである。

孔子(BC552BC479)は、

「己を行うに恥あり」と、自分の行動について、恥とは?ということを弁えている「士」(学問・道徳を具えている人)の精神を大いに讃えている。

また、「恥を知るは勇に近し」とも言っている。

人が自らを恥ずかしがることは勇気が必要であり、恥を知ってこそ金銭の欲を抑えられ、困難に負けず、謙虚でいることができ、他人に対して思いやりを持って接することができるのだ。

孟子(BC372BC28)は、

「悪を恥じる心がないのは、人間でない」とも言っている。

孟子の「性善説」は、人は生まれつき、哀れむ心、恥じる心、謙虚の心、是非の心を持っており、これらは仁、義、礼、智の芽生えであるとし、

これら人類にしかない善の性は、禽獣や虫魚には備わっていない。

人は悪を恥じる心があるから、名利を前にして立派な節操が働くのだ。

 また、

「人は恥知らずではならず、恥知らずの恥こそ、恥知らずなり」との言もある。

即ち、人は恥をなくしてはならない、恥知らずという恥は本当の恥知らずである。


 自身の能力不足を素直に、そして躊躇わずに認めるという言動は容易なことではない。

人が自分の不足を恥と感じ、改正する勇気があれば、まだ救いがある。

* 恥そものの、意識が無い(恥を恥と思わない)

* 人の反応を勝手(自分に良いように)な解釈して、自慢にする。

 * 人の反応を勝手(故意な悪評と捉えて)な解釈して、反省せずに開き直る。

朱熹(11301200)は、

「人に恥じありて、為すべきでないことを為さない」と言っている。

人に恥じる心があったら、してはいけないことをしない。

恥を知れば、自ずと意志固く、貧富、得失、利益において取捨選択ができ、欲望に走らない。

そうでなければ、恥じる心がないとなんでもやりかねない。

呂坤(りょこん)15361618・明代の学者)は、

「五刑は一恥にかなわず」と言った。

即ち、如何なる厳罰でも、百姓(ひゃくせい)(人民)に恥を知ってもらうことに敵わない。

人に廉恥(れんち)(恥を知る心)を知ることは刑罰より大切で、道徳が高まることで恥を知れば、自ずと言動を弁えるのだという。

これは法を犯してから刑罰するより効率的である、というのだ。


ドストエフスキーの「罪と罰」では、(主人公の学生の理論と実践について)

➀理論(理想):罪悪(殺人など)は善行(社会貢献)によって償われる、とする勝手な立論。

➁実線(現実):目的とする殺人以外にも、殺人を犯してしまう、という実態。

B結果:@と➁のギャップに増長する一方、苦悩する主人公。

そのような中にあって、家族の為に献身的な自己犠牲に生きる女性を知り、自首する。

という人間回復の物語だが、これも真の善というものを知らない成長過程にある若者とはいえ、人としての勝手極まる恥ずべき行為だろう。

序でに記せば、

」は、会意形声文字で、心が柔らかくイジケルこと、また、恥じて耳が赤らめること。

大辞典(漢和辞典・昭和41年初版)によれば、会意文字で、(六書総要)《心は耳に従うとあり……、心が柔らかくイジケルこと》、という。

 「しゅう」は、恥じて心が縮まること。

 「()」は、恥ずかしくて心にシコリがあること。

 「(じょく)」は、柔らかい意を含み、恥じて気後れすること。

 「(さく)」は、ドキッとして、顔色が変わること。

 何れにしても、外部から或いは自らの情報を素直な感覚で受け止めて、素直な心へと伝達するという互いに密接な関係にあり、自らの心を咎めることが肝要なのだろう。

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2021年03月29日

老子 C

,M老子C_20210203 (2).jpg

            國   民
        家   多
        滋   利
        昏   器
民、利器多くして、国家滋々(ますます)昏し。

文明の利器がふえてくると、世の中は明るくなるよりも、むしろ暗くなってくる。

<管 見>
科学というものの目的は、人々の幸せのためという純粋な心からスタートしたものである。
そしてその思い(願い)は、人智と天恵により実現する。
だが、この恩恵を得る人間は、「諸刃の剣」という言葉を熟読玩味せねばならない。

便利さは、幸福のみを齎すものではない、ということだ。
然も、それはやがて体験⇒経験によって、災禍が利便さを凌駕することを思い知ることになる。
さらに、それによる人の心身への悪影響に限らず,自然界のあらゆる生物への悪影響をもなのである。
例えていうならば、工場排水による「食物連鎖」が挙げられる。

「人間は考える葦である」(弱い存在だけど、考える能力がある)という言葉がある。
また、
「人間は万物の尺度である」(相対主義〜人によって知覚が異なる)というのもある。

例えば、携帯電話は便利だけど「信の心」を授受をすることが完璧に可能だろうか?

だから、科学技術をもって生物の頂点に君臨している人間は、驕ることなく謙虚に誠実な姿勢を保つことが肝要なのだ。
加えて、現代の便利な機器は人間の心身を衰退させる、ということも見落としてはならないだろう。


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2021年03月22日

老子 B

L老子B_20210125 (2).jpg

                 我
         持 三 有
       保 而 寶
           
我に三宝あり。
  持して之を保つ。

わたしには三つの宝があり、それをしっかりと抱き保っている。
その三宝とは、
「慈」、すなわち「情け」である。
➁「倹」、すなわち「慎ましやか・飾らぬこと・謙虚・控えめ 」な言動である。
B「敢えて天下の先と為らず」、すなわち「人の一番後方(しりえ)にいること」である。

<管 見>
上記(老子)の三宝を玩味し、改めて己に照らし合わせてみた時、
➀は、常に(何時でも・何処でも不変)ではなく、時に応じての情動次第(手前勝手)なのだ。
➁もまた然りである。
Bは、積極的な言動ではなく、己の不徳から招いた結果としての位置なのだ。
だから、愚生の(老子のいうところの)三宝に該当するものは、皆無ではないけれども乏しいものといえる。

愚生自身「日暮れて途遠し」の感を拭えないことは、十分承知している。
けれど、生来の頑固さは今も健在故、これを基にして生ある限り惜しむことなく努め、挑み続けたい。

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2021年03月15日

K老子 A

K老子A_20210125 (2).jpg

            善
           爲    用 
           之  人
           下    者
善く人を用うる者は之(こ)が下(しも)と為る。
(特に、多くの)人を上手(巧み)に使おうと思うなら、自分がいちばん低いところに居る心掛けが必要だ、というのである。
※先ずコトに当たるには、いきなり行動ではなく構想・立案からだろう。

<管 見>
それには、相手であるヒト・モノなどを確り知らねばならない。
加えて、その時の己の立ち位置が肝要となる。
例えば、
➀上からとすれば、頭の天辺しか見えない。〜全体や内部を掴めない。
➁横からとすれば、横(片面)しか見えない。〜仝上。
⑶下からとすれば、相手が下位だと侮って(油断して)いるから、全体・内部まで確り把握できる。

愚生の体験⇒経験から記せば、これを作為的つまり故意に行うには疑問を覚える。
というのは、
*元来(生来)、「徳」の高い性を有する人。
とか、
*「徳」に欠けているとしても、高めようと努力し、その結果数多の人たちから認められた人。
が、自然な形としてリーダーとなるに相応しい人なのだ、と思う。

だから、人生の途次、それも望ましくは若いうちに、己を確と把握・分析して「徳」の限界を見極めたら、
できるだけ下の位置を選ぶことが最良で唯一の生き方だ、と思う。
(というと負け惜しみのように思えるだろうけど、心の底から良い選択だったと思っている)

多様な人生行路、上だ下だと神経を費やすよりも、自己責任で選び定めた職の道に励み、究めることに徹するほうが、
己にとって至道であり、結果として悔いのない人生に繋がることだろう。
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2021年03月08日

荘子 A

J荘子➁_20210124 (2).jpg

                 拙
            用
         大     於

         矣
大を用うるに拙(せつ)なり
大きなものを用いるには、それ相当の用い方がある、という。
さらに、それを知らないとは愚かなことだ、と言い切る。

これには、梁の宰相恵子(けいし)が荘子に話したという、こんな余話がある。
「かつて魏の王が私に大きな瓢箪のタネをくれたが、実ったものがあまりにも大きすぎて瓢箪の用をなさないので、
 打ち割ってしまった」というのである。
それを聞いた荘子は、
「あなたは、大きいものを用いることを知らない。その瓢箪が水や酒を入れるのに大きい過ぎるなら、
 それを舟の代わりにして湖で遊ぶこともできように・・・」と言った。

つまり恵子(けいし)は、瓢箪は水か酒などの飲み物を入れるものだ、という固定観念に捉われているのだ。

恵子の人柄については、然もありなん=Aという次のようなエピソードがあるのだ。

恵子と荘子は、友人であり論敵だったらしい。
荘子は、恵子が梁の宰相になったというので、なんの邪念もなく会いに来た。
だが、ある人が、
「荘子は、あなたが宰相になったと聞いて、あなたになり代わって宰相になろうとしているみたいだよ」
と告げた。
それを聞いた恵子は、部下に命じて三日三晩国中を封鎖させた、という。
それからの話しには続きあるのだけれど・・・、それは述べるまでもあるまい。

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2021年03月01日

韓非子 ➁

I韓非子➁_20210123 (2).jpg

           可     老
           用  智  馬
           也     之
老馬の智用うべし

東周・春秋時代の話しである。
春秋五覇の筆頭に挙げられる斉の桓公と、
管鮑の交わりで知られる桓公を補佐する名宰相の管仲などが、
小国の孤竹を征伐するために出かけた。
戦いに赴いたのは春だったが、戦いを終えて帰路についた時は冬だった。
折しも、頃はまさに厳寒期のうえ悪天候・悪路など過酷な条件が重なった。
軍隊は山中を彷徨う内寒風吹き荒れる中、何時しか方角を失い道に迷ってしまった。

将校以下臣下の各々は、思いを口々に言い合うだけで、まとまりのない烏集の様相を呈するだけだった。
そんな状況の中、管仲は思案した結果、誰もが考えもつかない妙案を思いついた。

管見
このような時には理屈より感覚の勝負だとみて、人間よりはるかに優れている感覚の持ち主は?
   その条件に合致するのは、
   @人間以外での動物としては、同行している軍馬のみである。
   A戦いでは若い馬に席を譲るが、こんな場合は経験豊かな老馬の出番だ。
との考えに至ったのだ。
   〜この時代から2300年ほど後になるが、米国の詩人、ロングフェローの詩「建築師」にある、適所適材だ〜)
ー閑話休題ー
管仲は、徐に自分の考えを述べた。     
「こんな時には、年老いた馬の経験に頼るのが良策だろう」
日頃から、誰もが認める管仲の言葉だったから、言われるに従い駄馬の中から一頭の老馬を放った。
老馬は、暫く周囲のあちこちを探るような様子だったが、とある方角を目指して歩き出した。

道無き道を、ひたすら老馬を信じてその後に従った。
その結果、管仲の思惑通り老馬は期待に見事答え、帰り着いた。

人間社会にあっても、然りだろう。
「思弁」(論理的思考)もさることながら、時には「経験」に拠ることも必要なのだ。


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2021年02月22日

韓非子 @

H韓非子@_20210121 (2).jpg
             ・     ・ 
           最 描   難 ど
           も く   し ち
           難 こ   い ら
           き と ⇒ か を
           ぞ 孰    、描
            、れ   言 く
           曰 か   わ の
            。    れ が
                 た      
                  。      
            鬼  犬
        魅  馬
        易  難

犬馬は難く、鬼魅(きみ)は易し。
〜犬や馬を難しく、鬼魅(鬼神・妖怪の類い)を簡単だ。

春秋時代、斉の王が、画工に対して、
絵を描くのに何(どちらを)が最も難しいか聞いたところ、
このように答えたという。
その訳を問うと、
*犬や馬は誰しも見知っていて、それだけに上手く描くことは容易ではありません。
 それに対して、鬼・化け物は見た人がいない、どう描いてもこんなものか、
 と思うだけだから楽なのです。
管 見
世の中には、常に小賢しく異(異見)を唱えて高し(高尚)となす人がいるが、
実際は、ごく平凡な
*日常のコト(モノ)
*ありふれたコト(モノ)
*身近なコト(モノ)
の実現が一番難しくもあり、また貴重であるのだろう。

序でに記せば、(以前、平家物語を読み、それに因んで学んだ〜)『臨済録』にあるといわれる、
禅語の「無事是貴人」(特別なことより、無事がなにより。あるがまま当然のように生きていくこと)
の言葉が呼び起こされた。

元来、手前勝手な愚生は、とかく日頃些細な事柄に対してもつい不平・不満を口にしてしまう。
その反面一旦災厄が起こると、平凡なことの有り難さを望む、という年を経ても治らない厄介な性分だ。
(当たり前の有り難さ)

八十路に入った現在、まさに愚老である。
「鉄は熱いうちに打て」というが、冷めきってしまった現在、最早遅しである。
ならば、せめて「無事是貴人」を胸に刻み、反省の繰り返しであろうとも、日々の精進に努めたい。

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2021年02月15日

淮南子 ➀

G淮南子_20210119 (2).jpg 

      馬   舟
    見 奔 見 覆
    良 乃 善 乃
    御   游
舟覆(くつがえ)りて乃(すなわ)ち善()く游(およ)ぐを見、
馬奔(はし)りて乃ち良く御(ぎょ)するを見る。

舟が顚(転)覆した時に、
     そこではじめて泳ぎの優れた人間であるかどうかを知ることが出来る。
馬が突然走り出した(暴走)時に、
     そこではじめて馬術に優れた人間であるかどうかを知ることが出来る。

普段、人は皆ほぼ一様に見えたり、思えたりする。
だが事態が一変し、危機に陥った際には人によって、その差は大きく異なってくる。
それは、時間的余裕があれば、自力で思案できようし、仮に能力不足でも他に頼る方法もあろう。
然し、咄嗟の場合には地力で勝負するしかないからだ。

その時の人たちを愚生の独断以て大雑把に分類するならば、
次の三つのタイプになるのではないだろうか。
@普段と変わらず沈着冷静に思考し、大局的見地から他の人たちに対応を提案、指導する人。
A一時は狼狽えるけれど、上記@の人に従い他の人たちとも話し合い協力し合う人。
⑶パニック状態に終始し、上記@・Aの人たちの説得にも応じず離れて行く人。

また、上記@・A・Bにあって、自己の損得で行動パターンを変えたり、決めたりする人。

彼方此方と放浪人生を歩んできた愚生は、
組織のトップや幹部、また一般の人々の「真の姿が明らか」になるのを何度も味わってきた。

歴史は語る。
かの浅野内匠頭切腹時の赤穂藩の家臣の数は不明だが、仮に士分だけで400人とすると、
討ち入り人数は、大石内蔵助以下47人だから、約12%となる。

これを前記の三タイプに当て嵌めれば、
@・➁は、大石以下47人。大石の1,500石は別格として、大概の者は200石以下の下級武士で、
 中には部屋住み身分・浪人中の者・足軽など主に下級武士たちだった。
一方、
Bは、大野黒部衛など1,000石クラスの重臣や比較的高禄の者が離脱した。
歴史は繰り返す、である。


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2021年02月01日

荀子 ➀

E荀子_20210114 (6).jpg

公は明を生じ、
偏は闇を生ず。
心を公平に保てば、世間のあらゆるコト(モノ)が自ずと明らかなり、
理解が容易となり深まってくる。
若し,愛憎や利害のために心が不公平になると、心の中が五里霧中の状況となり、
世の中の姿が正しく映らないから闇となる。

建築用語に「陸(ろく)」という言葉がある。
意は、水平・平坦である。
物質的には、床が微小に傾いただけで建具などに限らず他の部分に不具合が生じさせるが、
一方、精神的についても吐き気や眩暈などの健康障害の発症、即ち心の闇を生じさせるのだ。
これはまた、人間の微妙な感覚への影響による心身に素早く障害を及ぼすという反面、
機器と異なる人の心はその原因の判明に至るまでかなりの時間(期間)を要するという、
二律背反を物語ることなのだ。

建築界に止まらず、他のあらゆる分野でも然りである。
つまり、「陸」は正常・歪みのない姿やさまである。

人は五感を通して対象物を捉えて、意(心)に至り、脳で判断する。
その際、五感が傾いたり歪んだりしていたら、どうであろうか。
まともな社会では、到底通用しない言動をしてしまうことになる。

蛇足というか、下手の長談義になってしまうけど、
巷間、「ろくでなし」とか「ろくでない奴」などと言う。
この「ろく」に上記の「陸」を当て嵌め、打ち消しの「無し・無い」を付ければ、首肯できよう。
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2021年01月25日

老子 ➀

D老子_20210114 (4).jpg

            美   信
          不   不
            言   言 
          信   美  
                      

「信(まこと)の言葉は、

    美しく飾ったものではなく、

また、

飾った言葉は、

    真実を欠いたものだ。」(老子)という。


自ずと、「質実」「素朴」「朴訥」などの言葉が浮かび、
そして、その対義語として、
    「巧言」「美辞」「佞弁」などの言葉が湧いてくる。

そう言えば、「質実剛健」という言葉は男性だけを象徴するものと、
思っていたけれど、
有吉佐和子の『孟姜女考』(秦時代の烈女物語〜ルポルタージュをまじえた解説)に、
「質実剛健な気性用例という長く忘れていた美徳への郷愁が沸き起こり、
それが日本人たちがこれが高い石段を登って行くための直接の行動力になった。」
と、あるというから、改めて辞典を紐解くと、
<飾り気がなく、真面目で、強く、しっかりしていること>とあるから、
今時の、男性よりかえって女性に向いた語かもしれない。


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2021年01月10日

不言仁恵

不言仁恵_20210110 (3).jpg

「不言仁恵」
これは、愚生の造語である。
  仁恵:*憐れむ。
     *慈悲。
     *思いやりの心をもって、情けをかける。
己を中心(標準)としたとき、周囲のそれぞれの人たちを、
次の三つのタイプに分けて考える癖が、愚生にはあるのである。
但し、これは名利・貧富・経歴・能力などによる、所謂、偏重的分類ではない。
敢えて記せば、陰陽五行説でいうところの相性・相克の意の傾向が濃いであろう。
@到底解り合えない人たち(相克)ー理解不能。
A気軽に接し会話できる人たち(限定的相性)ー呼応・打てば響く(比較的)
B心友(相性)ー不言の言(言葉の奥にある真意を汲む)を聴くことのできる人(人生樂在相知心)
それぞれの理由の詳細については、述べるまでもあるまい。
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2021年01月09日

呟き

王安石 _20210109.jpg


※今回は上記のみの掲載とし、敢えて余計なことを述べないこととする。
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2021年01月08日

独り言

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